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           仏教の視点で人間と社会を考える ぶっけみょうほうじっく

宗教入門

無宗教と日本人
日本人は何故宗教を恐れるのか
タマ(霊魂)と霊振り(タマフリ)
穢れ(ケガレ)と祟り
怨霊(御霊)と鎮魂(タマシズメ)・・・御霊信仰
忌みと禊ぎ
埋墓と詣墓・・・両墓制
黄泉の国と常世の国・・・来世観

無宗教と日本人

 日本人は無宗教であるとよく言われる。ある調査によれば、日本人全体の70%が無宗教だと答え、同時にその75%が「宗教」は大切だとも答えているという。いったい、日本人は宗教をどう考えているのだろうか。

 広辞苑で「宗教」の項を引くとこうある。“神または何らかの超越的絶対者、或いは卑属なものから分離され、禁忌された神聖なものに対する信仰・行事またはそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同体社会(教団)を営む。アニミズム・自然崇拝・トーテミズムなどの原始宗教から、呪物崇拝・多神教などの低級宗教を経て、今日の世界的宗教即ち仏教・キリスト教・イスラム教に至るまで、文化段階・民族などの差別に随って多種多様。”とある。

 要するに、宗教とは人智を超えた存在・力に対する畏敬の念である。宗教学者の阿満利麿先生によれば、宗教には自然宗教と創唱宗教があるという。「創唱宗教」とは、特定の人物(教祖)が特定の教義(教典)を唱えてそれを信ずる人たち(教団)がいる宗教のことである。これに対して、「自然宗教」とはいつ誰によって始められたかもわからない、自然発生的な宗教のことであり、教祖、教典、教団をもたず、無意識に先祖たちによって受け継がれ、今に続いてきた宗教のことであるという。ここに言う自然宗教は宗教伝統と言い換えてもよい。

 
この定義に従うと、仏教、キリスト教、イスラム教、或は、新興宗教、新宗教と呼ばれているものは創唱宗教である。日本の神道を含め、アニミズム・自然崇拝・呪物崇拝等は自然宗教である。

 また、「救い」と「信」の有無によっても両者を区別することが出来る。創唱宗教ではその教祖ないし教義(神・仏)に対する信徒の救いと信があり、信徒個人の人生、生き方をも支配する。また、創唱宗教では救いと信が「伝道」によって広く社会に流布される。これを「救いと信」の社会化という。対して、自然宗教(宗教伝統)では自然や精霊、悪霊、呪物に対する人々の畏敬あるいは畏怖の念はあるけれども、救いや信があるわけではない。その宗教儀礼の多くは慣習化されており、日常生活の一部となっている。初詣、お札を祀る、氏神の祭典、そして、葬送儀礼(通夜・葬儀)あるいは墓参・お盆もなども慣習化しているという意味ではこの中にはいる。畏敬・畏怖の念は既に社会化されており、それらは人々に共有されているのである。

  このように、普通の日常生活の中に我々は多くの無意識な宗教性を発見することが出来る。無宗教なのに、同時に75%の人が宗教は大切と考えているその謎の原因がここら辺にある。つまり、日本人の考える宗教とは創唱宗教のことであって、日本人の多くが大切と考えている宗教は神仏に対する「畏敬・畏怖」の念である。

日本人は何故宗教を恐れるのか

  そもそも、日本人はいつごろから宗教に対する恐怖感を持ったのであろうか。平安末から鎌倉時代にかけて、念仏、禅、題目等の新仏教が勃興し、仏教が大衆化した。これはどういうことかと言えば、人々が「個」の自覚を持ったということである。室町から戦国時代にかけては、一向宗(真宗教団)が教線を拡大した。それは「救い」と「信」に裏付けられた「個」の集団であった。教団が教団の意志で地域を形成していった。郷村はしばしば一向宗の教団組織と重なった。北陸ではついに政治的にも一向宗の支配するところとなった。

 危機感をもったのは当時の領国支配者であった。信長、秀吉、家康らも例外なく宗教(一向宗)問題に頭を悩まされた。支配者たちは弾圧と懐柔を適時使い分けた。門徒(一向宗)と支配者は死生観を共有していた。その意味で懐柔も可能であった。しかし、キリシタンは日本人とは異なる死生観を持っていた。当時の日本人の常識では理解出来なかった。妥協の余地がない。だから、禁止したのである。

  島原の乱は日本の仏教がその創唱性を失って宗教伝統化した契機であった。幕府がキリシタンを禁止し鎖国したのは、キリシタンの背後にヨーロッパ列強の侵略意志をみたからであった。幕府は寺壇制度を通してキリシタンを監視した。寺壇制度は寺社奉行の下、寺請制度によって民衆を強制的に仏教徒化し、また、寺院に葬送儀礼を独占させて経済的側面からも仏教を保護した。仏教は民族の宗教伝統を取り入れることによってその創唱性を徐々に失っていった。同時に、布教(伝道)の熱意も失った。明治以後から現在に至るもこの傾向に変わりはない。寺は風景であり、日常生活の一部である。檀家の意識はあっても仏教徒の自覚はない。だから、無宗教である。

  寺壇制度は地域に根ざした組織である。幕末から明治にかけて、社会の混乱に乗じて新しい宗教運動が興ってくる。本門仏立講。天理教。大本教等々。キリスト教も含めてであるが、その存立の基盤は個人の信にある。教団組織は地域に根ざしたものではなく、信者の集会はしばしば地域では異常な現象として人々から見られたに違いない。いずれ、社会的に認知されて大教団に発展するのであるが、大衆の感覚からすれば、宗教(創唱)は自分たちの日常とは異なる空間であった。宗教に対する大衆の感覚は「異空間」そのものである。だから、理解できない、そして、宗教は怖いとなる。

  また、阿満先生によれば明治政府は列強諸国のキリスト教の解禁圧力に対し、それを解禁する一方で、宗教を内と外に分けることによって、個人の内面の信教の自由は保障するが、布教等の外面は社会秩序(天皇制)に従うべきとした。つまり、宗教は個人の内面にかかわる事柄であり、「個人の私事」である。ここで言う宗教はキリスト教を想定しており、従って創唱宗教をさしていることは明らかである。こうして、宗教とは創唱宗教のことであり、個人の私事である。社会の秩序を乱さない限りにおいて許されるという宗教に関する「常識」が一般化したという。

タマ(霊魂)と霊振り(タマフリ)

 神仏に対する畏怖・畏敬の念はどのようにして形成されたのか。ここからは、日本人の死生観について考えてみたい。

  我々はよく「魂」(たましい)という事を言う。魂が入る。魂が抜ける。武者魂。職人魂。武士の魂(刀)。職人の魂(道具)等々・・・。この時、我々は「魂」という言葉にその人、その物の「生命」(いのち)ないし「生命力」を感じている。また、人形供養、針供養というような風習は人形や針に人と同じ生命(いのち)を見る心である。この日常何気なく使っている「魂」という言葉に我々日本人の死生観を読み解く鍵がある。

 このように、あらゆるものに生命的なものをみていくのが日本人である。この生命的なものを霊魂(たま)(精霊)といい、この霊魂は人間ばかりでなく、自然界の動植物、山、川、森等にも宿っており、死はこれらの霊魂そのものがそのもの自体から遊離する状態である。我々の先祖たちはこう信じていた。これはアニミズムである。未開民族には共通の宗教観である。

 しかし、我々の祖先たちはこれらとは別の観念をより強く持っていた。それは万物には生命力(マナ)があり、ある種のものには人間能力を超えた力(呪力、霊力)があるとする考え方である。これをアニマチズムという。祖先たちはこれらの生命力の根源をタマ(霊魂)と呼んだ。あらゆるものにはタマが宿っており、人間は或る程度このタマに働きかけることによって対象(タマ)の生命力をコントロール出来ると考えた。これは呪術である。宗教学者の土橋寛博士によると、先祖たちにとっての根源的な生命力はその活動が揺れ動く姿で観念されていたと言う。そこで先祖たちはタマを振り動かすことによってそのものの生命力(霊力)を活性化出来ると考えた。これらを魂振り(タマフリ)という。つまり、呪力のあるものを振ることによって対象の生命力を活性化するわけである。現代でも神事に使用する御弊はかかる意味での呪物がその本来の姿である。

 花見を楽しみ、山の青葉に感動する。我々日本人にとっての何気ない日常の振る舞いも、土橋先生によれば自然の霊力を我が身に取り入れたい「霊振り(タマフリ)の為」であるという。ここでは「見る」という行為がタマフリになっているわけである。

 また、日本の神の名をみると、圧倒的に「何何のミコト(命)」といわれているものが多い。イザナギの命、イザナミの命、スサノオの命、大国主の命等々・・・。我々の祖先たちにとって、生命力(タマ)そのものがカミであった。だから「
(いのち)」なのである。生命力(タマ)を活性化するタマフリは日本人にとっての神事の基本である。 

穢れ(ケガレ)と祟り

  生命力の増進を期待し、生命力の衰退を怖れる心理が我々日本人の宗教観の基底にある。前者が加護(御利益)のカミを、後者が祟り(災い)のカミを生んだと考えられる。

  生命力の増進を期待し、生命力の衰退を怖れる心理が我々日本人の宗教観の基底にある。前者が加護(御利益)のカミを、後者が祟り(災い)のカミを生んだと考えられる。

 土橋博士によればケガレは本来は「気涸れ」であって、ケ(霊力)の枯渇した状態をさしている。「死」は人間の力ではどうする事も出来ない「気涸れ」の状態である。ほおっておけば、災い(祟り)をもたらす。こうして、「気涸れ」は「穢れ」に転化していったと考えられる。

 霊魂(タマ)は人間の本体である。肉体はその「入れ物」にすぎない。単純化すれば、「人間=肉体+霊魂」と表現出来よう。死とは肉体と霊魂が分離された状態である。それは人力を超えた最悪の「気涸れ=穢れ」の状態である。人間にとってはどうしても避けたい事態である。しかし、どのようにしても避け得ないのが「死」である。死した肉体は霊魂(タマ)を穢す。腐敗していく肉体が先祖たちにそう連想させたのであろう事は容易に想像出来る。だから汚れた霊魂は「荒魂」(あらみたま)であり、すさ(荒)ましい存在である。そのままにしておくと、生きている者に危害(祟り)を為す存在である。

 こうして、死穢(しじょく)の観念が生まれた。
死穢(しじょく)はそのままにしておいてはいけない。その災いの力を封鎖しなければならない。これが殯(もがり)である。石を抱かされて葬られた古代人の写真を見たことがある。縄文か弥生かはっきりしないが、歴史教科書で見たことがないだろうか。これが(もがり)の始まりであろう考えられる。五来重博士によると、現在でも、各地に様々な型式の殯の風習が残っているとのことである。また、同博士は三回忌はモガリの忌明けがその本来の姿ではないかとの指摘もされている。

怨霊(御霊)と鎮魂(タマシズメ)・・・御霊信仰

 死後間もない霊魂(タマ)は生前の身分、行いに関係なく誰人も全て荒魂(あらみたま)であり、「祟(たたる)る存在」である。しかし、それらの不浄性は浄化可能なものと我々の先祖たちは考えた。

 しかも、時間を経て浄化され、和魂(にぎみたま)から恩寵の祖霊へと昇華されていく。前述のモガリはその出発点であり基本である。四十九日。一周忌。三回忌。七回忌。十三回忌。三十三回忌。これら積年毎の慰霊・鎮魂行事は残された者の義務である。三十三回忌は弔い揚げといい、これで祖霊となるわけである。

 ところが、非業の死をとげた者、無縁の死者あるいは無名の戦死者等の霊魂はこの世に未練を残している。そういう霊魂は特に荒らぶると考えられた。これが「怨霊(おんりょう)」である。御霊(ごりょう)ともいう。北野天神は菅原道真の怨霊の慰撫・鎮魂の為に祀られたものである。

 また、五来先生によれば、祇園祭も本来は御霊会(ごりょうえ)であり、怨霊の祟りを鎮め、矛(ほこ)にその災厄を付けて加茂川へ流してしまうのがそもそもの姿であったという。靖国神社も本来の趣旨はこのような庶民(国民)感情を考慮して、戦死者の慰霊・鎮魂を国家が保証したものである。

 これにより、国民は安心して戦地に赴く事が出来たのである。本来の趣旨からすれば、祀られるのは無名の戦死者だけのはずである。三方が原とか長篠とかの古戦場近くでは「大念仏」と称される無名戦士の慰霊・鎮魂の為の踊り念仏が現在でも行なわれているという。推して識るべしである。

忌みと禊ぎ

 穢(けが)れはケ(霊力)()れであって、この霊力の枯渇状態は霊魂(タマ)に伝染する。まず「忌(い)み」であるが、これはタブー(禁忌)のことであって、ケガレの状態を消極的に「嫌い避ける」事によって神聖性(霊力)を維持しようとする事である。物忌み、忌みごもりを行い忌みことばを使用する。ケガレの対象は死穢(しじょく)、産穢(さんじょく)をはじめ、病人が避けられることもある。”終わる”ということを避けて、”お開き”という具合である。

 また、イミには「斎み」をあてることがありこれはイワウである。つまり、イミには自らのケガレを去って聖に近づこうとする積極面(斎)とケガレを避けて自らの聖性を維持しようとする消極面の二つの方向性があるという事である。いずれにしても、カミ(神聖性)を前にしての「慎しみの姿勢」である。


  次に「禊(みそ)ぎ」とはケガレの状態を積極的に「除去し去る」事によって神聖性(霊力)を回復しようとする事である。禊ぎの原型は古事記におけるイザナギ命の禊(みそ)ぎ祓(はら)いの故事に発する。イザナギ命の禊ぎの目的は黄泉(よみ)の国での妻イザナミ命の死穢祓いにあった。カミとは生命の躍動そのものである。

 そして、カミの生命(霊力)は人間の生命(霊魂=タマ)にもまた繋がっている。ケガレとはかかるカミの生命が衰退した状態に他ならない。カミ祀りを前にして、かかる生命(霊力)の働きを阻害する不純物(穢れ)を取り除き、カミと同じ状態でカミに臨むのが「禊ぎ」の本来の目的である。

 カミを前にして別火、精進潔斎し、一定期間忌みごもりし、忌み明けの後水辺で禊ぎをするのが「カミマツリ」の原型である。禊ぎは斎い(イワイ)であり、イミの積極的の側面でもあるわけである。禊ぎは免罪の手段ではない。カミを前にして、罪につながった不浄の心を洗い流し、謙虚な気持ちをいただく。かかる謙虚な気持ち、素直な気持ちが悪を止め、善を勧めるのである。

埋墓と詣墓・・・両墓制

 位牌を仏壇に祀り、日常的に礼拝・供養する。我々日本人にとっては当たり前の事である。位牌は故人そのものであり、また、もう一つの墓と考える事も出来る。しかし、世界常識からすれば理解しがたい事なのではないのか。死者はれっきとした墓に埋葬されている。何故、故人が実際に眠っている墓にお参りしないのか。

 確かに、我々は正式には春秋二回のお彼岸とお盆にしか墓参りしない。四十九日を期して納骨(埋葬)する。しかし、一周忌。三回忌。七回忌。十三回忌。三十三回忌。これらは位牌に対しての追善回向であり、慰霊・鎮魂である。まれに、墓前にて行われる事もあるだろうけれども通常は菩提寺での仏事が一般的である。位牌があればいいのである。それは我々が位牌に故人の霊魂(タマ)が宿っていると信じているからである。

 死の穢れを封鎖する為に殯(もがり)する事は既に述べた。五来先生によると、死者を埋葬した後を簡単な忌垣(いがき)で囲み、そこに霊魂の依りしろとしての常盤木(ときわぎ)を立てるのが殯の原始型であり、塔婆(とうば)はこの常盤木の伝統を受け継いだものだと言う。この説を敷衍すれば位牌もまた霊魂の依りしろである。殯の最中は死穢に触れる為に埋葬地に近付けない。

 そこで鎮魂の祭祀の為に別に墓を設けたというのが両墓制と呼ばれているものである。通常埋葬した墓を「埋墓」(うめばか)、祭祀の墓を「詣墓」(まいりばか)と呼んでいる。詣墓は石塔、五輪塔などが多く建てられる。両墓制は近畿、中部、関東地方を中心に日本の半分ぐらいの地域で行われているとの事である。しかし、位牌が霊魂の「依りしろ」だとすればほとんどの日本人が無意識の内に二つの墓を持っている事になるのである。


 両墓制の観点から、靖国神社問題を考察すると、靖国神社は詣墓であり、千鳥が淵の戦没者墓園は埋墓であると考える事が出来る。家族の元に戻った遺骨(霊魂)は家族によって慰霊祭祀されればよいのであって、靖国神社は無名戦士の為の祭祀施設として再編成すべきである。何故ならば、それらの御霊(みたま)は決して故郷の家族の元には還らなかったであろうからである。その祭祀は国の義務である。

黄泉の国と常世の国・・・来世観

 日本人の「あの世観」はどうであろう。亡き人は草葉の陰から見守っている。山に還る。祖霊まします故郷の山野。我々日本人にとって亡き人は遠くに往ってしまったのではない。自分のすぐ側にいる。姥棄て山(うばすてやま)は息子が老母を山に棄てにゆく話であるが、日本人にとっては山が一つの埋葬の場であった。死者は風化しやがて土に同化して山そのものとなる。だから、山に還るのである。山に霊魂の集まる場所がある。日本人はこう信じてきた。高野山はもともと死者の埋葬の場であったという。

 肉体はやがて土に還る。先祖たちが死者を葬った山の地下深く霊魂の集まる場所があると想像したのも当然であろう。これが黄泉(よみ)の国である。先代の春日野親方(元栃錦)が亡くなった時、これも先代の二子山親方(元若ノ花)が「春日野さんは黄泉の国に往ってしまった」というような事を言っていた。相撲はもともと神事なのだから、なるほどな”と感心した記憶がある。しかし、黄泉の国はイザナギ命の故事いらい不浄の穢れた場所である。生者にとって怖い所である。二子山さんは本当は「春日野さんは常世(とこよ)の国に往った」と言うべきだったかもしれない。

 常世は理想の世界である。海辺の民が死者を海に葬る。水平線のむこうには死者の霊魂が永遠に幸せに過ごせる場所があると先祖たちは想像したに違いない。そう信じざるを得なかったはずである。常世はそういう所である。浦島伝説の竜宮城はその理想像の一つであるということである。

 「タマ(霊魂)とタマ振り」「穢れと祟り」「怨霊とタマ鎮め」「忌みと禊ぎ」「埋墓と詣墓」「黄泉の国と常世の国」・・・以上、六項・十二のキーワードに日本人の宗教観の諸要素は
ほぼ収まると思う。伝統的な宗教観は気がつくことなく社会的慣習として我々の日常生活の一部となっている。内なる宗教性を自覚した上で仏教を基礎から学んで欲しい。そうすれば、思想としての仏教でなく、宗教としての仏教の姿が必ず見えてくるはずである。

平成25年2月5日

仏家妙法十句

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