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           仏教の人間と社会を考える ぶっけみょうほうじっく

過去ログ

願生(がんしょう)()娑婆(しゃば)国土(こくど)(きた)れり、見釈迦牟(けんしゃかむ)尼仏(にぶつ)(よろこ)ばさらんや(道元(どうげん)

仏家ホームページの開設にあたって (2013年1月20日)

 宗教にはそれを生み出した民族なり社会の「死生観」が必ずその根底にあります。仏教のそれは「業と輪廻」という考え方です。冒頭の一文は道元禅師のものです。我々は偶然生まれたのでなければ、親がかってに生んだのでもありません。人間の生涯を願ってこの地球世界(娑婆国土)へ生まれ来たったのです。幾千幾万の生涯を輪廻転生しながら、やっと、人間としてこの地球に生を受けたのです。今、こうして仏の教え(釈迦牟尼仏)に遇うことが出来た。どうして、このことを喜ばないでいられようか。道元禅師の感嘆の声が聞こえてきそうです。やっと、勝ち得た人身。この因縁、よくよく考えるべきです。

  我々は時代の転換点に立たされている。誰もがうすうすそう感じている。新自由主義とグローバリズムの行き詰まりは誰の目にも明らかです。しかし、どうしたらよいのか明解な答えは見当たりません。社会的な格差は拡大する一方です。労働、所得、結婚、医療、年金、老後・・・あらゆる方面に格差が生じています。「絆」が強調される一方で、孤立死、孤独死が後をたちません。我々の社会は本来「平等」に価値を置く社会でした。しかし、経済効率と自由競争の名の下、勝者が礼賛され、結果「格差」が拡大しました。敗者には価値がないのでしょうか。そんなことはないはずです。道元禅師が言われているように、我々は人として誰もが願ってこの世(地球世界)に生まれ来たったのです。この意味で人は皆平等です。

 仏教では、人々の行為(業)が社会を形成していると考えます。我々一人一人の行為が社会のあり方に対し責めを負っているということです。勝者が敗者を作り、敗者が勝者を作っている。全て勝者、全て敗者などということはあり得ないわけです。仏教は「因果の道理」を説きます。いわゆる、善因善果、悪因悪果の法則です。しかし、今の時代、悪因善果、善因悪果ということもあるのでしょうか。混迷の時代としか言いようがありません。


  先の衆院選は自公の圧勝に終わりました。株価も上昇に転じ、為替レートも円安に振れてきました。政治も安定を取り戻しそうです。しかし、参院は依然としてねじれています。野党の対応いかんによっては混乱も予想されます。投票先のいかんにかかわらず我々一人一人に今の政治状況を生み出した責任があるのです。これが“人々の行為(業)が社会を形成している”と言うことに他なりません。この意味で、夏の参院選は重要です。与党を勝たせて政治を安定させるのか、野党を勝たせて“ねじれ”を継続するのか。我々一人一人の意思が国家と社会の今後を決定します。今、我々一人一人の自立(個の確立)が求められています。一人一人が目覚めることが求められています。

 
まず「自分」の行為(業)を点検してみてください。自分は善人なりや、悪人なりや。我々は変われます。一人一人が変わることによって社会・国家が変わります。当ホームページがその為の一助となれば幸いです。

 最後に、各編の内容案内をしておきましょう。「日本宗教入門」では我々日本人の宗教観・死生観について学びます。ここでは、日本人としての自分の宗教に対する考え方を確認してください。「仏教入門」では仏教をインドの宗教と捉え、バラモン教、ウパニシャッド哲学を学んでから、仏教に入ります。「信心入門」では釈尊(シャカムニ)および親鸞、道元、日蓮、白隠、宗門四師の死生観を通して、仏教における信心(信仰)とは何かを学びます。「妙法十句入門」では妙法十句の教えについて概説します。

自己に参ずる (2013年4月22日)

 前回、取り上げました道元禅師のことばは修証義より引用したものです。修証義は正法眼蔵の中より主に在家信徒向けに禅師の教えの要文を取り出し再編集したものです。引用の一文は一続きの文章ではありません。二つの段落の文章を組み合わせて一文としています。それぞれ、前後の文章を補って再度禅師のことばを味わってみたいと思います。

 引用の二つの文章は正法眼蔵・第五十六、「見仏」の中に見えます。まず、“願生此娑婆国土し来たれり”は次の箇所に見えます。“この「深心(じんしん)」といふは「娑婆世界」なり。「信解(しんげ)」といふは無廻避処(むういひしょ)なり。誠諦(じょうたい)の仏語、たれか信解せざらん。この経典にあひたてまつれるは、信解すべき機縁なり。「深心信解」是(これ)法華、「信心信解」「寿命長遠(ちょうおん)」のために、願生此娑婆国土し来たれり。”・・・内容は法華経・如来寿量品の経文を引用しての禅師の論評です。この人間の可能性を秘めた心(深心)が娑婆世界なのだ。この経を信じて、その上で理解する(信解)ということは避けようがない(無廻避処)ことである。真実の仏のことばを誰が信じないと言おうか。この法華経に会い奉ったそのことが、信解の機縁なのだ。「深心信解」が法華ということである。「信心信解」「寿命長遠(仏のいのちは永遠に滅びない)」を聞くために我々はこの娑婆世界に生まれ来たったのだ。


 次に、“見釈迦牟尼仏を喜ばざらんや”は次の箇所に見えます。“おほよそ一切諸仏は、「見釈迦牟尼仏」、成(じょう)釈迦牟尼仏するを成道作仏といふなり。かくの如くの仏儀、もとよりこの七種の行処の条々よりうるなり。七種行人は、「当知是人」なり、如是当人なり。これすなはち見釈迦牟尼仏処なるがゆえに、したしく「如従仏口、聞此経典」なり。釈迦牟尼仏は、見釈迦牟尼仏よりこのかた釈迦牟尼仏なり。これによりて舌相あまねく三千を覆(ふ)す、いづれの山海か仏経にあらざらん。このゆえに書写の当人、ひとり見釈迦牟尼仏なり。「仏口(ぶっく)」はよのつねに万古に開す、いづれの時節か経典にあらざらん。このゆえに、受持の行者のみ見釈迦牟尼仏なり。乃至眼耳鼻等の功徳もまたかくの如くなるべきなり。および前後左右、取捨造次、かくの如くなり。いまの「此経典」にむまれあふ、見釈迦牟尼仏
を喜ばざらんや、生値(しょうち)釈迦牟尼仏なり。”・・・ここは同じく法華経・勧発品中の経文を引用しての禅師の論評です。そもそも、一切の仏たちは、釈迦牟尼仏に見(まみ)え、釈迦牟尼仏に成ることによって、成道・成仏(作仏)したのだ。このような仏道修行(仏儀)はこの七種(法華経の受・持・読・誦・正憶念・修習・書写)の実践項目の一つ一つより得られるである。

 この七種実践の行者(行人)はまさに見釈迦牟尼仏を知る人(当知是人)であり、まさに経文に説かれるているその人(如是当人)なのだ。これは、つまり、このことが見釈迦牟尼仏ということであって、従って、このことが、仏の口よりこの経典を聞く如し(如従仏口、聞此経典)ということである。釈迦牟尼仏は、行者が釈迦牟尼仏に見(まみ)えて以来釈迦牟尼仏である。こうして、その説法がこの三千世界を覆い尽くしている。山川草木いずれもが仏の説法と言えないことはない。そうだから、書写の行者ひとりが見釈迦牟尼仏である。仏の説法(仏口)は遠い昔より万人に開かれている。いずれの時、いずれ時代も法華経(経典)でないということはない。だから、受持の行者のみが見釈迦牟尼仏である。諸法(十二処十八界)空の功徳もまたこのよう(如従仏口、聞此経典)であるべきである。上も下も右も左も我々の身の回りとにかくすべてがこのようで(如従仏口、聞此経典)あるべきである。今、「如従仏口、聞此経典」の経文に出会った。釈迦牟尼仏にあい見えた。まこと、このことを喜ばないでいられようか。

 少々、引用が長くなりましたが、要するに、道元禅師の言いたいことは、“法華経を聞く為に、この娑婆世界に願って生まれ来たったのだ。今、釈迦牟尼仏(法華経)にあい見え、その法華経の教えを聞くことができた。このことを何で喜ばないでいられようか”ということです。ここには、真摯な法華経の行者道元がいます。

 さて、「願生此娑婆」「見釈迦牟尼仏」は道元禅師だけのものではありません。“親がかってに生んだ”“社会が悪い”と言ってすべてを親や社会のせいにするのであれば、こんな楽なことはありません。我々人間は偶然生まれたのでなければ、親がかってに生んだのでもありません。我々は願って、この地球(娑婆)世界に人間として生まれ来たったのです。生まれ来たった理由(わけ)が必ずあります。道元禅師のそれは法華経を聞く為でした。あなたの生まれ来たった理由は何でしょうか。人間、一人一人に「願生此娑婆」「見釈迦牟尼仏」があるはずです。


 人生は苦である・・・仏教はこの釈尊のひと言から始まりました。釈尊はそのことを自覚せよと教えられました。今の自分を自覚する。今の自分と社会のかかわりを自覚する。今の自分の立ち位置を自覚する。まず、自己に参ずることから始めましょう。その先に、あなたの「願生此娑婆」「見釈迦牟尼仏」が姿を現してくるはずです。


真理はひとつであって、第二のものは存在しない。
その真理を知った人は、争うことがない。
(スッタニパータ)

歴史認識問題を考える(1)(2013年6月4日)

 昨今、一部政治家の歴史認識の問題がクローズアップされています。冒頭の一文は最古の仏典の一つスッタニパータより引用しました。この釈尊の教えを手がかりに歴史認識問題について考えてみたいと思います。

 一つの喩え話があります。「盲人と象」という話です。盲人が数名、象を触って騒いでいます。鼻に触った者は、それは細長い筒状のものである。尻尾に触った者は、いやいや、そうではない。それは細長いひものようなものである。また、耳を触った者は、それは大きな団扇のようなものである。脚に触った者は、それは地面に立つ柱のようなものである。背中を触った者は、それは大地のようなものである。お互いに、言い争って、論争は尽きません。

 我々もまたこの盲人たちと同じです。我々は、自分の体験したことを通してしかものごとを見ることが出来ません。しかも、自分の体験こそ真実(真理)だと執着します。このような人間の思考傾向は時代、民族、性別を問いません。何故、我々は自分の見解に固執して、論争するのでしょうか。冒頭の一文はかかる疑問に対する釈尊の回答です。

 「真理はひとつであって、第二のものは存在しない」実は、誰も象の全体像(真理)を見ていないのです。彼らは互いに象の一部を触って、それを象の全体像(真理)だと主張しているにすぎません。釈尊はこうも指摘されています。“ある人々が「真理である。真実である」と言うところのその見解をば、他の人々が「虚偽である。虚妄である」と言う。このように、彼らは異なった執見をいだいて論争する。”
 自分の見解に固執して論争を続ける限り、真理は見えてきません。

 日中韓の歴史認識についても同様です。三者それぞれ互いに持論を譲らず論争している限り、真(ただ)しい歴史認識は見えてきません。それぞれ言うところの歴史認識はそれぞれの民族的立場から見た見解の一例にすぎないからだからです。

 何故、人は自分の考え方に固執するのでしょうか。釈尊は続けます。“諸々の異説の徒はさまざまに執着し、かの自分の道を堅くたもって論ずる。自分の道を堅くたもって論じているが、ここに他の何人を愚者であると見ることが出来ようぞ。他の説を「愚かである」「不浄の教えである」と説くならば、彼らは確執をもたらすであろう。一方的に決定した立場に立って自ら考えをはかりつつ、さらに、彼は世の中で論争をなすに至る。一切の哲学的断定を捨てたならば、人は世の中で確執を起こすことがない。

 確執とは自己の立場・考え方を固執することです。論争している当人自身が自己思考の罠にはまって身動きがとれなくなると釈尊は警告されているのです。つまり、この教えで釈尊が言われている哲学的断定とはイデオロギー的断定ということになります。今、問題になっている日中、日韓の対立も突き詰めればイデオロギー対立に他なりません。釈尊は自己のイデオロギー(哲学的断定)的立場を捨てよ。そうすれば、自己思考の罠(確執)から抜け出すことが出来ると教えられているのです。

 しかし、それは容易ではありません。敵を知り、己れを知れば百戦危うからず。まず、相手および自己を知らねばなりません。三者のイデオロギー的立場を簡単に確認しておきます。中国のそれは抗日革命史観です。韓国のそれは日帝支配史観です。そして、日本のそれは非東京裁判史観です。日中韓の正しい歴史認識はありえるのか。この件については、次回、論じたいと思います。

歴史認識問題を考える(2)(2013年7月26日)

 参院選は自民党の圧勝に終わりました。衆参のねじれも解消しました。やっと、決める政治が実現しました。阿部総理には、勝利に奢ることなく腰を据えて政治に取り組んでもらいたい。ただし、歴史認識問題については、慎重な対応を取って欲しいと思います。

 さて、前回に引き続き、日中韓の歴史認識の問題について考えてみたいと思います。各国が自己のイデオロギー的立場に固執する限り共通の歴史認識はありません。我々は日本および近隣諸国の近現代史に対し、あまりにも無知です。まず、我々は歴史の事実(真理)を知ることから始めなければなりません。

 世界史の教科書を見ますと、19世紀後半から第二次世界大戦終了の1945年までを帝国主義時代と分類しています。近現代史における帝国主義とは“欧米列強諸国による他民族・他国家への武力侵略・植民地化政策”と定義されましょう。

 19世紀初頭以降、東アジアもこの歴史的な潮流に巻きこまれました。各国は欧米列強の武力圧力に対してどう対処したのでしょうか。

 まず、清(中国)から見てみましょう。19世紀初頭当時、清政府は貿易を広州一港に限定し、実質的な鎖国状態にありました。この状況に風穴を開けたのが“アヘン戦争”でした。1840年、清政府のとったアヘン禁輸策に対抗し、イギリスは清を武力攻撃しました。戦争はイギリスの勝利に終わり、1842年、南京条約が結ばれました。これにより、清は広州以外に4港(アモイ、寧波、福州、上海)の開港と香港島の割譲に応じました。さらに、各港にはイギリス領事が置かれることになりました。以後、米仏とも同様の条約が結ばれ、ここに、実質的に清は開国しました。

 清朝はキリスト教(プロテスタント)の布教を禁止していましたが、香港割譲以後、ここを拠点に大陸部にも布教の波が及ぶこととなりました。有力な清国人の信徒も現れてきました。1851年有力信徒洪秀全の一派は広西省で武装蜂起し、太平天国と称しました。太平天国軍は各地を転戦しながら北上し、南京を拠点に支配地域を広げていきました。一方、この頃の黄河以南の穀倉地帯はしばしば自然災害に見舞われ、治安が悪化していました。土地の有力者は自警団を結成し、盗賊集団の略奪行為に対抗しました。これらの盗賊集団は捻子(ねんし)と呼ばれ、1855年、各地の捻子が大同団結して反乱を起こしました。これが捻軍(ねんぐん)の乱です。捻軍は各地捻子の緩やかな連合体で、捻子間の関係は複雑でした。これが混乱に輪をかけたと考えられます。

 さて、清朝政府は太平天国や捻軍の乱にどう対応したのでしょうか。清朝は政府軍に加えて、有力官僚に私兵集団を作らせて、この任に当たらせました。太平天国や捻軍の乱に先立ち、18世紀末から19世紀の初めにかけて白蓮教徒の乱が起こりました。この時、土地の有力者が団練(だんれん)と呼ばれる私兵集団を作って、清朝政府に協力しました。これら有力官僚が結成した清朝公認の私兵集団はこの流れを汲むものです。有力集団に二つありました。湖南省の曾国藩の湘軍(しょうぐん)と安徽省の李鴻章の准軍(わいぐん)です。清朝政府軍および湘軍、准軍はそれぞれ別途に太平天国および捻軍の反乱の鎮圧にあたりました。1864年には太平天国が滅亡、捻軍の反乱も1860年末頃には鎮圧されました。

 アヘン戦争後、結ばれた南京条約では、開港地に締約各国(英仏米)の領事を置くことになっていましたが、その取り扱いは不明確でした。領事館と領事、館員および貿易関係者たちの住居をどうするかも決まっていませんでした。経緯としては、各港の領事と清側の地方官との交渉によって住居地域と権限、権利関係(土地章程)が取り決められました。その後、これら外国人居留地が租界へと発展していくことになります。各港には清朝の税関(海関)が設けられ、その税収は清の国家財政に大いに貢献しました。

 1856年、広州に停泊中のイギリス船籍のアロー号の清朝側による拿捕事件をきっかけに、翌1857年、清と英仏軍との間に戦端が開かれました。英仏軍は広州を占領し、さらに、北上して、渤海湾の天津に至りました。かかる英仏の軍事圧力を背景に、1858年、天津条約が結ばれました。米露も同様の条約を結びました。同条約では、外国公使の北京常駐とアヘン貿易の解禁、および、北京での公式批准が定められていました。1859年、北京での条約批准を行うべく、英仏軍は渤海湾に至りました。しかし、天津に向かう途中で清側が英仏軍に砲撃を加えました。両者、平和的な交渉を試みましたが決裂し、翌1860年、英仏軍は北京に侵攻しました。清朝は英仏の軍事圧力に屈し、天津条約を補完した北京条約を結びました。ロシアも同様の条約を清側と結びました。

 アロー号事件に始まる清と欧米列強との戦争は通常“第二次アヘン戦争”と呼ばれますが、清政府の対外政策および内政に与えた影響には多大なものがありました。このあたりの事情については、次回に取り上げます。

歴史認識問題を考える(3)(2013年8月7日)

 前回に引き続き、清(中国)の近現代史を続けます。今回は、第二次アヘン戦争後の清の外交・内政の変化について見て見ましょう。
 
 1860年に英仏露と結ばれた北京条約の内容はどんなものだったのでしょうか。第一には、外国公使の北京常駐が正式に認められました。第二に、新たに開港が約束され、天津、漢口等が開港されました。第三に、キリスト教の国内布教が正式に認められました。第四に、アヘン貿易が正式に認められました。

  南京条約。天津条約。北京条約。決して、清国が望んだものではありませんでした。列強諸国の武力による威嚇によって締結させられたものでした。その結果、清政府も欧米の社会制度と科学技術の優位性を認めざるを得なくなり、欧化・近代化策に乗り出しました。

  欧化・近代化策の第一には、外務関係の総括部門として、1861年、総理各国事務衛門略して総理衛門(そうりがもん)の新設があげられます。当時、清国には外国語を理解できる官僚はほとんどいませんでした。そこで、総理衛門は外国語の教育機関として、同文館を設立しました。官僚の育成機関としては従来科挙制度がありましたが、同文館がそれにとって変わりました。第二は、軍需工場の設立です。1865年、清政府は上海に軍需工場・江南製造局を設立し、艦船、大砲、銃、弾薬などを製造しました。その後、兵器工場は各地に設けられました。第三は、洋書の翻訳事業です。例えば、1865年には総理衛門によって万国公法が漢訳されています。翻訳事業は主に同文館が担いました。翻訳対象は人文系から理数系まで多岐にわたりました。江南製造局は技術書を中心に翻訳も手がけました。

  清の冊封(さくほう)体制外にあった日本は清との間に正式の外交関係がありませんでした。1854年に開国(日米和親条約)した日本(徳川幕府)は1862年と1864年に上海に通商使節を派遣しました。しかし、合意はなりませんでした。明治維新後の1871年、日本政府は清に条約交渉団を派遣し、日清修好条規を結びました。その内容は、両国の相互不可侵を規定し、各開港地には領事を置く。また、東京と北京に公使を置くというものでした。同時に締結された、通商章呈では貿易に関する取り決めがなされました。これ以後、日清両国はそれぞれ欧化・近代化策を進めることになります。やがて、両国は朝鮮半島を巡って対立することになります。1894年、日清戦争が勃発しました。これには、朝鮮の政治状況が深く関わっています。次回は、19世紀の朝鮮事情について見ます。

歴史認識問題を考える(4)(2013年8月20日)

 今回は、19世紀の朝鮮事情について見ます。朝鮮は清との間に冊封(さくほう)関係を結んでいました。朝鮮は清に対して、臣下の礼をとり、自らの王朝の支配権を保障してもらっていました。このような国家間の主従関係を冊封関係といいます。ただし、朝鮮は清に臣下の礼はとるものの、内治と外交は自主が許されていました。また、定期的に朝貢の使節を清に派遣していました。この時、交易が許されました。19世紀当時、清は、朝鮮、琉球、越南(ベトナム)、東南アジア諸国と冊封関係にありました。しかし、日本は清の冊封関係の枠外にありました。

 まずは、朝鮮と列強諸国との出会いから見て見ましょう。この頃の朝鮮も日清と同様に鎖国政策をとっていました。1860年の清露間の北京条約によって沿海州はロシア領となりました。これで、朝鮮はロシアと国境を接することになります。1864年、ロシア人数名が威鏡道・慶興に至って通商を求めてきました。しかし、朝鮮側はこれを拒否し、彼らを追い返しました。

 また、キリスト教は知識層を中心に既に朝鮮にもたらされていましたが、この当時は禁教されていました。ところが、密入国したフランス宣教師によってキリスト教が庶民層にも広がりつつありました。時の朝鮮政府はこれを弾圧しました。1866年、朝鮮政府はフランス宣教師数名と朝鮮人信徒を処刑しました。しかし、難を逃れた宣教師たちが、天津のフランス領事館に逃げ込み助けを求めます。フランス政府はその求めに応じ、同年、朝鮮遠征の艦隊の派遣を決定しました。フランス艦隊は都・漢城近くの江華島に上陸し、漢城への物流ルート漢江を封鎖しました。これに対して、朝鮮軍はフランス軍と果敢に戦い、これを撃退しました。

 さらに、同年、アメリカ商人ブレストンは武装商船シャーマン号で大同江をさかのぼって、平壌に至り、通商を求めましたが、朝鮮側は同船の座礁を機にこれを焼き討ちし、乗員を殺害してしまいました。

 1868年、ドイツ商人オッペルトらは時の最高権力者の父親の墓を暴こうとしましたが、失敗しました。遺骨を通商交渉の取引に使おうとしたようです。その後、一行は仁川に至り通商を求めましたが、朝鮮側と戦闘となり敗退しました。

 1871年には、アメリカ艦隊がシャーマン号事件の問責と通商を求めて、京畿道・南陽府と江華島付近に現れました。米艦隊は江華島水路を北上し、朝鮮側を威嚇しました。これに対し、朝鮮軍が砲撃を加えたため、地上戦を含めた戦闘となりました。朝鮮側の予想外の抵抗に驚愕した米側は朝鮮遠征をあきらめ、退却しました。

 こうして、時の朝鮮は欧米列強の侵略をことごとく撃退しました。兵力に劣る朝鮮に、何故こんなことが可能だったのでしょうか。このことを明らかにするには、当時の朝鮮の政治・社会状況を知る必要があります。


 朝鮮王朝の成立は1392年、その統治の基本となったのは儒教(朱子学)でした。国王の下に、最高執行機関である議政府、その下に、行政の執行機関である六曹(役所)が置かれました。さらに、司法機関として三司がおかれました。この内、司諫院は国王への直訴・換言を取り扱う役所でした。国王は最高権力者でありましたが、その権力を実際に執行したのは官僚でした。従って、制度的には王権は官僚の力に比べて劣勢でした。官僚は文官(東班)と武官(西班)からなり、総称して両班(ヤンパン)と呼ばれました。官僚の採用は儒教の知識を問う科挙試験によりなされました。この為、学派間の対立がそのまま中央政界に持ち込まれ、官僚間の派閥争いを生じさせるとともに、加えて、王権と官僚間の対立も絡み合い、権力争い、党派争いを熾烈なものとしました。

 それでは、儒教主義の政治とはどのようなものでしょうか。一言でいえば、王道政治ということです。為政者たる者は常に徳による民衆統治を心がなければなりません。かかる為政者のあり方は朝鮮王朝下では上は国王から下は下級役人に至るまで守らなければならないものでした。王朝はこのような政治理念を実現するために、各地に学校(郷校)を設置し、儒教の普及に努めました。また、地方の支配層(両班)にも学校設置を勧奨し、これらは書院と呼ばれました。書院は地方における学問研究の中心であるとともに、地方勢力の中央政界進出の拠点にもなりました。被支配階級の農工商民は良民と呼ばれ、主な課税対象でしたが、困窮時には、救済要求権(減免、義捐米等)があるとされました。救済要求権は民のための施策の具現化といえます。理屈からすれば、官僚(両班)は一代限りであるはずですが、時代が下るにつれて、世襲が当たり前となり、両班階級の人口が増加していきました。しかし、官職の数には限りがあるのは当然で、仕官のための運動が激しさを増し、賄賂・買官、そして、党派間の権力争いへと繋がっていきました。官職に就いた者は勢い農民を収奪することになります。農民一揆は不義の役人に対する正義の戦いでもあったわけです。

 このように、王朝の政策もあり、儒教は朝鮮社会の隅々まで浸透していきました。儒教イデオロギーとも呼べるような朝鮮の王朝・人民の熱情が欧米列強の侵略を打破したともいえます。しかし、朝鮮は日本の侵略を阻止できませんでした。何故、朝鮮は日本の侵略を許したのか。次回は、この問題を考えてみたいと思います。

歴史認識問題を考える(5)(2013年9月4日)

 19世紀の朝鮮事情について続けます。1864年に即位した第26代国王高宗は12歳の幼帝でした。実権を握ったのは、その父李是応でした。彼は興宣大院君(国王の父親に対する尊称)と呼ばれます。欧米列強の朝鮮侵略を阻止したのも大院君でした。その思想の中心に据えられたのが「衛正斥邪」ということでした。「正」とは儒教、邪とは儒教以外の思想をさします。そして、具体策として採られたのが鎖国攘夷策でした。列強諸国の侵略に対する徹底抗戦はこの路線上にあったわけです。

 日本との関係はどうだったでしょう。革命なった明治政府は、1869年、新政府樹立の通告のため朝鮮に国書を送りました。しかし、朝鮮政府は書式が旧来と異なること、および、「皇」「勅」などの表現を指摘して、受け取りを拒否します。日本側は従来の朝鮮通信使に変えて、新しい外交関係を結ぼうとしたのですが、朝鮮側には理解されなかったようです。朝鮮側はあくまでも旧例に則った手続きに固執しました。朝鮮側は日本の申し出に門前払いをしたわけです。このような状況下で征韓論が起こります。その論争に終止符をうったのは、1873年の西郷隆盛らの下野でした。これで、朝鮮出兵はなくなり、外交交渉による国交樹立が続行されることになります。

 新しい国交関係樹立を拒否し続けたのは大院君政権でした。しかし、成人した高宗は妃の出身一族である閔(ミン)氏と謀って、1873年、大院君を失脚させることに成功しました。朝鮮では伝統的に官僚が政治を担ってきましたが、国王の外戚一族が権力を握った場合を政道政治といいます。閔氏一族がこうして新しい政道政治の主人公として政治の表舞台に登場します。同時に、高宗の親政が始まりました。

 新政権は開国へ舵を切りました。依然、交渉の障害となったのは、互いに固執する外交文書(書契)の書式および文書交換の格式でした。1874年、交渉が再開されました。1875年、朝鮮側は日本側文書(書契)の受け取りを決断しますが、日本側は一方的に文書提出を打ち切ります。今回は、日本側が文書交換の格式に異を唱えました。交渉の膠着状態の中で、日本政府は武力の威嚇による交渉打開を決します。同年、日本は軍艦2隻を釜山に派遣し、朝鮮側を威嚇しました。

 さらに、続いて、日本は軍艦1隻を江華島付近に派遣し、朝鮮側の砲台に近づきました。この挑発行為に対し、朝鮮側は砲撃を加えました。火力の差は明らかで朝鮮側砲台は甚大な被害を受けました。さらに、日本側は永宗島の砲台も攻撃し、兵を上陸させました。戦火はこれ以上拡大することなく、日本艦は引き上げました。

 江華島事件の処理をどうするか。日本政府は清政府の仲介を期待し、特使を派遣しました。しかし、清国側は、“朝鮮は清国の属邦であり、今回の事件は日清修好条規に違反し、不法である”とし、仲介を断りました。一方で、清国側は清・朝鮮間の宗属(冊封)関係の存在を前提とした上
で“朝鮮の内政・外交には干渉しない”としました。

 清国不干渉の感触を得た日本政府は再度交渉の使節団を朝鮮に送ります。1876年、全権大使黒田清隆は軍艦6隻を率いて、江華島に向かいました。また、陸軍は朝鮮出兵に備えました。

 このような日本の軍事的圧力の下、朝鮮政府内は開国派と鎖国派が対立しましたが、議論の大勢は開国の方向に向かいます。そして、同年、日朝修好条規が結ばれました。同条約の第一条では「朝鮮国ハ自主の邦」としました。この条文を、日本側は“朝鮮は国際法上の独立国であり、清と朝鮮の宗属(冊封)関係は解消した”ものと解釈し、一方、朝鮮側は“清との宗属(冊封)関係下の内政および外交の自主権を保障した”ものと解釈しました。締結された修好条規は総論で、細則はその後の交渉に委ねられました。開港場については、釜山に加え、元山と仁川が新たに加えられました。そこでは、4キロ四方における日本の治外法権(居留地)と日本紙幣の使用が認められるとともに関税も無税とされました。また、米穀貿易の自由化が約されました。一方、日本側は漢城の日本公使の常駐を主張していましたが、朝鮮側がそれを認めたのは、1880年のことでした。朝鮮側の外交の基本はあくまでも臨時派遣の朝鮮通信使にありました。

 1880年代に入り、朝鮮は、米国を皮切りに欧米列強と通商条約を締結していきますが、かかる開国策は朝鮮の国家および社会に多大な影響を及ぼします。この件については、次回に、論じます。

歴史認識問題を考える(6)(2013年9月17日)

  19世紀の朝鮮事情を続けます。日朝修好条規が締結されたその年、1876年、朝鮮政府は日本へ使節団を派遣します。しかし、成果が得られず、1880年、再度使節団を派遣しました。一行は、日本の発展と政治改革の状況を精力的に調査し、報告書にまとめます。また、清の駐日公使より「朝鮮策略」という冊子を贈られます。ここには、今後の朝鮮の採るべき道が書かれていました。

  帰国した使節団の報告書および「朝鮮策略」は朝鮮社会に衝撃を与えました。こうして、朝鮮でも政治改革が始まりました。行政制度を近代化するとともに、軍制改革も行われ、近代式軍隊・別技軍が創設されました。その指導に当たったのは日本でした。しかし、この別技軍の創設が思わぬ事件を引き起こします。新軍との待遇面の格差にかねてより不満を抱いていた旧軍兵士たちが、1882年、反乱を起こしました。これを壬午軍乱といいます。反乱軍は政府要人を殺害し、王宮にも侵入しました。王妃はからくも脱出し、忠州近くの僻村に隠れ住みます。さらに、一般民衆も加わった反乱軍は日本公使館を包囲しました。危険を感じた公使と館員は公使館を脱出し、仁川から英国艦に助けられて帰国しました。騒乱収拾に窮した国王高宗は政権を大院君に移譲します。こうして、大院君政権が復活しました。

 軍乱を知った清国政府は、騒乱の鎮圧と日本牽制を目的として、軍艦3隻と3000の兵を朝鮮に派遣します。この上で、大院君政権の排除に乗り出します。反開国の大院君は清にとっても障害でした。清は大院君を天津に拉致し、幽閉しました。ここに高宗・閔氏政権が復活しました。壬午軍乱の責任は日本側にはありません。むしろ、日本は被害者でした。日本側は損害賠償とそれ相応の対応を朝鮮側に求めますが、合意に至りません。そこで、清国が日朝間の仲介に乗り出します。清の軍事力を背景にした仲介で、日朝間の交渉が始まりました。交渉は朝鮮側の大幅な譲歩により決着しました。軍乱の責任者の処罰、被害者への見舞金、朝鮮政府の正式謝罪、賠償金50万円、漢城日本公使館内の日本軍駐留等が約されました。これを済物浦(仁川)条約と言います。また、日朝修好条規の続約として、開港地(釜山、元山、仁川)での通商権の範囲が20キロ四方に拡大されました。

 日朝間の条約締結の仲介をした清国側の意図はどこにあったのでしょうか。それは、朝鮮の支配強化による日本排除にありました。手始めに、派遣された3000の兵の漢城駐留を永続化します。宗属関係にあっては、藩属国には内政および外交の自主権がありましたが、今や、宗主国・清はそれを否定しました。次に、外交顧問を送りこみます。こうして、清は軍事力を背景に朝鮮の内政、外交に干渉し始めました。

 これらの一連の措置は清国と朝鮮間の宗属関係を実質的に変化させるものでした。実質的な清国による朝鮮の保護国化でした。日朝間の調停がなってまもなく、1882年、清政府は朝鮮と「清国朝鮮商民水陸貿易章程」を結びます。同章程の冒頭では、「朝鮮は久しく藩封に列す」とし、朝鮮が清国の藩属国であり、清は朝鮮に対する宗主権を有する旨を規定しました。その上で、「清国の属邦を優待する」とし、清国に朝鮮との通商上の特権を与えました。これは事実上の清による朝鮮貿易の独占であり、他の通商条約締結諸国の朝鮮からの排除を意味していました。その手段が商務委員制度でした。商務委員は自国商人の管理を目的とし、相互に派遣することになっていました。しかし、清側の商務委員にのみ自国および相手国の商人に対する裁判権が与えられていました。また、清国商人の活動は原則として漢城・楊花津にのみ限られていましたが、漢城以外の朝鮮国内での営業も清国商務委員の査証があれば許されました。このように、貿易章程は清側にはなはだ有利なものでした。


  ところで、1882年、壬午軍乱の直前、朝鮮政府は米国と朝米修好通商条約、1883年には、英独と1884年には伊露と1886年には仏と同様の条約を結びました。これらは、最恵国待遇、低関税、内地通商権、領事裁判権等不平等なものでした。交渉は、清が主導しましたが、その目的は、清国の朝鮮に対する宗主権を列強諸国に認めさせることでした。あくまでも、清は朝鮮の宗主国たろうとしました。「自主の邦」を謳った日朝修好条規は有名無実化し、朝鮮における日本の影響力は弱体化しました。

  清国の支配下、朝鮮人自身による改革機運も芽生えてきます。この動きに呼応し、日本もまた失地回復のチャンスを窺います。「自主の邦」朝鮮はなるのか。次回は、このあたりの事情について見てみたいと思います。

歴史認識問題を考える(7)(2013年10月4日)

 日本や清国経由で流入した欧米の文化、技術等の情報は朝鮮の知識人層を刺激しました。こうして、朝鮮国内でも次第に開化派が形成されていきました。金玉均はその中で最有力の人物でした。彼は、1882年、念願かなって渡日します。政財界の有力者らと精力的に面会し、また、地方議会や裁判所、小中学校も視察しました。各国の公使館なども訪問しています。中でも、福沢諭吉との邂逅はその後の金玉均の人生に多大の影響を与えます。

 1882年、壬午軍乱が起きたのは、金玉均が帰国しようとしていた時でした。帰国した金は日本に若者達を留学させます。そして、その世話を福沢諭吉に依頼しました。福沢は彼らを慶応義塾、陸軍戸山学校等に入学させました。


  開化派では、清国式の国王専制下で緩やかな改革を目指す勢力が主流派でした。しかし、金玉均は日本式の急進的な改革を目指しました。壬午軍乱後には、漢城には清国兵3000が駐留していました。ところが、1883年、ベトナムの支配権をめぐって清仏戦争が起こります。清国は対仏戦のために1500の兵を帰国させます。金玉均は三回渡日しています。彼は滞日中日本国内での人脈を築くことに努力しました。その自信もあったのでしょう。日本の力を借りて、日本式改革政権の樹立を計画します。ここに、失地回復をねらう日本と金玉均の思惑が一致しました。清国軍が半減したこの時しかない。1884年、金玉均は郵政局開局の祝賀会の最中にクーデターを実行に移しました。兵力は日本領事館の守備兵150名ほどと、戸山学校帰りの士官候補生数名でした。清国軍の反乱と偽って、国王を保護した金玉均たちは日本公使竹添信一郎へ救援を依頼しました。こうして、日本軍が出動します。漢城市内は大混乱に陥り、日本人も犠牲になりました。政権転覆は一瞬なったかに見えました。しかし、すぐに清国軍が鎮圧に出動します。多勢に無勢。そもそも、勝ち目のない戦でした。金や竹添たちは、兵を引き、仁川に逃れます。ここから、日本船で帰国の途につきます。金玉均ら数名も同乗し日本へ亡命しました。この一連の事件を甲申政変と呼びます。

  確かに、日本政府がかかわった事件でした。しかし、日本政府はかかわりを否定し続けました。朝鮮政府には漢城条約により謝罪と被害者への補償まで行わせています。清国との間の事後処理はこうはいきません。1885年、日清両国は天津条約を結びます。ここでは、両軍の撤退と再派兵時の相互事前通告義務が約されました。

  清国軍は撤退しましたが、清国の朝鮮への内政干渉はますます強化されていきました。ここに、日本は朝鮮への手がかりを完全に失うことになります。日本は失地回復すべく対清軍拡に乗り出します。一方、国王高宗はロシアに接近しようとしますが、清国側の知るところとなり計画はつぶされてしまいました。

  清国の支配下、政治改革は進まず、官僚たちの不正、官職の売買や賄賂の横行。地方官による農民の収奪。また、開国によって進出してきた日本商人による米の対日輸出は、凶作時における義捐米システムを麻痺させ、朝鮮政府はたびたび対日輸出禁止令を出すほどでした。こうして、農村は確実に疲弊していきました。

  1894年4月、遂に農民たちは立ち上がりました。指導したのは民衆の間に根を張りつつあった宗教集団東学党でした。農民軍の規模は8000名にも膨れ上がり、支配地域での自治を行うまでになりました。世に言う甲午農民戦争の勃発です。驚いた朝鮮政府は清国に出兵を依頼します。2500名の清国軍は忠清道・牙山湾に上陸、この一帯に駐屯しました。清国政府は、天津条約に基づき朝鮮派兵の事前通告を日本政府にします。通告を受けて、日本は、4000の兵を仁川に上陸させます。そして、一部部隊を漢城へ向かわせます。目的は居留民保護でした。しかし、この時、すでに騒乱は終わっていました。日清両軍は駐留の合理的な理由を失っていました。日清の軍事衝突の危機が高まりました。

  天津条約には、騒乱収拾後の即時撤兵の取り決めがありました。日清両政府は撤兵の交渉を始めます。清国軍の駐留は朝鮮政府の要請によるものでした。この意味で、清国軍の駐留は合理性をもっていました。しかし、日本の居留民保護を目的としての兵4000の駐留は合理性を欠いていました。清と朝鮮政府は一方的に日本軍の撤退を求めます。しかし、日本側は拒否し続けました。実は、日本政府は仁川派兵の前に対清国戦を閣議決定していました。今は、開戦の理由作りだけです。漢城進駐の日本部隊は突如王宮を占拠、国王高宗を虜(とりこ)とします。そして、朝鮮政府に日本側に立つことを強制しました。

1894年7月、正式に清国軍排除の要請書を朝鮮政府から受け取った漢城駐留の日本軍は牙山に向かい南進を開始しました。この数日前、豊島(ブンド)沖で日清の艦隊が遭遇します。結果は、日本の勝利に帰しましたが、この中に、清国兵1000名を輸送中のイギリス船がありました。日本軍はそれを撃沈してしまいました。一時、国際問題になりましたが、まもなく国際法上合法と判断されました。ここに、日清戦争の戦端は開かれました。牙山では、南進してきた日本軍と清国軍が激突しましたが、1000名の増援軍を失った清国軍は士気を失い敗退しました。戦争は日本軍有利で進み、平壌陥落、黄海海戦と続き、日本軍は遂に清国領内に侵入します。遼東半島進出、大連、旅順攻略と続きます。この頃、米英露が仲介に乗り出してきます。そして、翌年1895年3月、下関で日清講和条約が結ばれました。本条約では、朝鮮独立、遼東半島・台湾の割譲、賠償金二億両等が約されました。この内、遼東半島割譲については、いわゆる三国(独仏露)干渉によって返還せざるを得なくなったことは承知の通りです。ただし、相応の賠償金が支払われました。

  日清戦争は日本と清の朝鮮の支配権をめぐる帝国主義戦争と見ることが出来ます。勝者の日本は欧米列強に伍してさらに帝国主義の道を邁進し、敗者の清はその後混乱と半植民地化の道をたどります。そして、朝鮮は日本の植民地へと没落しました。

  7回にわたり、19世紀の清、朝鮮の社会政治状況と対日関係を見てきました。我々はこの歴史に何を学び、この歴史にどう向き合い、この歴史をどう認識すればよいのか。次回は、この件につき考えてみたいと思います。

歴史に学ぶ(2013年10月19日)

  「温故知新」ということばがあります。論語・為政第二編・十一に見えます。原文は「子曰、温故而知新。可以為師矣」・・・“先生がおっしゃるには、過去の事柄を深く学んで、その中に新しい知恵を学び取る。こういう人こそが師にふさわしいのだ”という意味です。

  今、「歴史に学ぶ」とは、こういう事でなくてはなりません。日中韓の“歴史認識問題を考える”として、7回にわたり論考してきました。我々はこの歴史から今に役立つ知恵を学び取ることが出来るのか。今回はそこの所を考えてみたいと思います。

  まず、日朝(韓)関係史から見ていきましょう。“歴史認識問題を考える(6)”で「朝鮮策略」という小冊子のことを紹介しました。そこにはこう書かれてありました。“清国と親しみ、日本と結び、米国とつらなり、以って、自強を図る”・・・清国との誼(よしみ)を大切にし、日本と同盟し、米国と仲良くし、そうして、自らを強くし、どうするかと言えば「ロシア」の侵略に備えよ、というのです。

  日本にとって、朝鮮半島は文明移入の回廊であるともに、外敵侵入の回廊でもありました。元寇は朝鮮半島からも押し寄せました。もしも、朝鮮半島がロシア支配下に入れば、日本は樺太、千島列島と朝鮮半島との二方面から、ロシアの脅威と向き合うことになります。明治維新の指導者たちはこのような状況は絶対に避けたいと考えていたはずです。だから、時の朝鮮政府に何と言われようとも新時代の国交樹立を求めたのです。日本は朝鮮国との同盟を望んでいたはずです。侵略の意思などこれぽっちも無かったはずです。

  しかし、朝鮮は「衛正斥邪」を掲げて、開国を拒み続けました。日本側も必死だったと思います。だから、あのような事になったのです。武力による威嚇は否定さるべきでしょう。しかし、軍事力は今も昔ももっとも有効な外交手段です。朝鮮政府は日本の軍事圧力に負けました。何故か、軍事軽視の政策を採っていたからです。秀吉の朝鮮侵略後も軍事力を増強しようとはしませんでした。徹底的な、「文高武低」社会でした。日朝修好条規締結後に設立された新軍にしろ、新軍を新たに作るのではなくて、旧軍を新軍に作り変えるぐらいのことをしていれば、壬午軍乱は起こらなかったはずです。

  東西冷戦が崩壊して、20年。国際環境は明らかに変わりました。我々は戦後ずっと軽武装・経済優先(文高武低)で国家を運営してきました。しかし、それは特殊な環境下での特殊な施策でしかありません。国家の経営は国際環境に応じて為されなければなりません。19世紀の朝鮮は国際環境に適応できませんでした。その結果が、日本の侵略であり、日韓併合だったのです。今こそ、「文武均衡」の普通の国に日本を作り変えなければなりません。これが歴史に学ぶということです。

  朝鮮は儒教イデオロギーの社会であると申し上げました。「衛正斥邪」はそのスローガンでした。国民の隅々まで浸透した儒教主義は社会・政治改革に激しく抵抗しました。甲申政変を起こした金玉均は日本亡命後、上海で朝鮮政府の刺客により暗殺されます。日清戦争勃発の少し前でした。甲午農民戦争は日清戦争の原因のひとつになりましたが、一方、朝鮮の社会・政治改革のきっかけともなりました。改革は日本政府の指導の下に行われました。この時、近代的な政治制度が整えられました。しかし、それは明治維新に倣った急進的なものでした。改革を担ったのは穏健改革派ばかりでなく、金玉均とともに日本に亡命した急進派も加わるものでした。中心的指導者は第二次日本使節団の団長を務めた金弘集でした。ところが、日本は右翼分子を使って、反日派の王妃を暗殺してしまいます。王妃殺害と改革に反発する民衆は各地で蜂起、政府は鎮圧にてこずります。そして、金弘集政権は瓦解しました。この時、金弘集は民衆に殺害され、他の改革派人士も殺害ないし亡命を余儀なくされます。1896年のことでした。こうして、改革派、正確には、親日改革派は一掃されてしまいました。朝鮮は自らその改革の芽を摘んでしまったのです。その後の朝鮮の運命は歴史の示す通りです。

  韓国の「反日」がやみません。これも歴史をたどれば、儒教イデオロギーにたどり着きます。朝鮮王朝では儒教主義が国民を統合していました。国王はその象徴でした。韓国民は日本から独立した時、国民を統合するイデオロギーとして「反日」を選んだのです。そして、日帝史観を作り上げました。日本帝国主義は始めからあったわけではありません。朝鮮自身が自らの身中に呼び込んだのです。政治的には独立出来ても、経済的には日本抜きで韓国経済は成り立ちません。国を挙げて特定の国をあからさまに敵視するのは異常です。「衛正斥邪」が亡国に繋がったように「衛正(韓国)斥倭(日本)」も亡国への道に繋がりかねません。

  帝国主義(侵略)が悪いのは当たり前です。だから、歴代政権は時に応じ韓国政府に謝罪を続けてきました。しかし、帝国主義(侵略)を呼び込んだ自らの責任は隠蔽し、相手に責任の全てを押し付けていては進歩は望めません。「失敗学」という学問があります。韓国民に今必要なのはこの失敗学です。韓国民こそ歴史に学んで欲しいと思います。

  ここからは、日清(中)関係史を見てみましょう。日清戦争は日本の圧倒的な勝利に終わりました。勝敗を決定付けたのは兵士の士気でした。清国軍の基礎をなすのは地方の私兵集団(団練)でした。兵士に国家の兵士として自覚がどれほどあったか疑わしい限りです。それに対し、日本軍は国家が国民を徴兵した国民の軍隊でした。おのずと士気も高まります。靖国神社も国民の軍隊を作るひとつの装置でした。水飲み百姓が護国神(英霊)として祀られる。こんな名誉なことはありません。だから、兵士は必死に戦ったのです。

  日清戦争の勝敗を分けたのは武器の優劣ではありません。そこに国民がいたかどうかです。辛亥革命後、孫文は自らの政治集団を「国民党」と名づけました。これこそ、中国人自身が自らのあるべき国家の方向性を自覚した証です。共産党もまたこの路線を踏襲しているはずです。愛国教育もこの観点から見なければなりません。中国国民の育成はいまだ成らず。愛国教育が止む時、中国国民が成ったのです。愛国教育も辛亥革命に発する歴史的産物であるのです。

  最近、習近平主席の口から「中国の夢」ということをよく聞きます。清国政府は朝鮮との通商条約締結に際して、清国の朝鮮に対する宗主権をわざわざ銘記させました。また、朝鮮が欧米列強と結ぶ通商条約にも同様の措置を採りました。清国はあくまでも華夷秩序の中の中華たらんとしました。そうすると、今、名実ともに超大国となった中国、その夢とは「世界(華夷秩序)の中の中華」であるということに気がつきます。海軍の増強、太平洋への進出計画は海洋への中華帝国の拡張に他なりません。尖閣奪取は本気です。既に、南シナ海は中国の海になってしまいました。今、良識ある諸国民は中国の帝国主義的拡大を阻止せねばなりません。強大な経済力を背景に弱小の国々に援助攻勢をかけています。これは形を変えた朝貢貿易の復活です。中国が大国になった時、必ず覇権主義となります。近くは清、そして、明、元、宋、遡れば、始皇帝の秦まで覇権主義は中華帝国の国是でした。歴史に学べば、今と未来の中国が見えてきます。過去の「歴史認識」に囚われて、未来の歴史をおろそかにすれば、未来を失うことになります。中国のいう「歴史認識」とは、日本を弱体化し、自らの覇権を成就するための彼らの謀略です。対処すべきは、過去の侵略ではなくて、今と未来の侵略です。我々は過去の中韓の経験に習い、今と未来の日本国の独立を守らねばなりません。

  次回は、冒頭の引用文に立ち帰り“真理を知る”とはどういうことかについて学びたいと思います。

唯仏与仏(2013年11月4日)

 “真理知った人”を“ブッダ(仏)”と言います。釈尊(仏)は“私と同じ道を行けば、誰もがブッダ(仏)と成れる”とお説きになられました。しかし、本当に我々も“ブッダ(仏)”に成れるのでしょうか。何故、釈尊は“誰もがブッダ(仏)と成れる”とお説きになったのでしょうか。人間釈尊を強調し、自分たちにも成仏の可能性があることを弟子たちに自覚させる為でした。それは、人々を仏道に導き入れる為の仮の手段(方便)でした。ご在世中、釈尊はそのことは決して明かされませんでした。その方便を明かされたのは、ご入滅後五百年のことでした。

  妙法蓮華経・方便品第二に「唯仏与仏(ゆいぶつよぶつ)」とあります。ただ、仏と仏とだけが・・・という意味です。原文をさらに詳しく引用してみましょう。

  「止みなん。舎利弗よ、また説くべからず。所以はいかん。仏の成就せる所は、第一の稀有なる難解の法にして、唯、仏と仏のみ、すなわち能く諸法の実相を究め尽くせばなり。いう所は、諸法のかくの如きの相と、かくの如きの性と、かくの如きの体と、かくの如きの力と、かくの如きの作と、かくの如きの因と、かくの如きの縁と、かくの如きの果と、かくの如きの報と、かくの如きの本末究竟等となり。」
 
サンスクリット文(梵文)からの和訳も引用しておきましょう。

  「このような言葉で満足せよ。如来こそ如来の教えを教示しよう。如来は個々の事象を知っており、如来こそ、あらゆる現象を教示することさえできるのだし、如来こそ、あらゆる現象を正に知っているのだ。すなわち、それらの現象が何であるか、それらの現象がどのようなものであるか、それらの現象がいかなるものであるか、それらの現象がいかなる特徴をもっているのか、それらの現象がいかなる本質を持つか、ということである。それらの現象が何であり、どのようなものであり、いかなるものに似ており、いかなる特徴があり、いかなる本質をもっているかということは、如来だけが知っているのだ。如来こそ、これらの諸現象の明白な目撃者なのだ。」

  “自分のことは自分が一番知っている”と我々はつい思いがちです。しかし、怪しいものです。諸法(あらゆるものの存在とあらゆる現象)の実相(ありのままの姿・働き)を知っておられるのは仏(ブッダ・如来)のみなのです。我々が自分、自分といっているその自分もまた「諸法」一部分です。私の自分、あなたの自分・・・皆、ただお一人仏のみがご存知なのです。人間が知るということは、仮に知ったに過ぎません。だから、人間の見解はすべて偏見だと釈尊は教えられました。象の一部分を触って、それが本物の象であるとお互いに主張しあっても、どこにも本物の象の姿(諸法の実相)は現れてきません。

  日中韓の正しい歴史認識を知った者はどこにもいません。正しい歴史認識を知るのは唯だ仏のみ(唯仏与仏)です。正しい歴史認識はどこにもありません。それぞれの偏見があるのみです。だから、対立は永遠に続きます。お互いに、このことを覚悟せねばなりません。

  時代は一人ひとりの生き方を難しくしています。人生行路で迷った時、あなたならどうしますか。一人で思い悩んでいないで、自分を捨ててみてください。思い悩んでいるその「自分」は“偏見の自分”なのです。“本当(真実)の自分”をご存知なのは仏のみです。自分を捨てた所に、仏の慈悲と導きが顕れてきます。親鸞聖人は我々にこう語りかけます。

  「弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まふさんとおもひたつこころ(心)のおこるとき、すなはち摂取不捨の利益(りやく)にあづけしめたまふなり。」(歎異抄の第一条)

  誰かに相談してみてください。親、兄弟、かみさん、旦那、先生、友人、同僚、先輩、上司、カウンセラー・・・。自分を捨てた(念仏まふさんとおもひたつこころのおこる)時、相談相手は仏(摂取不捨の利益)となります。仏は今この世におられません。しかし、導き手の身体を借りて、仏があなたを導き、問題を解決してくれます。

  真理を知った人はただ仏お一人です。だから、争うことがない人もまた仏お一人です。凡夫は真理を知らない人、争うしかない人です。このことをしっかり自覚することから始めねばなりません。その上で、自分とも、そして、相手とも妥協点を見つけていくのが仏教的大人(ぶっきょうてきたいじん)ということでありましょう。


汝、早く信仰の寸心を改めて、
速やかに実乗の一善に帰せよ。(日蓮)

理想と現実(2014年1月22日)

 前回、真理(諸法実相)を知る者は唯仏のみ(唯仏与仏)ということを申し上げました。仏の導きがあってこそ、我々凡夫は真理に近づけるとも申しあげました。あなたの前に、仏がおられるとも申し上げました。信心決定(けつじょう)した所に弥陀の慈悲と導きが顕れてくる。こう親鸞聖人に学びました。しかし、信心を決定することは難しく、そうなると、凡夫は巨大な壁の前に立ち尽くす以外にありません。

  目の前に巨大な城壁があるわけではありません。仏に一歩でも近づけるよう努力すれば良いのです。そこに、仏の慈悲と導きも現れてきます。人間は考える存在です。人間は社会的存在です。人はひとりでは生きられません。人間の社会にいる限り、人は社会との関係を絶つことは出来ません。引きこもって、社会との関係を絶ったつもりでいても、その人は社会との関係を保たざるを得ません。食料、衣類、電気、水道、ガス…何ひとつ、人間の社会活動の産物でないものはありません。

  悲しいかな。人間皆なわが身ほどかわいいものはありません。人間のこころは無限に大きくもなれば、小さくもなります。要は、どう物ごとを観察し、どう思考するかです。日蓮聖人が指摘された「寸心」ということを手がかりにこのことを考えてみたいと思います。

  引用の一文は「立正安国論」より採りました。安国論では徹底的に念仏者のあり方が批判されています。何故、それほどまでに日蓮聖人は念仏を批判したのでしょうか。念仏者は現世の苦しみを来世の極楽往生にすり替えて、現実を見ようとしない。自分だけ救われれば良い。他人や社会はどうでも良い。このような自己中心の考え方を聖人は「寸心」と言ったのです。安国論の最後は“先ず、生前を安んじて、更に没後を扶(たす)けん。”と結ばれています。今生の問題を解決せずして、何が極楽か。信仰(信心)が社会化されてこそ信仰(信心)が信仰となり、宗教が宗教となる。日蓮聖人の念仏者への問いかけはやがて蓮如上人によって実現されることとなります。

  日蓮聖人の言われる実乗の一善とは法華経のことです。つまり、念仏の寸心を改めて、法華の「大心」帰れというのです。法華経の教えとは何か。真理(諸法の実相)とは仏のみが知る(唯仏与仏)世界のことなのだから、衆生(人間)は仏の導き(方便)によってのみ仏智(諸法の実相)を開き、覚りに到ることが出来る。だから、仏は永遠の生命(久遠実成の本仏)をもってこの世に出現されたのだ。仏は今ここで衆生を導きお救いなさっている。ここを信ぜよ。仏は今ここにおられる。法華経の教えからすれば、先ず、現世があって来世がある。だから、日蓮聖人にとって、念仏者の現世をおろそかにした信仰態度は許せなかったのです。

  “来世と現世”は「理想と現実」という風に置き換えて考えることが出来ます。我々古い世代からしますと、今時の若い人の尻軽な転職は不思議でなりません。ブラック企業なら別ですが、仕事が自分の理想と違うからと手軽にやめてしまう。転職を繰り返して、理想の職が見つからず、ついには引きこもってしまう。これこそ寸心の極みでありましょう。こういう人は自分の不運を社会や親のせいにして、現実の自分をまったく見ようとしていないのです。優れた社会人とは自己を知った人です。自己をわきまえた人です。これを大心の人と言うのです。

  理想と現実は違います。今(現実)の自己を知れば人生(未来)が開けます。縁あって、当ホームページを閲覧された全ての人々の人生にとって、当ホームページが何かしらお役に立てば、情報発信者としてはこれほどの幸せはありません。おかげ様で、ホームページ開設一年目を無事迎えることが出来ました。閲覧された全ての方々に対しここに厚く御礼申し上げます。人生を探求する全ての人々の為に、今後も役立つ情報を発信していきたいと思っています。是非、次回もアクセスしてみてください。

努力と忍耐(2014年3月16日)

 何で、そんなに急ぐのですか。安倍首相と橋下市長のことです。集団的自衛権と軍事同盟は不可分のものです。しかしながら、日米安保条約においては、日本の軍事的役割は米軍に基地を提供することだと言います。これでは、領民が領主に年貢を納める見返りに、領主より財産・生命の保証を与えられるという封建時代の領主・領民関係と何ら変わるところがありません。朝鮮戦争の時はそれで済みました。しかし、それは占領時代の話です。今、仮に、日本国内にある米軍基地が攻撃された場合、自衛隊はどうするのでしょうか。攻撃が米軍基地内に限定されているのであれば、自衛隊は手出しができないというのが現状の解釈ではないでしょうか。日本の義務は基地提供で果たせています。しかし、基地外にも攻撃が及んだ時、日本防衛のため自衛隊とともに米軍もまた出動義務を負います。まことに、片務的といわざるをえません。日米を対等にしたいという安倍首相の気持ちはよく分かります。このような矛盾の根本原因は日本国憲法にあります。であれば、憲法解釈を変更するのではなく、憲法改正が筋ではないでしょうか。あせる必要はありません。地道に、丁寧に国民に理解を得る努力をするのが首相の今とるべき道だと思います。ここは忍耐ですよ。安倍さん。

  一方、橋下市長です。大阪都構想という考え方は大いに評価すべきと考えます。しかし、大阪が府と市に分かれて何十年たつのでしょうか。府と市の利害関係が網の目のように絡み合って、それらを解きほぐして整理するだけで、相当の時間がかかるはずです。話し合いがうまく進まないからといって、出直し市長選に打って出るなど、あまりにも、忍耐が足りません。大衆は政治家を選びぱなしです。後は、お前にまかせるというのが大多数の大衆の本音です。都構想を実際に進めるのは、府知事であり府議会であり、市長であり市議会であり、役人の方たちです。調整すべき利害関係は膨大です。橋下さん、ここは、一つ、十年ぐらいかけるつもりでおやりになったらいかがでしょうか。

  さて、前置きが長くなりました。本論に入りましょう。前回、申し上げましたが、冒頭の日蓮聖人のことばは立正安国論から引用しました。聖人の開教は1253年、聖人32歳の時でした。しばらくの間、鎌倉の地で布教に努められました。そして、爾来7年、1260年、立正安国論を幕府に提出されました。ここに、聖人の苦難の人生が始まりました。伝えられる法難だけでも、松葉ケ谷、伊豆、小松原、滝口とあります。そして、佐渡流罪が1271年、聖人50歳のことでした。ご赦免が1274年、53歳。翌年、身延入山。ご入滅は1282年、61歳でした。この間、夥しい数の弟子への消息(手紙)とご遺文を遺されました。苦難の中にあって、人々を実乗の一善(法華経)に帰せしめたいという堅い意志だけは決して崩れることはありませんでした。だから、数々の法難にも耐えられたのです。そして、法統は今に至るまで累々と続いています。日蓮聖人には、今の生涯を越えて目標を達成しようとする強い意志があったと思います。

  宗教と政治は違います。しかし、自分の信ずる政治課題を達成したいのなら、自分の生涯を越えてでも為し遂げたいという強い意志が必要なのではないでしょうか。安倍総理。橋下市長。あなた方の掲げる政治課題は自分の生涯を越えてでも実現したい事柄なのでしょうか。強い意志があれば自ずと人が集まり、後継者も育ち、国民、そして、府民や市民の理解も得られるでしょう。

  さて、翻って私たち自身のことを考えて見ましょう。あなたには人生の目標がありますか。良い学校に入って、良い会社に就職して、良い結婚相手を見つけて、良い家庭を築く。子宝にも恵まれれば、こんな幸せなことはありません。しかし、十年もたてば、新婚時代の幸せ感はマンネリズムの深い淵に陥りかねません。今、放送中のNHKの朝ドラの主人公は得意の料理を通して、夫や子供たち、舅や姑、あるいは、友人そして近隣の人々を幸せにしたいと努力します。だから、小姑のいじめにも耐えぬき、戦争、戦中、そして、戦後の物資不足にあっても、工夫を重ねて、おいしい料理を作ろうと頑張れるのです。ドラマで描かれている主人公の家庭は戦前にあっては、ごく普通の家庭だと思います。主人公の人生には料理という黄金の一本道が通っています。高視聴率の背景には私もそうありたいという視聴者の隠れた願望が隠されているのではないでしょうか。

  人生は忍耐です。夫婦関係も忍耐です。親子関係も忍耐です。上司との関係も忍耐です。部下との関係も忍耐です。仏教では、この世のことを忍土と申します。平凡な人生にあって、平凡ならざる黄金の一本道を見つけましょう。趣味でもかまいません。釣りばか日誌の主人公は趣味の釣りの時間を作る為に努力と工夫を重ねます。彼の釣りは片手間ではない。だから、仕事が少しいい加減でも周りも彼を憎めません。趣味も片手間にやったのでは、人生の黄金の一本道にはなりえません。徹底してやることです。そうするには、努力と忍耐、そして、工夫が必要です。

  宗教という選択はどうでしょうか。本物の宗教には、その信心・信仰の背景にある世界観が必ずあります。宗教的安心感とはそういう世界観に生きる中にあります。仏教のそれは輪廻転生・悪因悪果・善因善果という考え方です。わが「妙法十句」もまたこの価値観にたっています。仏教的に言えば、今の人生は過去世の行為(業)の結果であり、今の人生の行為は来世の生涯を決定付けるということです。だから、釈尊は悪を絶ち(諸悪莫作)、善を勧められた(諸善奉行)のです。本編「仏教入門」は長丁場になりそうですが,いずれ本物の仏教の姿が現れてくるものと思っています。また、「妙法十句入門」はまもなく完結予定です。閲覧者各位の賢明なる人生の選択を期待します

中国の脅威を考える(2014年4月18日)

 前回に引き続き、今回も、日蓮聖人に学びます。4月11日付け朝日新聞朝刊にこのような記事がありました。中国の清華大学・当代国際関係研究院院長の閻学通氏へのインタビュー記事でした。習近平政権の外交政策の基本は何かとの質問に対し氏はこう答えています。「国家の尊厳の問題を解決する外交だ。中国は経済力に見合った国際的な尊敬を得られていない。同盟関係にある国もほとんどない。」だから、同盟関係が必要なのですね・・・「中国が今後も非同盟政策を続けるなら、強大な軍事力を自分たちに向けることはないのかと思う国が出てくる。同盟を結ぶことで、周辺の小国に安全保障上の脅威を与えないと保障できる。同盟を結ばなければ、周辺国が怖がるのは当然だ。」その小国の方が中国と同盟を結びたくないのでは・・・「彼らが結びたいかどうかは関係ない。中国が結びたいかどうかの問題だ。中国が金を出すのだから、保護されるのを嫌だという国はないだろう。」

 何という傲慢・不遜な物言いでしょうか。小国とはどの国をさすのでしょうか。わが日本も小国なのでしょうか。発言の裏には中国人の中華(華夷)意識がありありと見えます。中国歴代王朝は強大な軍事力、経済力を背景に、周辺の国々に従属を迫り、自らの勢力圏に囲い込みました。従属国は時の王朝に定期的に朝貢し、見返りに、交易が許されました。このような国家間の支配従属関係を柵封関係と呼びます。閻氏は、かっての柵封関係を同盟と言い換え、同盟国には経済的利益を与え、彼らの安全を保障してやるのだから、拒否することは無いだろうと強弁しています。まさに、中華、中国(中心の国)との意識そのものです。

 習近平政権が新しい華夷秩序・柵封関係の構築に乗り出したことは明らかかです。習主席のいう「中国の夢」とはこのことを指します。防空識別圏の設定や、尖閣諸島への度重なる公船による侵入。また、南シナ海におけるベトナム領およびフィリピン領の諸島の占領と行政区域・三沙市の設立。あるいは、第一列島線と第二列島線なるものを設けて、太平洋への海洋進出を目指す。統一中国が外縁への勢力拡大を目指すのは歴史的必然であって、それ自体をとやかく言うつもりはありません。しかし、時代は変わりました。クリミア半島のロシア編入で、ロシアが非難されているように、武力による国境線の変更は決して許されません。明らかに、中国は時代の歯車を逆転しようとしています。

 安倍総理は、今の日中関係を第一次世界大戦前の英独関係に例えました。このような見方では、事の本質は見えてきません。むしろ、19世紀末から20世紀中ごろにかけての日中関係に学ぶべきです。当時に比べますと、日中の力関係は明らかに逆転しました。かれらの言う、第一列島線と第二列島線の考え方は、1890(明治23)年に山県有朋内閣で打ち出された主権線と利益線という政策によく似ています。主権線とは法的に言う国境線のことです。利益線とは、国境線の安全および脅威に密接に変わる地域とされました。1894(明治27)年の日清戦争もこの政策の延長線上にあります。続く、日露戦争、朝鮮併合、満州国建国、日中戦争、日米戦争等、みな利益線確保の戦いでした。

 さて、第一列島線とは、九州、沖縄、フィリピン、ボルネオに到る海域を指します。東シナ海、南シナ海、台湾、そして、尖閣諸島もこの線内に入ります。中国政府は大陸棚を国境線と主張していますから、第一列島線は主権線に該当します。また、第二列島線は、伊豆諸島、グアム・サイパン、ニューギニアに到る海域です。こちらは、利益線ということになります。今のところ、第一列島線内での中国の覇権はまだ確立していません。一方、南シナ海には三沙市を設立し、この海域の実行支配を強めています。三沙市は海の満州国と言えましょう。次は、東シナ海での支配権の確立を目指すものと思われます。今、尖閣諸島は危機の最前線に立っています。クリミア半島のロシア編入を国際社会は阻止できませんでした。中国はこれを見ています。尖閣防衛は喫緊に課題です。

 安倍政権の掲げる集団的自衛権の憲法解釈変更は尖閣危機を念頭に置いたものと思われます。笛吹けど踊らず。一向に、国民の危機意識は高まりません。李氏朝鮮を思い出してください。時の李朝も国民も自国に迫る侵略の危機を軽視しました。日清戦争は朝鮮の支配をめぐる日清の争いでした。自主独立の朝鮮があったならば、日清間の戦いも起こらなかったはずです。

 さて、日蓮聖人の話です。引用の「立正安国論」には、幕府と人民が邪教の念仏を棄て、真理の経典・法華経に帰依しなければ、内乱と外国からの侵略をもたらすだろうとの予言がなされています。自界叛逆難、および、他国侵逼難と呼ばれているものです。日蓮聖人の主張は来世に心を架けて、現実を見ようとしないそういう社会一般の風潮を批判しているのです。


 東アジアは混迷の時代に入りました。その主因は中国の経済的、軍事的な急速な膨張てす。このような状況は日露戦後の日本の経済的、軍事的な膨張になぞらえることが出来るでしょう。かっての日本に中国が取って代わったということです。当時の朝鮮は武力蔑視・反軍思想により、中国は分裂、国家統一の喪失により、日本の侵略を許しました。朝鮮半島は今のところ軍事的に均衡しているものと思われます。韓国・朝鮮人にはかっての武力蔑視・反軍思想はありません。彼らに代わって、武力蔑視・反軍民族になったのが日本人です。冷戦時代はこれですみました。武力蔑視・反軍思想の出所が日本国憲法にあることは明らかです。安倍総理の憲法改正路線はこの意味で正しいと思います。

 
四諦・八正道、念仏、題目、禅たけが仏教ではありません。釈尊がまず教えられたことは、正しいものの見方・考え方(正見・正思惟)を持てということです。他国侵逼難が起きようとしています。今こそ、正しい国家の安全保障観を国民一人ひとりが持たねばなりません。自衛権に個別的と集団的があるなどという論争をしているのは日本だけです。武力蔑視・反軍思想は日蓮聖人のいわれる「信仰の寸心」に他なりません。かっての朝鮮がそれを証明しています。それは、国の進路を誤り、挙句、国民の生命、財産を危機に陥れる邪思想に他なりません。平和、平和とお題目みたいに唱えていても平和はもたらせません。平和実現は努力です。軍事力はその有力な手段なのです。政府はこのことを広く国民に訴え、説得しなければなりません。憲法解釈の変更などという、姑息な手段は止めて、堂々と憲法改正を国民に提案すべきです。

日本国憲法の安全保障観考える(2014年6月14日)

 集団的自衛権に関する論争がヒートアップしています。国家の自衛権を個別的と集団的に分けて論争しているのは、世界で日本だけです。その原因が日本国憲法にあることは明らかです。今回は、このような状況をもたらした日本国憲法の安全保障観について考えてみたいと思います。まず、前文の次の箇所を見てください。ここには、国家の安全保障に関する基本的なものの考え方が謳われています。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

 憲法九条はこの文言を受けて起草されたことは明らかです。

 第一項、日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

  第二項、先項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 九条一項の趣旨は侵略戦争の放棄です。問題は第二項です。二項は明らかに国家の武装そのものを否定しています。“平和を愛する諸国民の公正と信義”に“信頼”を置けば、非武装であっても“国家の安全と生存が保持できる”というのです。これでは、他国に自国の安全保障を丸投げしたのと同じです。李氏朝鮮の悲劇を繰り返してはなりません。


  護憲派の人々は九条が戦後六十年以上にわたる平和をもたらしたと主張します。しかし、この平和は偶然の結果でしかありません。共産主義陣営と資本主義陣営の軍事的均衡が世界大戦の勃発を防いだのです。その一方で、朝鮮戦争、キュウバ危機、ベトナム戦争、イラク戦争とアフガンの混乱など、局地的な紛争は絶えませんでした。朝鮮戦争以降、東アジアにはこの間有事がなかっただけです。その結果、日本は日米安保の下経済的な繁栄を享受できたのです。

  しかし、冷戦が終了して、二十年。中国は軍事大国化し、北朝鮮は核武装するに至りました。韓国の反日姿勢はますますエスカレートするばかりです。どこに、“平和を愛する諸国民の公正と信義”があるのでしょうか。

  護憲派の人々にとっては、“平和を愛する諸国民の公正と信義”が救済の神仏(かみほとけ)になってしまっています。引用の憲法前文は歎異抄・第一段のこの一文を彷彿とさせます。

  弥陀の誓願不思議にたすけられまひらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをくるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。

  “平和を愛する諸国民の公正と信義”は“弥陀の誓願不思議”です。“平和を愛する諸国民の公正と信義”を信心すれば、国家の安全と生存がもたらされるというのです。しかし、人間とは、国家とは善なる存在なのでしょうか。歎異抄・第三段にはこうあります。

  善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。・・・中略・・・。煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからさざるをあはれみたまひて、願ををこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも往生の正因なり。よて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、おほせさふらき。

 親鸞聖人はどんなお気持ちでこう述懐されたのでしょうか。悩んで、悩んで、悩み尽くした果てに、悪人こそ救いの正機との自覚が芽生えてきたのです。人間は悪なる存在です。その集合体の国家も悪なる存在です。


  世界のすべての国々の国民が“平和を愛する諸国民の公正と信義”の実現を発願し、すべての諸国民がそこに向けて努力しているのであれば、“平和を愛する諸国民の公正と信義”も“弥陀の誓願不思議”ともなりましょう。しかし、そんなことはあり得ません。我々は悪意ある国々に囲まれています。これが事実です。

  日本国憲法が絶対平和教の所依の経典になってしまっています。戦後の平和は偶然の結果です。南無日本国憲法では平和は実現しません。“平和を愛する諸国民の公正と信義”は日蓮聖人が批判された幻の極楽浄土です。絶対平和などどこにない。他人(ひと)まかせでは平和は訪れません。自国の平和は自力で勝ち取る意外にはない。全国民がこう自覚することから国民の安全と生存は実現するものと信じます。

ある人々は人の胎に宿り、悪を為した者どもは
地獄に堕ち、行いの良い人々は天におもむき、

汚れの無い人々はニルヴァーナに入る
(法句経)

日本人の罪悪感を考える(2014年6月14日)

 佐世保市で、悲惨な事件が再び起きてしまいました。事件は高校一年の女子生徒が同級生の女子生徒を殺害し、首と手首を切断するという凄惨なものでした。犯行は7月26日午後8時ごろ、動機は「人を殺して、バラバラにしてみたかった」と言います。人は物ではありません。切れば、血も出るし、痛いし、死にもします。犯行の女子生徒には以前に猫を殺害し、解剖した前歴がありました。猫では我慢できず、人間を殺したのでしょうか。

 今回の事件は、‘97年(平成九年)の神戸A少年事件に酷似しています。A少年もそうでしたが、この女子生徒には罪悪感というものがありません。筆者は昭和二十年代に幼少年期を過ごしました。猫を殺すと化けて出る。こう、たびたび大人から脅かされました。猫をパチンコで打って遊んだ覚えはありますが、猫殺しなど考えたこともありません。化け猫がイメージされたからです。化け猫映画もありました。恐らく、当時の大人たちは“殺生は悪い”ことだということを、身近な猫いじめを題材に子供たちに教えていたのだろうと思います。また、年寄からは地獄の話もよく聞かされました。血の池地獄や針の山、大なべで煮られる亡者ども、そして、赤鬼・青鬼の獄卒。嘘つきは閻魔さまに舌を抜かれる。子供心に絶対に悪いことはすまいと、心に誓いました。つまり、昔の子供たちは地獄や閻魔様の話から善悪の基本を学んだのです。


  旧憲法下にあっては、個人は「家」の一員として、戸主の下、親子(父子・母子)、兄弟、嫁舅姑といった上下関係の中にありました。子供たちはかかる上下関係の家族集団の中にあって、倫理道徳を学びました。戸主は家族の庇護と養・育に責任がありました。小学校の修身教育は家族倫理を教えるものでもありました。

  翻って、今はどうでしょうか。神戸A少年や今回の事件の女子高生の親を我々の社会は非難できません。何故ならば、このような親を作ったのは我々の社会だからです。新民法では、「家」制度は廃止され、戸主もいなくなりました。戸主は家族の庇護と養・育に責任を負っていました。ところが、戸主が廃止されると同時に父親の家族への責任もあいまいになってしまいました。父権の喪失が叫ばれて久しい。我々の社会は家族制度の廃止の弊害の一つとして、父権の喪失を確かに自覚しています。母親は包み込み、父親は切ると言います。父親は社会規範の体現者でなくてはなりません。今回の事件の父親は自らの再婚を理由に、娘を一人住まいさせています。つまり、娘の庇護と養・育を放棄したのです。精神科医と彼女の入院を相談していたとの報道もありますが、それならば、入院までは自分の手元に置くのが筋ではないでしょうか。

 
いったい、今、我々の社会は子供たちに物事の善悪をどのように教えているのでしょうか。何故、人殺しが悪いことなのかと子供に問われ答えに窮したという話がありました。悪いことは悪いとしか、答ええられなかったと言います。これでは答えになっていません。殺人は地獄に堕ちる。殺された者は怨霊となってわが身に祟る。筆者は子供のころそう教えられました。嘘をついて何故悪い。そうではありません。嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれる。だから、嘘はつかない。嘘はつけない。また、悪いことをしたら、お回りさんを呼ぶ。こうもよく言われました。その昔の躾けはリアリティーがありました。今はただ言葉だけです。これでは子供は実感が持てません。佐世保の事件の少女も殺人は悪いことだということは知っていたと思います。しかし、彼女には実感がなかったのです。だから、実際に人殺しをして試す他なかったのかも知れません。人殺しの結果、彼女は警察に捕まりました。しかし、悔恨の気持ちはないようです。事、ここに及んでも、本人には犯罪の自覚がないようです。

  我々の先祖たちは死霊を極端に怖れました。死霊は生者に祟り、その生を脅かすものと考えられていました。特に、非業の死を遂げた者の霊は怨霊となって、生者に祟るものとされました。先祖たちは慰霊・鎮魂のために怨霊を神として祀りました。菅原道真公を祀った北野天満宮はその一例です。

 仏教が伝来して、祖先たちは“因果の道理”を知ります。現世の自分は過去世の行いの結果である。今の行いは来世の自分を到来する。地獄、極楽も知りました。悪事を為せば、地獄に堕ちる。善事は極楽の種である。

  我々日本人の罪悪感は、このように、伝統宗教の“祟り”の観念と仏教の“因果応報”の観念とが混然一体となったものです。殺した相手は悪霊となって祟る。死んでは地獄に堕ちる。一個の人格の中でこのような心理反応が同時に起きます。従来はそうでした。だから、殺人など怖くてできません。

 
昨今は法律が悪事のブレーキになっていません。しかも、祟りもない。因果応報など知らない。厳しい父親もいない。我々の社会は佐世保の女子高生のような子供たちや若者を無意識に作り出しています。宗教教育と道徳教育の再生が急務です。学校での宗教教育は難しいとは思いますが、道徳教育については、早急な国民的な議論が待たれます。宗教教育は宗教者の役目です。宗教関係者の努力を期待します。

朝日報道と慰安婦問題を考える(1)(2014年10月4日)

 朝日新聞は8月5、6、28日紙面で「従軍慰安婦に関する過去の報道」の一部を取り消しました。今回はこの件について考えてみたいと思います。

 朝日のこの件に関する最初の報道は1982年9月2日付け朝刊に「朝鮮の女性 私も連行・暴行加え無理やり」というタイトルでなされています。内容は、元山口県労務報国会下関支部動員部長を名乗る吉田清治氏の次なる告白でした。昭和18年初夏、済州島で部下9名とともに、暴力を使って若い女性を拉致し、軍用車に押し込み兵隊が集団暴行した。引き続き、3年間、朝鮮半島に渡り、朝鮮人約7000人を徴用し、その内、950人が、皇軍慰安女子挺身隊と呼ばれていた従軍慰安婦だったというものでした。

 記事の下敷きになったのは、同年9月1日の吉田氏の講演と1977年発行の氏の著作「朝鮮人慰安婦と日本人」でした。吉田氏は朝日報道の翌年1983年には、「私の戦争犯罪・・朝鮮人強制連行」を出版しています。同書で吉田氏は済州島で慰安婦狩りをしたと告白しています。また、朝日は、この年の12月には、吉田氏が韓国・天安市に謝罪の碑を建て、除幕式で謝罪したと報道しました。

 83年の吉田氏の著作は1989年に韓国で翻訳出版されます。当然、反日感情が高まりました。しかし、内容に疑問を抱いた韓国人もいました。済州新聞の許栄善記者と郷土史家の金奉玉氏の二人でした。両氏は調査の結果、吉田氏のいう強制連行はなかったとしています。恐らく、朝日新聞はこの情報を把握していたはずです。しかし、何ら反応はしませんでした。

 1990年10月には、韓国の女性団体が慰安婦問題に関し、日本政府に公開書簡を提出しました。続いて、11月には韓国挺身隊問題対策協議会(挺対協)が発足しています。この年、慰安婦問題は国会でも取り上げられましたが、政府は強制連行の事実はなかったと答弁しています。

 1991年、8月11日付朝日新聞・大阪版朝刊は「元朝鮮人慰安婦 戦後半世紀重い口開く思い出すと今も涙」とのタイトルで元従軍慰安婦の証言を掲載しました。第二次大戦中、多くの朝鮮人女性が女子挺身隊の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた。証言者の女性はこの体験者で、17才の時に、騙されて慰安婦にされたと報じました。また、この年の12月には、三名の元慰安婦が日本政府を相手に損害賠償の提訴を起こしています。この内の一人は、先の証言をした女性でした。

 1992年1月11日付け朝刊で、朝日新聞は「慰安所 軍関与示す資料 政府見解揺らぐ」「防衛庁図書館に旧日本軍の通達・日誌 部隊に設置指示 募集含め統制・監督」と報じました。この資料は中央大学の吉見義明教授が防衛研究所で発見したとされ、「軍慰安所従業婦に関する件」という昭和13年に陸軍省から派遣軍への通達でした。通達の内容は、悪徳業者の取り締まり指示でしたが、朝日記事はかかる内実を無視し、軍関与の証拠としたのでした。また、この記事には、従軍慰安婦の解説欄があり、そこでは「朝鮮人女性を挺身隊の名で八万から二十万強制連行した」と説明しています。

 朝日の記事に、韓国与論は激高しました。当時、宮沢首相は訪韓を控えていました。1月13日には当時の加藤紘一官房長官は朝日報道を受けて、政府としての謝罪会見をしました。続く、16日、宮沢首相は訪韓し、当時の盧泰愚大統領に謝罪し、真相究明を約束しました。日本政府の謝罪は、従軍慰安婦が事実として認知された瞬間でした。

 朝日新聞は、今回の検証で、吉田清治氏の慰安婦強制連連行に関する証言を取り消しました。そもそも、新聞報道は事実を報ずるものでなくてはりません。虚偽を報ずるのであれば、戦前の大本営発表と何ら変わりません。事実を報ずる為には、事の真偽の検証は必須条件です。吉田証言を検証もせずに、記事にしたことは明らかです。吉田氏は済州島で慰安婦の強制連行(慰安婦狩り)をしたと言っているのですから、現地での検証はたやすかったはずです。先述したとおり、83年に、韓国人の二人の研究者が現地調査し、吉田証言が虚偽であることを明らかにしています。また、秦郁彦氏も、92年に現地調査し、同年4月30日付け産経新聞紙上で吉田証言の虚偽を証明しています。

 戦後、朝日新聞は、進歩的言論機関として多くの国民の支持を得てきました。読者の多くは、朝日がまさか嘘をつくまいと思っていたはずです。朝日は“見せかけで読者を欺いた”のです。そして、「戦前は悪だ」という“誤った見解を奉じ”、国民の思想改造を“たくらんだ”のです。まさに、“賤しい人(行為)”に他なりません。一方、検証もせずに、朝日記事を信用した当時の政府も政府です。それにしても、この一件は時の政府が信用するぐらい、朝日新聞には社会的な信頼があったということの証左でもありましょう。

 恐らく、宮沢首相は自分の謝罪で慰安婦の問題は収束に向かうだろうと思ったはずです。しかし、慰安婦問題はその後の日韓関係に、深く刺さった棘として、両国関係を悪化させてゆきます。事実はそっちのけにされて、虚言に虚言が重ねられていったのです。何故、虚言が事実として、まかり通ってしまったのか。次回も、慰安婦問題の検証を続けます。

朝日報道と慰安婦問題を考える(2)(2014年10月29日)

  慰安婦問題の検証を続けます。朝日新聞の従軍慰安婦に関する一連の報道を受けて、1992年、1月16日の訪韓時、宮沢首相は謝罪に追い込まれました。記事の検証もせずに、政府が正式謝罪したことこそが問題であることを前回指摘しておきました。朝日新聞は、宮沢首相の謝罪後も、92年だけで、四回も関連記事を報道しています。首相が謝罪した上、引き続き、報道もされている。従軍慰安婦は事実なのだろうと、韓国国民が信じたのも当然のことでしょう。

  宮沢首相は訪韓時、従軍慰安婦に関する真相究明を韓国側と約束していました。その調査結果が、92年7月6日に発表されました。慰安婦の強制連行を示唆するような公式資料はなかったが、慰安所の設置やその運営に関する政府関与はあったとするものでした。そもそも、戦場に女性を連れて歩く軍隊がどこにあるのでしょうか。女兵士が慰安婦も兼ねていたというのであれば、そういうこともあるかも知れません。そもそも、「従軍慰安婦」なる言葉は造語です。1973年、千田夏光著「従軍慰安婦」が最初とされています。史実としての慰安婦とは、内地および朝鮮内の売春宿業者(女衒=ぜげん)が職業売春婦として募集し、日本軍駐屯地で働かせたものでした。軍は、衛生上、および、人権上の配慮から、業者の管理監督をしたものでした。つまり、女性の強制連行がもしもあったとすれば、それは悪徳業者の仕業であったはずです。兵士がもしも慰安婦募集に関わったとしたら、軍律違反です。軍法会議で罰せられるはずです。兵士がそんな危ないことに手を染めるでしょうか。常識で考えれば解ることです。

  92年7月、日本政府が強制連行を否定したにも関わらず、韓国政府は慰安婦問題を提議し続けました。また、日本政府を相手取っての、元慰安婦による訴訟も続きました。5月には、秦郁彦氏が吉田清治氏の済州島慰安婦狩り証言を検証・否定しました。しかし、吉田氏は活動を止めません。8月には訪韓し、元慰安婦に謝罪までしています。8月13日付け朝刊で朝日は「元慰安婦に謝罪 ソウルで吉田さん」とのタイトルでこの件を報じています。

  93年2月には、韓国・挺身隊研究会が元慰安婦に聞き取り調査を始めます。これを受けて、韓国政府は元慰安婦への支援策を発表しました。同時に、日本政府に教科書への慰安婦の記述を求めました。4月には、フィリピンの元慰安婦が日本政府に謝罪と補償を求めて訴訟を起こしました。そして、8月の河野談話へと続きます

  河野談話が日韓の合作であることは、石原信雄元官房副長官の証言で明らかになっています。談話を読み通すと韓国側の主張への日本の配慮が処々に感じとれます。次回は、河野談話の検証をします。

朝日報道と慰安婦問題を考える(3)(2014年12月12日)

 河野談話は1993年8月4日に出されました。時の官房長官河野洋平氏より「慰安婦問題に関する第二次調査報告結果」として発表されました。
 
いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年十二月より、調査を進めてきたが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 
今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 
なお、戦地に移送された慰安婦の設置については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 
われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

 
「旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」「本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり」「官憲等が直接これに加担したこともあった」「強制的な状況の下での痛ましいものであった」「総じて本人たちの意思に反して行われた」「当時の軍の関与の下に」・・・河野氏は談話中でこう発言しています。これらの発言内容は、明らかに“軍が関与した慰安婦の強制連行があった。”ことを認めています。政府は否定していますが、談話の根拠の一つとなったのが、朝日新聞の慰安婦関連報道だったことは明らかです。特に、強制性については、吉田清治証言の影響が想像されます。

 日本政府の基本的立場は“慰安婦の強制連行の証拠はなかった”ということだったはずです。河野談話は作文です。何故、政府が小説家の真似事などするのでしょうか。何を根拠に、こんな出鱈目をでっち上げたのでしょうか。根拠など、どこにもありません。韓国政府と元慰安婦の証言を材料に作文したのです。日韓友好に配慮しての施策だったのです。その心理的背景はいわゆる「自虐史観」です。日本は韓国・朝鮮の人々に対して悪いことをした。だから、償わなくてはならない・・・。


 日本人にとって、「歴史は記録する」ものですが、韓国人にとっては、「歴史は作るもの」なのです。彼らは歴史的事実を重視しません。彼らが重視するのは民族(一族)の名誉と尊厳です。民族(一族)の名誉と尊厳を守る為なら、どれほど虚言を弄しようとも許されます。今や、慰安婦強制連行は韓国民の歴史的事実の一部となっています。朝日新聞がいくら記事を取消そうとも、一度彼らの中で事実となった虚言は覆りません。独立後、韓国は韓(朝鮮)民族の名誉と尊厳を回復するために、新たに自分たちの歴史を創作しました。ここでは、日本による植民支配は人類史上最悪とされました。

 
今、日韓関係は最悪の状態にあります。その出発点が1982年9月2日付けの「慰安婦狩り」を報じた朝日新聞記事にあることは明らかです。朝日新聞の責任は甚だ大きいと言わざるを得ません。日本で記事を取り消したのであれば、韓国とアメリカでも記事を取り消さねばなりません。アメリカでは、韓国系アメリカ人による慰安婦記念碑と慰安婦像の設置運動がやみません。在米邦人子弟がこれを理由にいじめにあっているという話も聞きます。

 
どうにかしなくてはなりません。日韓ともに共通の認識でありましょう。しかし、解決策を見出すのは容易ではありません。アジア女性基金(1995年)によって日本政府の元慰安婦への公式の謝罪と補償は終わっています。これ以上、どうすればよいのでしょうか。日韓対立は「あった歴史」と「あるべき歴史」というイデオロギー対立です。お互い譲歩できません。時も解決してくれません。考えるだけ無駄です。このままほっておくのが最善策のようです。

戦後七十年に想う(2015年1月16日)

 孔子は自分の人生を振り返り、「七十にして心の欲する所に従えども矩(のり)をこえず。(論語・為政第二)」と述べています。私は十五歳で学問に志したが、七十歳になって、ようやっと身についた知識が思うがままに行えるようになった。しかも、それは世の求める所に合致している。

 今年は敗戦から七十年目の節目の年です。戦後日本は満七十歳を迎えます。孔子は十五の歳に学問を志しました。戦後十五年というと、昭和三十五年です。この年、岸内閣の下で、日米安保条約が改正されました。改正案の成立後、岸内閣は退陣し、池田隼人内閣が成立しました。池田内閣は、「所得倍増計画」を政策の柱とし、高度経済成長を目指しました。孔子は十五歳の時に、学問に志しましたが、戦後日本は十五歳で経済大国を志しました。昭和四十三年には、当時の西ドイツを抜いて世界第二位の経済大国を実現しました。昨年度、中国に抜かれましたが、日本は依然として世界第三位の経済大国です。

 人と国家は違うと思いますが、戦後日本は七十歳を迎えて、思うがままの国家と成っているのでしょうか。オイルショック、バブル、そして、失われた十年がありました。日本経済は思うようになりません。「人生七十古来まれなり」・・・、戦後日本は古希を迎えます。今、この国はひと時代を終えようとしています。

 明治維新後の七十年はどうだったでしょうか。明治元年が1868年。それから70年というと、1938年です。元号では、昭和十三年となります。この年、国家総動員法が公布されています。前年の1937年には、日中戦争(シナ事変)が勃発しています。

 1885年(明治18年)に、太政官制度が廃止され、内閣制度が発足しました。ここに、近代的統治機構が整えられます。内閣総理大臣および宮内、内務、外務、大蔵、司法、文部、農商務、逓信、そして、陸軍省と海軍省がおかれました。内閣は天皇を輔弼するものとされました。

 こうして、明治日本は18歳の年に欧米諸国に並ぶ近代国家を志しました。1889年(明治22年)には大日本帝国憲法が公布されました。翌1890年には第一回帝国議会が招集されています。近代化と対外戦争が同時進行しました。明治維新からの七十年は対外戦争の時代でした。日清戦争(1894~95)、日露戦争(1904~05)、第一次大戦(1914~18)、満州事変(1931~32)、日中戦争(1937~45)そして、太平洋戦争(1941年)と敗戦(1945年)。明治日本は気が付いたら軍事大国になっていました。そして、欧米と肩を並べたと勘違いしました。その結果が1945年の敗戦でした。


  一方、戦後日本は非戦を貫き通しました。日本国憲法と日米安保条約のおかげもありましょうが、非戦が貫き通せた大きな理由は、朝鮮戦争以後、東アジア地域では、政治的・軍事的な均衡が保たれていたということがあると思います。しかし、今、東・南シナ海では、中国の海洋進出によって、急速に力の均衡が崩れつつあります。

 さて、国内に目を転じますと、戦後七十年の今日。難問が噴出しています。少子高齢化と家族の危機、貧困と格差の拡大、生産の海外流出と雇用の喪失、東京一極集中と地方の劣化、倫理観の低下と犯罪の低年齢化等々。どれも、ゆるがせには出来ない問題ばかりです。

 我々はどう対処したら良いのでしょうか。冒頭の一文は法華経より採りました。世の人々は煩悩の炎に焼かれて、憂い、恐怖、苦しみの数々に浮き沈みているが、実は、私の浄土は毀損されることはない。お前たちのいる所が私の浄土なのだ。

 戦後、我々は戦前を封建遺制として否定しました。そして、欧化に変えてアメリカ化を目指しました。今の行きづまりはアメリカ化の行きづまりでもあるとも思うのです。問題解決の糸口は我々自身の身中(己心の浄土)にあります。民族の伝統、文化、価値観の中にその解決策があります。少子高齢化は、先進国共通の現象だと言いますが、家族制度を放棄したことも要因の一つではないでしょうか。倫理観の低下は明らかに儒教倫理を封建遺制として否定した結果です。戦後七十年目の今こそ、民族の伝統、文化、価値観をもう一度見直し、それらを基底とした次の時代の国家・社会の構築を目指すべきでありましょう。

 昨年十二月の衆院選で与党は大勝しました。阿部首相には四年という時間があります。この時間で首相がやるべきことは景気回復を速やかに実現し、自らの信念である“戦後レジーム(体制)からの脱却”を自分に課された使命と自覚し、その実現に努力することであると思います。

戦後七十年を生きて(1)(2015年4月1日)

 筆者は終戦の年の前年の生まれで、その人生はほぼ戦後史と重なります。この意味で、筆者自身が戦後七十年の作品だとも言えます。筆者の最も古い記憶はこうです。赤ん坊の自分が部屋の中で一人きりで座っています。斜め前の家の屋根に火柱が立って燃えている。それを赤ん坊の自分が見ている。母は赤ん坊の筆者を負ぶって、空襲下を逃げ回ったそうです。記憶の火柱は母の背中越しに、近所の家の屋根に焼夷弾が落ちたのを見たのだと思います。

 筆者には、三歳下の妹がいます。次の記憶はこの妹が生まれた時です。その日は大人たちが朝から大忙しです。新しいタライを誰かが洗っています。遊び疲れて、夕方?昼過ぎかも知れません。帰宅しますと母の横に生まれたばかりの妹の頭が見えました。

 その頃、我が家は大阪堺の母のおばの家の二階に間借りしていました。そんな事情も考慮したのでしょう。筆者は四国高松の母方の祖父母のところに一時預けられました。一年以上はたっていたと思います。我が家に戻りますと、妹が寝かされていた場所に彼女が立っています。これにはびっくりしました。同じ場所に寝かされているとばかり思っていたのです。赤ん坊(人間)は成長するということは幼児の筆者の頭にはなかったのでしょう。

 さて、“三つ子の魂百まで”と言いますが、そういう三歳から五歳ぐらいまでの間、祖父母の下で暮らしたということは、筆者の人格形成にかなり影響を与えたように思います。当時は、曾祖母がまだ健在で、時々、祖母の家に泊まりにきていました。そして、ひ孫である筆者への寝物語に地獄の話をよくしてくれました。悪いことをした者は、死んでから地獄に堕ちる。血の池地獄や針の山。亡者たちは、獄卒の赤鬼・青鬼どもに血の池地獄や針の山に追い立てられます。ウソをついた者は閻魔様に舌を抜かれる。極楽の話も聞いたのだと思いますが、全く、記憶がありません。人間、怖い体験は忘れないものです。死に対する恐怖感がこうして養われたように思います。

 また、祖父母の家には、色々な絵本がありました。カチカチ山。舌切り雀。桃太郎。花咲か爺さん。サルカニ合戦。祖母にせがんで、読み聞かせをしてもらったのだと思いますが、記憶があまりありません。ただ、それぞれの本の描画のイメージの記憶はあります。とにかく、これらの昔話から善悪の基準を学んだように思います。

 筆者は日本国も日本文化が大好きです。このような心も、幼児時代に培われたように思います。当時、母の叔父は高松市の栗林(じつりん)公園内で料亭を経営していました。店の建物は掬月亭で、当時それを大叔父が市からを借りていたようです。そこへは、しばしば祖母に連れて行ってもらいました。また、祖父母の家は八幡神社の参道沿いにあり、目の前は紫雲山でした。その裏が栗林公園で、紫雲山を借景としています。八幡社は高松の総鎮守で石清尾(いわせお)八幡宮と言いい、秋には大祭が行われます。この祭りの様子も幼児期の記憶の一つです。

 昭和二十年代の地方には、確かに、古い日本が残っていました。国民にも日本の文化・伝統・習慣を大切にしようという心が残っていたと思います。筆者はこのような日本的な環境の下で幼児期をすごしたような気がします。何の不安もなく、心配事一つなく、今、考えると、人生で最も幸せな時期であったような気がします。しかし、父の仕事の都合で六歳の時に上京します。その春に、小学校に入学しました。学校生活が筆者の心にどのように影響したか。次回は、このあたりから話しを進めたいと思います。

戦後七十年を生きて(2)(2015年5月24日)

 昭和26年春、筆者は小学校に入学しました。住まいは、池袋駅から徒歩十分ほど、父の勤務先の社宅で、隣近所は、父母とほぼ同年代の家族が多く住んでいました。祖父母との同居の家族は数えるほどしかなく、核家族が中心でした。この意味で、核家族化のはしりのような社会環境だったと思います。

 集団生活は小学校が初めてでしたが、幸い、集団生活になじめないということはありませんでした。幼児時代、年上の子が中心となって集団で遊んだ経験があったのが幸いしたのでしょう。しかし、かなりの緊張を強いられたことも事実です。入学後、急速に痩せたような気がするのです。裸になるとガリガリでした。身体検査は実に憂鬱でした。幼児時代の筆者は、近所の子たちと外で走り回って遊んでいました。外遊びの中で、運動が苦手の意識はありませんでした。しかし、小学校入学後は体操の授業で、運動神経が鈍いことに気が付かされました。こうして、集団(少学校)生活は筆者の心に「劣等感(他人と比較する習慣)」を植え付けたのです。

 体格と運動神経で人並みであることを望みましたが現実はそうはいきません。筆者は自信喪失に陥りました。しかし、三年生の時でした。担任の指名なのか、選挙なのか忘れましたが、学級委員に選ばれたのです。学級委員の仕事が何だったのかは忘れましたが、とにかく、そういう立場が憂鬱でした。自分の心境としては、目立たないように、皆なの後ろをついていくのが望みだったのですから。

 
四年生から六年生にかけての担任のМ先生は進歩的な人で、誕生日会を定期的に開催していました。原則は生徒たちの自主開催でした。その責任者にも指名されました。しかし、リーダーシップがうまくとれません。開催日まで憂鬱の日々が続きました。ただ、誕生日会で思い出されるのは演劇をやったことです。演じることに抵抗はありませんでした。恥ずかしかったという記憶はないので、それなりの度胸はあったのでしょう。ひょっとすると、役者の才能があったのかも知れません。

 また、小学校時代の筆者は外遊びが好きな子供でした。凧揚げ、コマ回し、メンコ、けん玉、缶けり・・・ルールは忘れましたが、水雷艦長というのもやりました。将棋やトランプといった室内遊技はあまりやった記憶がありません。

 運動会は憂鬱でしたが、遠足は前夜眠れないほど楽しみでした。ところが、五年生の春だったと思います。気管支炎に罹り、一か月ほど学校を休みました。それで、その年の遠足には行けませんでした。行く先は鎌倉でした。鎌倉と聞くと、今でも、その時のことが思い出されます。このように、小学校時代の筆者は身体か弱く、熱を出して、学校を休むこともたびたびでした。卒業式の前日にも熱をだし、卒業式は出席出来ませんでした。これも苦い思い出です


 とにかく、強いものに憧れました。小学四年生の時だったと思います。映画「ゴジラ」が封切られました。それが少年誌に劇画となって掲載されていました。たまたま、これまた熱を出して学校を休んだ時でした。床の中で、何回も、何回もゴジラの掲載箇所を読んだ(見た?)記憶がよみがえります。また、忍者にも憧れました。ある時、購読していた少年誌に忍者読本が付録として付いていたのです。手裏剣や浮き下駄にわくわくし、忍者の跳躍力は草の成長を利用して訓練するというようなこともそこには書いてありました。また、笛吹き童子や紅孔雀などの放送劇も楽しみでした。社会への関心もこの頃芽生えたような気がします。スエズ騒乱と第五福竜丸のビキニ環礁での被ばく事件に関心を持った記憶があります。

 自信のない自分を奮い立たせようとして、小学校時代の筆者がとった手段は上に見てきたように「英雄崇拝」でした。ゴジラや忍者もそうですし、また、その頃は、貸本屋が盛んで、よく戦記物を借りて読んだ記憶があります。歴史上の英雄では豊臣秀吉が贔屓でした。しかし、自身を英雄に重ねてみたところで、今の自分が強者になるわけではありません。劣等感は解消されることはありませんでした。

 
周り(の人)と同じでありたい。我々日本人に特徴的な心理です。筆者はこれを同等欲求と名付けています。同等欲求は誰にもあると思いますが、筆者のそれは特に強かったように思います。いわゆる「ムラ意識」がそれで、“空気を読む”という心理もここに通じます。この意味で、6才の筆者もすでに立派な「日本人」だったと言えましょう。

戦後七十年を生きて(3)(2015年7月31日)

  思春期の特徴の一つとして、身体の成長に心の成長が追いついていかないことがあると思います。武家の男子は元服式を通過して数え十五歳(満十四歳)で成人の仲間入りをしました。元服した者は嫌が応にも成人としての心構えを持たざるを得ませんでした。元服は当人に心の成長を促すものでした。周囲もそれを期待したであろうし、何よりも、当人がその自覚を持ったはずです。この意味で、元服は心を身体の成長に合わせるものであったともいえます。

 さて、数え十五歳(満十四歳)と言えば、今の中学二年生です。体格と運動神経に対する筆者の劣等感は中学時代も消えることはありませんでした。小学校以来の自信喪失状態は中学でも続きました。背丈は程度伸びましたが、身体に肉が付きません。相変わらず、ガリガリでした。運動の方は少しは上達したような気がします。やや、筋力が付いたからだと思います。

 どうしていいか解りません。「あるべき」教育もありません。英雄崇拝はいつしか「国家崇拝」になっていました。恐らく、そのきっかけになったのは、日教組による勤評(勤務評定)反対闘争だったと思います。教師は聖職である。大人たちからはこう聞かされていました。先生は偉い。なのに、何故、その偉い先生が授業を放棄してストなどするのか。中三の時に、実際に、日教組によるストライキを目にしたような記憶があります。思想的には反日教組が反革新派に繋がったと思います。

 中三から高一にかけては安保反対運動が世を騒がしていました。当時の筆者の目からすれば、安保反対派の人たちは、国家の破壊者に見えました。また、高一の時には、社会党の浅沼委員長刺殺事件が起こります。犯人は十七歳の山口二矢(おとや)でした。同世代による「国家主義」行動でした。自らテロリストになろうとは、勿論、思いませんでしたが、自分の代わりに悪を討ったという想いはあったと思います。今、思い返すと、中学時代の素朴な「国家主義」が、浅沼事件を通して、確信の「国家主義」に昇華したのだと思います。

 「国家主義」は小心の精神を支える拠り所だったはずです。ところが、浪人一年を経て、大学に入学しますと、完全なる「孤立」に陥りました。入学早々、度胸を付ける目的で弁論部に入部しましたが、すぐ辞めてしまいました。友人ができるわけでもなく、教室と自宅を往復する日々でした。拠り所だったはずの「国家主義」も精神的空白を埋めてくれません。悶々とする日々が続きました。

 大学二年の時だったと思います。偶然、書店で一冊の本に出会います。岩波新書の「仏教」(渡辺照宏著)でした。“苦悩の原因は欲望である。その欲望を棄てれば、苦悩から解放される。”・・・この教えに筆者は飛びつきました。欲望の何たるかを考えることもなく、ひたすら、その欲望を棄てようとしました。ますます、社会的孤立に陥りました。それでも、二年、三年の時には、どうにかなりました。しかし、四年を迎えると、そうはいきません。就職活動をしなければなりません。騙し、騙し活動を続け、東京都とある民間会社に合格しました。しかし、どちらを選んでいいか決心がつきません。社会に出るのが怖い。働く自分を想像すると、恐怖でいっぱいでした。そうこうするうちに、東京都は手続き期限をすぎてしまいました。民間会社にいかざるを得ません。しかし、そのような自分に納得できません。精神的に追い込まれました。そして、一種の悟り体験をします。筆者はこの時の体験を「四自覚」と呼んでいます。この心的転回を契機として、社会に出る恐怖感、不安感がすっと無くなったのです。今、考えても、不思議でなりません。なお、四自覚の詳細ついては、拙著「妙法十句入門」を参照して下さい。

「侵略」と「植民地」支配について考える(1)(2015年10月11日)

 戦後七十年の阿部総理の談話が去る八月十四日に発表されました。「出すべきだ」「否、出すべきではない」「村山談話および小泉談話を踏襲すべきだ」「侵略・植民地支配・反省・お詫び四つの文言は入れるべきだ」等々・・・発表前から、新聞、雑誌等でも大きく取り上げられました。

 “「侵略」の定義は定まっていない”とは、阿部総理の迷言?ですが、そもそも、我々は「侵略」や「植民地」について真剣に考えたことがあるでしょうか。広辞苑にはこうあります。「侵略」とは“他国に侵入してその土地を奪い取ること”、「侵略主義」とは“他国を武力攻撃などによって侵略して自国領土を拡張する主義”とあります。筆者は、これらの定義に加え、“他国の主権の侵害及び剥奪”をあげたいと思います。また、「植民地」とは“ある国の海外移住者によって、新たに経済的に開発された地域。帝国主義国にとって、原料供給地・商品市場・資本輸出地をなし、政治上も主権を奪われた完全な属領”とあります。

 上記の定義に照らしてみれば、近世以降での「侵略」と「植民地」化の始まりはスペインによるアズティク帝国(メキシコ・1521年)およびインカ帝国(ペルー・1532年)の征服、続く、アメリカ大陸への、同国人の移住と植民地化でありましょう。また、スペイン人は太平洋を西進し、フィリピンを植民地としました。

 同じころ、ポルトガル人は東を目指しました。喜望峰を回って、インドに達し、1510年、西岸のゴアに総督府を置き、ここを本拠地に、さらに東進して、中国に達し、明王朝から交易を許されました。日本に漂着して鉄砲を伝えたのはこれらのポルトガル人でした。

 スペインにとって、アメリカの植民地は銀の一大供給地でした。その量は豊富でヨーロッパに価格革命を起こし、貨幣経済を一気に進めるほどでした。また、ポルトガルは、ゴアやカルカッタを拠点にインド・中国貿易で、利益を上げました。一方、スペインもフィリピン・マニラを拠点に、東洋貿易でポルトガルと対峙しました。

 しかし、スペイン、ポルトガルの覇権は長くは続きませんでした。16世紀後半、オランダ、イギリス、フランスでは、毛織物産業が勃興しつつありました。これら諸国は自国の毛織物産業を保護、育成し、自国産品を輸出品としました。一方、スぺイン、ポルトガルは商業貿易を主力とし、国内産業の育成に、消極的でした。1588年、イギリスはスペインの無敵艦隊を撃破しました。以後、スペインの覇権は凋落し、オランダ、イギリス、フランスの新興勢力が覇権を握りました。

 17世紀に入り、世界貿易の覇権を握ったのはオランダでした。インドからポルトガル勢力を駆逐し、ジャワ島を根拠地に東洋貿易を支配しました。また、オランダは北アメリカ東岸にも植民地を開きました。同じ頃、イギリスはインド方面で、オランダと競合し、ボンベイ、カルカッタなどをムガール帝国より奪い、植民地としました。イギリスは北アメリカ方面にも進出し、オランダと覇権を争い、ついに勝利しました。

 イギリスの次の挑戦者はフランスでした。17世紀初め、フランスは植民地獲得を国是とし、インドに進出するとともに、北米では、カナダとミシシッピ川流域に植民地を開きました。当然、英仏は植民地争奪で対立しました。

 18世紀に入りますと、生産方式の革命的な変革がなされました。いわゆる産業革命です。蒸気機関が発明され、それを動力とする大規模工場が登場します。まず、応用されたのは綿織物でした。イギリスは、インドおよび北アメリカ植民地を原料の綿花の供給地とする一方、綿製品の輸出先ともしました。

 大規模工場による大量生産は多大の資本を必要としました。産業革命の進展は同時に資本主義の発展でもありました。一方、資本主義的生産は必然的に過剰生産を生みました。こうして、資本主義は無限の市場と原料供給地を必要とするようになったのです。19世紀初頭、イギリスは中国(清)に達し、開国を迫りました。アヘン戦争(1840年)の敗北により、清国は五港を開港しました。イギリスは中国市場の獲得に成功したわけです。開港地には清国の主権の及ばない居留地(租界)が設けられました。実質的なイギリス植民地でした。

 イギリス等欧米列強は次に日本に迫りました。その圧力に屈し、1854年、日本は開国(日米和親条約)します。しかし、日本には関税決定権がありませんでした。こうして、幕末の日本は安い外国製品の流入と物価高騰に見舞われます。そして、徳川幕府の崩壊、明治新政府(1868年)の成立となります。

 今回はこれまでとし、次回は、日本による侵略と植民地および阿部談話について、検証したいと思います。

「侵略」と「植民地」支配について考える(2)(2015年11月11日)

 資本主義的生産拡大は生産規模に見合う市場を必要としました。19世紀半ば、中国(清)と日本は欧化つまり資本主義化におけるライバルでした。日清戦争(1894年)は朝鮮という市場を巡る日中(清)の争いという側面もありました。この戦いに日本は勝利し、朝鮮は独立します。朝鮮が商品市場あるいは投資先として機能するには、徹底した欧化(資本主義化)が必要でした。しかし、時の朝鮮政府は改革に後ろ向きで、列強の一つロシアとさえ手を結ぼうとしました。日露戦争(1904年)はこの流れの中で勃発します。
 
日本は欧米列強の侵略と植民地化を避けるために開国しました。しかし、朝鮮は時の国際状況を全く理解していませんでした。1907年、韓国併合(日韓合邦)1912年、中華民国成立と中国分裂。以後、東アジアの覇権は日本が握りました。

 韓国併合は外交権奪取・保護国化、そして、併合と続きます。主権の一部「外交権」奪取の時点で、明らかに、侵略行為です。しかし、弱肉強食は当時の国際社会では当然のことであって、欧米列強の承認を得たうえでの保護国化でした。この時点で、統監を置きますが、まだ内政は韓国にありました。しかし、併合後は総督を置き、内政権も日本側のものとなりました。名目(条約)上は日韓合邦なのですが、実態は日本による植民地(属領)化でした。

 さて、中華民国成立後の中国はどうだったでしょうか。各地に軍閥が勢力を拡大、混乱が続きます。中国人自身の手でこの混乱を収拾できませんでした。この混乱に乗じ、日本は、1915年、中華民国政府に対し、二十一か条からなる要求を突き付けます。明らかな内政干渉、主権の侵害でした。中国に対する日本の侵略はここに始まったと言ってよかろうと思います。

 
1931年、満州事変が勃発します。翌32年には、「満州国」が建国されます。満州には多くの開拓民が送り込まれました。この意味でも、満州は明らかに日本の植民地でした。1937年からの日中戦争(シナ事変)は、中国の立場からすれば、満州解放の戦いでもあったのです。

 
さて、阿部首相は、70年談話冒頭で“歴史の教訓の中から、未来の知恵を学ばなければならない”と発言しています。第一次世界大戦後の1921年に結ばれたパリ「不戦条約」については、“この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました”とし、パリ条約と国際連盟が第一次大戦の教訓から生まれた人類の知恵との見解を示しています。

 パリ条約は憲法九条の手本となったもので、第一条で“国際紛争解決のための戦争と政策手段としての戦争の放棄を宣言する”また、第二条では“国際紛争は理由の如何にかかわらず平和的手段(話し合い)によっての解決を約する”と謳っています。総理の言うとおり、この条約は戦争自体を違法化するものでした。

 
このような「平和主義」に対し、“当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受け”この結果、“日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行きづまりを、力の行使によって解決しようと試みた”と指摘しています。

 つまり、「世界恐慌と経済のブロック化」が日本による「侵略と植民地支配(力の行使)」の要因であり、このような状況に対し、“国内の政治システムは、その歯止めたりえず、日本は世界の大勢を見失しない、満州事変、そして国際連盟からの脱退。国際社会が(第一次大戦の)壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への挑戦者として、(侵略)戦争へと進んでいった”と戦前の歴史を総括しています。

 談話は続いて、“(先の大戦の内外の)これほどまでの尊い犠牲の上に、現在の平和があり、これが戦後日本の原点であり、二度と戦争の惨禍を繰り返してならない。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に決別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない”

 そして、こう決意を述べています。“私たちは、自らの行き詰まりを力によって打開しようとした過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる紛争も、法の支配を尊重し、力の行使ではなく、平和的・外交的(話し合い)に解決すべきである。この原則を、これからも堅く守り、世界の国々にも働きかけてまいります。

 また、“私たちは、経済のブロック化が紛争の芽を育てた過去を、この胸に刻み続けます。だからこそ、我が国は、いかなる国の恣意にも左右されない、自由で、公正で、開かれた国際経済システムを発展させ、途上国支援を強化し、世界の更なる繁栄をけん引してまいります。”

 談話は「植民地」支配については、ほとんど触れていません。阿部総理の中では、「侵略」の結果が植民地支配なのであり、「侵略」という行為がなければ、植民地支配もないという認識なのでしょう。筆者もそうだと思います。

 さて、阿部総理は戦前の日本を“自らの行き詰まりを力によって打開しようとした”と分析しています。今、中国は南シナ海を二千年来中国の固有の領土と主張し、岩礁を埋め立てて軍事基地化を進め、あるいは、石油の試掘櫓の建設などを強行しています。今の国際秩序は1945年の日独の敗戦により国際的に合意されたものです。何故、二千年来などということを持ち出したのでしょうか。戦前の日本と同様に、今の中国が“行き詰まっている”何よりの証です。南シナ海での行為はまさしく“自らの行き詰まりを力によって打開しよう”としている証に他なりません。

 
今の中国は戦前の日本がたどった道を歩んでいるような気がしてなりません。南シナ海で侵略行為(満州事変と満州国建国)、そして、新疆ウイグル自治区やチベット自治区での自決権の剥奪と植民地支配(韓国併合)。習近平国家主席は抗日戦争勝利70周年に当たり、戦前の日本の侵略行為を厳しく非難しました。しかし、彼らは現に侵略と植民地支配を行っています。中国の侵略は善で、日本の侵略は悪などという論理は到底成り立ちません。今後とも、我々は帝国主義国家“中華人民共和国”の動向を注意深く見守っていく必要があると思います。

戦後七十一年、第三の時代に向けて(2016年1月13日)

 昨年は、戦後七十年の節目の年でした。「十年ひと昔」流に言えば、「七十年ひと時代」と言えましょう。日本の近代化は、明治維新(1868年)から敗戦(1945年)までの七十年プラス七年が第一の時代、敗戦(1945年)から昨年(2014年)までの七十年、そして、筆者が考えるには、2020年の東京オリンピック開催あたりまでを第二の時代と捉えることが出来ると思います。そうすると、東京五輪の後あたりから、第三の時代が始まるのではないかと考えられます。

 第一の時代は「戦争と侵略」の時代でした。第二の時代は「経済と平和」の時代と言えましょう。それでは、第三の時代はどうでしょうか。このまま何の対策も講じなければ、「混乱と衰退」の時代になるのではないかと思います。その根拠を探ってまいりましょう。

 まず、経済ですが、世界第二の経済大国の座を中国に奪われて久しい。また、人口減の傾向も一向に改善されていません。このままでは、経済規模の縮小は否めません。次に政治ですが、自民一強はまだまだ続くのではないでしょうか。何しろ、健全な野党が一向に育ちません。民主党は与党経験をしたにもかかわらず、先祖帰りをしています。何でも反対ではなく、対案を出して、政府与党と対峙すべきです。このままの与野党関係が続くのであれば、政治の劣化は深まるばかりです。

 社会問題に目を転じますと、家族の劣化が目につきます。あいかわらず、家族(尊属)間の犯罪が多いように思えます。特に、若い夫婦の実子殺しが後を絶ちません。これは、子育てのノウハウが世代間で受け継がれていないことの裏返しでもあります。

 そして、世間一般の感覚では今だ戦後が続いています。報道等も「戦後七十一年」などと表現するわけです。しかし、時代は変わりつつあります。国民にその自覚はありません。

 日本人にとって、憲法は不磨の大典です。757年制定の養老律令は形式的には1868年の明治維新まで続きました。誰も、それを改正しようとは発想しませんでした。しかし、憲法は不磨の大典ではありません。国家、国民、そして、社会制度の基本的な考え方と枠組みを取り決めたものにすぎません。憲法は統治の手段にすぎません。時代の変化に合わせていくのが、憲法の正しい取り扱い方です。

 第三の時代にふさわしい憲法を制定しなくてはなりません。混乱と衰退を回避する為に、何をすべきでありましょうか。まず、広く国民的議論を興すべきです。選挙権年齢が十八歳に引き下げられました。高校三年生には、主権者教育とともに憲法教育もやるべきでしょう。

 第三の時代に、現憲法のどこか問題なのか。現憲法は明らかに東西冷戦下の産物です。九条はその象徴です。冷戦に西側が勝利して、二十年あまり。米国は世界の警察官から降りることを宣言しました。中国の南シナ海進出、ロシアのクリミア併合とウクライナ紛争はこの流れの中で起こりました。このままでは、南シナ海はいずれ中国の海となるでしょう。この地域での中国の海洋進出(侵略)圧力に対抗できるのは日米たけです。しかし、現状では日本は南シナ海の防衛に乗り出すとこは出来ません。この一点を取っても、現憲法の規定は時代に適応していません。いずれ、尖閣を占領され、東シナ海も中国の海となるかも知れません。そうすると、沖縄も危うくなります。

 
現憲法には、国の基本法としての格調の高さが感じられません。その文章は翻訳調で、米国の押しつけとの指摘もまた納得できます。民族の伝統、文化、慣習等を考慮したとは到底思えません。次の七十年に向けて、まず、両院の憲法審査会の中での改正論議を深めるよう求めます。その上で、広く国民の間でも憲法問題が議論されるよう、政治はリーダーシップを取るべきです。本欄でも、出来うる範囲で「憲法問題」取り上げたいと思います。

第三の時代に向けて~少子高齢化を考える~(1)(2016年3月28日)

 前回、一時代七十年とし、明治維新から敗戦までの七十年プラスαを第一の時代、敗戦から東京オリンピック年の2020年までの戦後七十年プラスαを第二の時代としました。第一の時代は「戦争と侵略」、そして、第二の時代は「経済と平和」の時代でした。

 それでは、第三の時代はどのような時代になるのでしょうか。第三の時代に向けて、来る時代の社会の姿形が徐々に明らかになってきました。社会面では「少子高齢化と人口減少」及び「格差と貧困の拡大」、そして、政治面では、「憲法改正問題」を挙げることができると思います。

 まず、「少子高齢化」から見てみましょう。“保育園落ちた日本死ね!!!・・・
 一億総活躍社会じゃねーのかよ。昨日見事に保育園落ちたわ。どうすんだよ私活躍出来ねーじゃねーか”との投稿ブログが話題になっています。当ブログは国会でも取り上げられ、社会に広く共感が広がりました。政府も、世論に押されて待機児童ゼロを目指して、努力せざるを得ない状況となっています。

 「一億総活躍社会」とは阿部総理が打ち出した重要政策の柱の一つです。総理は施政方針演説において、“仕事をしながら育てできる。そういう社会にしなければなりません。病児保育の充実など、子ども・子育て支援を強化します。目標を上積みし、平成29年度末までに合計で50万人分の保育の受け皿を整備してまいります。返還免除型の奨学金の拡充、再就職準備金などの支援を行い、9万人の保育士を確保します。「待機児童ゼロ」を必ず実現してまいります。”と述べています。政府は良いことは言うが、どうせ口だけで、やらないだろう。また、出来ないだろう。そういう政治に対する不信感がブログ投稿者のことばの端はしに感じられてなりません。総理は女性の活躍を言いつつ、どうせ対策は進まないだろう。保育園が見つからないと会社を辞めざるを得ない。どうしてくれるんだ。彼女は本当に怒っています。だから、政府を動かし、社会に同感の輪が広がったのでしょう。“言うは易く、行うは難し”と言いますが、この事例のようなことを言うのでしょう。

 新自由主義と経済のグローバル化は労働者の賃金を世界的レベルで低い方へと平準化し、共働きは当たり前となっています。一方で、若い女性の間では専業主婦志向が増えているとも聞きます。子育ても立派な仕事です。しかし、世間一般はそのようには思っていません。世間一般は保育を子守りの延長ぐらいにしか思っていません。保育士の待遇が賃金も職場環境も一向に改善されないのはその為です。待機児童の問題は保育施設の不足以上に、保育士不足だと言われていますが、その原因も、世間一般の人々のこのような考え方にあると思います。

 日本の賃金および職場環境の改善は製造業を中心に考えられてきました。大企業と中小企業の格差はあると思いますが、製造業の賃金レベルは国際的には高い方だと思います。一方、サービス業の生産性は国際的にもかなり低いと言われています。保育サービスも例外ではありません。

 保育サービスの充実を強調しながら、一方、首相はこうも言っています。“大家族による支えあいを応援します。二世帯住宅の建設を支援します。URの賃貸住宅では「近居割」を5%から20%へと拡大します。新しい住生活基本計画を策定し、三世代の同居や近居に対する支援に本格的に取り組んでまいります。”・・・ここで首相は明らかに同居の祖父母による児童の保育に期待しています。家族による保育ができるよう、その環境整備に国も努力しますと言うわけです。

 保育サービスの向上に努力はするが、足らない所は自分達でやってください。これが政府の本音です。一昔前の我が国は大家族が当たり前でした。旧民法の家族法制はそれを前提とするものでした。新民法ではそれを封建的とし、家族制度を廃止し、結婚は両性の合意により成立するとしました。この考え方は社会を構成するのは一人ひとりの個人であるというものです。

 いわゆる個人主義です。核家族化はかかる考え方の当然の帰結です。ブログの投稿者も核家族なのでしょう。従って、祖父母の応援も期待できません。保育所への入所は喫緊の解決すべき課題だったのです。

 しかし、待機児童の問題は個人主義と核家族化だけが原因ではありません。福島原発事故では、バラバラに避難せざるを得なかった家族も多かったようです。テレビ報道などを見た感じからは三世代(祖父母両親孫)同居家族も多かったように見受けられます。つまり、地方では今でも大家族がまだ結構残っているということです。

 今回報道された待機児童問題は、大都市への人口集中も原因の一つであるということも言えると思います。地方創生が阿部政権の重要政策の一つとして掲げられています。地方の産業振興が都市への人口流出を食い止め、さらに、地方の人口増加につながるよう政府には努力してもらいたい。

 さらに、大家族への援助も必要です。児童手当はありますが、老人手当はありません。児童手当を含め「家族手当」とし、三世代(祖父母両親孫)同居家族への公的援助を拡大すべきです。もちろん、保育所増設、保育士育成も進めなくてはなりません。家族福祉と社会福祉のバランスをとることが待機児童問題の解決には必要かと思われます。次回も、引き続き、「少子高齢化」について考えます。

第三の時代に向けて~少子高齢化を考える~(2)(2016年5月9日)

 「天災は忘れた頃にやってくる」と寺田虎彦先生は言われました。今回の熊本の大地震はまさにその通りでした。127年前の1889年(明治22年)にも、同規模の大地震が熊本地方を襲ったと朝日新聞の4月16日付けの朝刊コラムにありました。東日本大震災から五年。この3月11日にその日を迎えたばかりでした。多くの人々も「大地震が何で今また」との思いだったのではないでしょうか。冒頭の寺田先生のことばがまさに現実となったのです。

 4月14日と16日と続けて震度7の強震に襲われたのも異例でした。気象庁も想定外との見解を表明しています。127年前の地震も余震が多かったようです。今回も今だ余震が続いています。自動車メーカーなどの部品工場も被災しており、日本経済への影響も懸念されています。

 関東大震災(1923年・大正12年)からおよそ93年。関東地方の大地震については「69年周期」説があります。その69年はとっくに過ぎています。だから、いつ関東大地震が起きても不思議ではありません。首都圏での大地震の国家・経済・社会への影響は阪神、東日本そして今回の熊本地震の比ではありません。対応を誤れば、国家存亡の危機すら考えられます。

 災害時に頼りになるのは、やはり家族です。家族の劣化が言われています。今回の熊本地震では家族はしっかり機能したのでしょうか。ある避難所では中学生が避難所運営を手伝っていました。人の役に立つ。中学生の時のそういう体験は必ずこれからの人生で役立つはずです。お年寄りや小さい子供、障害者等への思いやりの心は実体験からしか得られないのです。過去の事例からも、余震はまだ数か月続くかも知れません。被災地の方々は十分にお気を付け下さい。被災地の一刻も早い復興を願ってやみません。

 さて、ここからは、前回に引き続き、少子高齢化について考えます。国立社会保障・人口問題研究所の推定では、2010年に1億2800万だった日本の総人口は2050年には9700万、今世紀末には4900万ほどに減少すると言います。中公新書の「地方消滅」に依りますと、その原因は20歳から39歳までの若年女性の減少にあり、しかも、大都市への人口集中がこの傾向を助長していると言います。一方、65歳以上の高齢化率も2010年に23%だったものが、2050年には38.8%に上昇すると予想しています。

 阿部総理も人口減を問題視しており、先の施政方針演説でも「一億総活躍の最も根源的な課題は、人口減少問題に立ち向かい、50年後も人口1億人を維持すること・・・希望出生率1.8の実現を目指します」と述べています。その方策として、「若者たちの結婚・出産支援」「子供・子育て支援」「待機児童ゼロの実現」「3世代家族への支援」「ひとり親家庭への支援」「幼児教育の無償化」等を挙げています。

 総理の目標は「50年後も人口1億人を維持」としていますが、50年後と言いますと、2066年です。「日本の推定総人口は2050年には9700万人」なのですから、このままですと、目標達成はかなり難しいと思います。

 前回、筆者は人口減対策の一つとして、家族制度の再構築を提案しました。家族制度を新しく構築するにあたり、最も、問題なるのは、家族内での老人の位置づけです。価値観の多様化の中にあって、特に、老齢男性の立場は微妙です。近代以前では、老人は家族(社会)の中にあって、経験を蓄積した知恵袋として尊敬されていました。しかし、今の時代、仕事を離れたサラリーマンに知恵袋を期待できるでしょうか。

 ヒンドゥー教に「四住期」という考え方があります。人間の理想的な一生を四つの段階に分けます。第一を学生(がくしょう)期、第二を家住(かじゅう)期、第三を林住(りんじゅう)期、そして、第四を遊行(ゆぎょう)期と言います。学生期は生誕から大学卒業位まで。社会で生きていけるだけの知識を獲得します。家住期は職業を得て、家族を養います。大学卒業から結婚するまでは、見習い期間と考えれば良いでしょう。

 問題は第三と第四です。林住期というのは、引退後は出家して森間に退き、修行に打ち込みます。

 そして、遊行期には広く世間に遊行して、解脱(悟り)を成就させます。要するに、仕事からの引退後は宗教生活に入れということです。

 定年後の余生。新しい仕事に就く、趣味三昧に過ごす、あるいは、地域社会(町内会、お祭り)に貢献する、選択肢は色々あるでしょう。四住期の考え方は、ここに「宗教」や「信心」という選択肢を加えたらどうかということです。“自己に参ずる”・・・自分とは何ぞや。忙しかったサラリーマン生活。自分の来し方など考える暇もなかったのではないでしょうか。やっと、自分自身を見つめる時間が出来たのです。“自己に参ずる”に終わりはありません。白隠禅師は「悟後の修行」ということを教えられました。

 “自己に参ずる”は、ボケ(認知症)防止にもなります。認知症患者は今後増え続け、厚生労働省の推定によりますと、2012年に462万人だったものが、2025年には700万に達すると言います。65歳以上の5人に1人が認知症になると言います。“自己に参ずる”実践が、少しでも、認知症患者の減少に役立つよう願って本稿を終えます。

第三の時代に向けて~格差と貧困を考える~(2016年7月16日)

 「第三の時代」に向けて、今回は“格差と貧困”について考えてみたいと思います。“一億総中流”という言葉がありました。国民の中流意識は戦後の経済復興とともに高度成長を経て形成されたと思われますが、今、その意識が崩れかけています。格差と貧困の拡大が現実問題として表面化しているからです。

 “こども食堂”をご存じでしょうか。最近では、新聞等で報道されて、一般にも知られるようになったようです。筆者の記憶によると、一年ほど前だと思います。自宅で子供たちに食事を提供している男性がNHKテレビで報道されていました。亡くなった奥様の意志を継いでの活動だったと記憶しています。そのこども食堂が全国的に広がっているようです。開設講座が開かれるほどだと言います。こども食堂の利用者は、ひとり親世帯、あるいは、共働き世帯の子供たちが多いようです。問題は、こういう子供たちの中に貧困に苦しむ子がいるということです。

 子どもは基本的には“保護される”存在です。と言うことは、つまり、貧困に苦しむ子どもたちは保護されていないということに他なりません。彼らの保護者に問題があることは明らかです。三組に一組が離婚する時代と言われています。母子家庭は珍しくありません。我が国の賃金制度は基本的には“家族”を基準に設計されています。男女に賃金格差がある理由もこの家族基準にあります。“家族を養うのは男の役目だ”という考え方は社会に広く共有されています。

 筆者の若い頃はいわゆる寿退社ということも珍しくありませんでした。しかし、昨今は、結婚後も働き続ける女性も多くなりました。生活(経済)ということもありましょうが、生きがいを求めて働き続ける女性も多く見かけられます。家事も子育ても仕事と言えば仕事ですが、社会との繋がりはありません。繋がりといっても、どうしても、子どもを通した付き合いに偏るからです。かって、高度成長の時代、“鍵っ子”ということばがありました。こども食堂の増加の背景にはこの鍵っ子の増加があります。親たちも自分の子供を鍵っ子にしたいわけではないはずです。

 また、勤労者の間に格差が広がっていることにも注意しなければなりません。今年の春闘で連合は非正規労働者の待遇改善を取りあげました。しかし、非正規労働者の組合加入率は10パーセントにも満たないと言います。それでいて、非正規労働者の割合は4割にもなっていると言います。つまり、先の鍵っ子たちの親たちの中にも非正規労働者の方たちが相当数いるということです。阿部総理も「一億総活躍」への挑戦の中で、非正規雇用者の待遇改善を掲げています。

 そもそも、何故、正規と非正規というような雇用格差が生じたのでしょうか。その要因の一つは、1985年に成立した“労働者派遣法”にあります。確かに、それまでも、正規と非正規という働き方はありました。派遣法成立前、非正規労働はアルバイトと呼ばれていました。共に、雇用企業の支配下にありました。しかし、派遣法下では彼らはあくまでも派遣企業の社員です。

 筆者は、労働者派遣は我が国の社会になじまない制度と考えています。日本社会はタテ関係が強い社会です。社会の中のタテ関係は“場”を形成します。企業ではそれが職場です。企業の個々の職場でタテ関係が生ずるわけです。職場における、管理職と非管理職関係の中に、社員と非社員(派遣)関係が入ってくるわけです。非管理職の社員はまた労働組合員でもあります。しかし、派遣社員は非組合員です。つまり、組合員と非組合員の関係は“組合員と管理職”と“組合員と派遣社員”の二重構造になるわけです。

 正規と非正規という雇用格差が生じたもう一つの理由は、経済のグローバル化です。中国は低賃金を武器に、グローバル化の波に乗って、大きく飛躍しました。「悪貨が良貨を駆逐する」ということばがあります。低賃金(悪貨)製品が高賃金(良貨)製品を駆逐したわけです。競争に打ち勝つために、先進国(日本)の企業は労働者の賃金を引き下げました。大企業の組合員はある程度は賃金水準を守れましたが、非正規労働者の賃金はますます引き下げられました。連合はこの事実に目をつむってきましたが、今年の春闘では、ようやっと、重い腰を上げたようです。労働コストを引き下げるために、企業は非正規労働者の比率を引き上げていったからです。労働者として守られない非正規労働者の人たちの賃金は相対的に下がっていきました。つまり、非正規労働者の増加は労働者全般を相対的に窮乏化していったわけです。派遣法は廃止するか、対象労働者の大幅な見直しが必要です。

 労働者間の賃金および身分上の格差をこれ以上拡大させてはなりません。まず、取り組むべきは経済のグローバル化をこれ以上拡大させないことです。アメリカ大統領選候補のトランプ氏はTPP(環太平洋経済連携協定)に反対しています。理由は“アメリカ人の雇用が奪われる”ということです。参加予定国は12か国で、先進国と発展途上国が入り混じっています。安価な製品が低い関税に守られてアメリカ市場に流れ込んでくる。そして、アメリカ人の雇用を奪っていく。その当事者が製造業の労働者たちです。トランプ氏の主張は彼らに受け入れられたようです。イギリスのEU離脱にも移民がイギリス人の雇用を奪っているという国民感情があると言われています。我が国も雇用と言う側面からTPPの見直しが必要かと思われます。

 また、格差と貧困の一つには、離婚の増加が背景にあると思われます。この件については、別途、取り上げたいと思います。

 さて、この度の参院選は与党の勝利に終わりました。しかも、改憲勢力が三分の二に達しました。戦後七十年、ようやっと、まともな国家になれそうです。憲法改正に向けて、まず、国会の憲法審査会での議論を進めてもらいたいと思います。また、憲法改正には国民投票での過半数の賛成が必要です。この意味で、憲法改正は我々国民一人ひとりの問題でもあります。次回からは、憲法について、勉強していきたいと思います。

憲法を考える(1)~十七条憲法(2016年11月2日)

 “憲法”という言葉を聞いて、誰もが思い出すことと言えば、「十七条憲法」のことではないでしょうか。十七条憲法は604年聖徳太子によって制定されました。しかし、同憲法は現代の憲法のように国家の統治機構の基本と国民の権利義務を定めたものではありません。

 
従来の大和朝廷での官僚組織の官位は氏族ごとに与えられ、代々世襲されました。それを個人単位の組織に編成し直したのが、前年603年に制定された「官位十二階」の制度でした。これによって、官位は個人の能力に応じて授けられるようになりました。しかし、その官位は氏族間の力関係を反映したものでした。出世には、有力氏族の出身であることが有利でした。

 十七条憲法は官位十二階の制度によって、任命された役人の“天皇の官僚”としての“心構えや身の処し方”を示したものでした。今風で言えば、服務規律あるいは就業規則といった所でしょうか。制定者は厩戸王(うまやどのおう・聖徳太子)です。以下、その内容を見てみましょう。

 
第一条には「和をもって尊しと為し、さかふること無きを宗と為せ」とあります。“人の和を尊び、人と争わないことを本旨とせよ”という意味です。太子は何故冒頭にこの条文を持ってきたのでしょうか。当時、我が国は、大伴、物部、蘇我といった有力氏族間の勢力争いが続いていました。最終的には、蘇我氏が権力を握りました。太子はその蘇我氏の出身でした。592年、女帝推古が即位しますと、翌年太子はその摂政となります。争いはもう止めよう。皆な仲良くやろうじゃないか。第一条は太子のこのような思いを制度化したものとも言えます。

 同趣旨の条文は、第十四条に「群臣百寮 嫉妬(うらみねたむ)ことあること無かれ。われすでに人を嫉めば、人またわれを嫉む」とあります。官僚たる者嫉妬心をもってはならない。人を嫉めば、人からもまた嫉まれる。

 また、十七条には「それ事は独り断ずべからず、必ず衆(もろもろ)とともによろしく論(あげつ)らふべし」とあります。ものごとは独りで決めることなく、必ず皆と相談して決めよと、独断専行を強く戒めています。何事も話し合いで決めよというわけです。「和」といい、「話し合い」といい、現代の民主主義に通ずる考え方ですが、何故、太子はこのように考えられたのでしょうか。

 第二条に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏法僧なり」とあります。この条文がそのキーワードです。三宝とは仏教徒が帰依すべき三つの事柄のことです。仏はお釈迦様のこと、法はその教え。僧は僧伽(サンガ)で仏教教団のことです。つまり、三宝は仏教そのものと言っていいでしょう。

 仏教教団の運営はお釈迦様の時代から、話し合いつまり民主主義を基本としていました。太子は仏教を国政の基本に置きました。官僚組織の中だけでも、仏教主義を実現しよう。第二条は太子の仏教主義の宣言とも言えましょう。

 天皇の官僚としての心構えとしては、第三条に「詔(みことのり)を承けては必ず慎め。君をば即ち天とし、臣をば即ち地とす」とあります。天皇の命令には謹んでこれに従え。天皇は天であり、臣下は地である。

 第四条では、礼を行いの基本とし、民を治めよ。第五条では、物欲を捨て、民の訴えに臨め。第六条では、勧善懲悪を薦め、第七条では、自分の職掌は忠実に、職務権限を乱用してはならない。

 第九条では、相互信頼(信義)の重要性を説いています。第十条では、人はお互い性格も考え方も違うのだから、怒りの気持ちを捨てよ。十五条では、私を犠牲にして、公に尽くすことが、家臣の歩むべき道である。

 また、地方官(国司・国造)の心構えとして、第十二条に「百姓はおさめとることなかれ。国に二君なく、民に両主無し」とあります。この国を治めるのは天皇お一人だけである。人民(百姓)は天皇のものであって、おのおのの地方官のものではない。人民の主は天皇だけである。この条項には、天皇を中心とした中央集権国家を建設しようという太子の強い決意をうかがい知ることが出来ます。

 十七条憲法(聖徳太子)の思想の核心は「和」ということにあることは明らかです。今でも、我々日本人は人の和を大切にします。その伝統の原点は十七条憲法にあります。

 また、太子は主従関係の重要性も説かれています。“タテ社会”日本に通ずる考え方です。今、過労死が社会問題化していますが、“自己犠牲”(十五条)の原点も十七条憲法にあるでしょうか。


 さて、十七条憲法は日本初の成文法と言われています。622年の太子の死後、十七条憲法は、645年からの大化の改新の諸改革を経て、701年の「大宝律令」へと繋がっていきます。次回は、大化の改新と律令制について学びます。

憲法を考える(2)~大宝律令(2017年2月4日)

 1月20日、トランプ氏が第45代アメリカ大統領に就任しました。選挙期間中から同氏は「アメリカ第一」を掲げ、国内での雇用創出を訴えてきました。戦後七十年間、世界はアメリカにおんぶに抱っこしてきたのではないでしょうか。世界のリーダーとして、自国の市場を開放して、日本やヨーロッパの戦後復興、あるいは、中国、韓国らの途上国の経済発展に貢献してきたのは紛れもない事実です。気が付いたら、工場は海外に移転し、往年の工場地帯はゴーストダウンと化している。特に、ペンシルベニアからインディアナにかけてのラストベルト(さび付いた工業地帯)と呼ばれる地域は深刻な状況だと言います。何故、我々が犠牲ならなきゃいけないんだ。多くの労働者たち(特に白人)の不満は沸点に達していました。トランプ氏はその彼らに働きかけたのです。悪いのは、不法移民や安価な輸入品だ。それらが我々の職を奪っている。何故、米国企業は海外で物を作るのだ。何故、国内で作らないのだ。トランプ氏と労働者たちはグローバル企業への憤りを共有しました。労働者たちの怒りがトランプ氏を大統領まで押し上げたのです。

 グローバリズムが終焉を迎えようとしています。昨年6月のイギリスのEU離脱決定はその始まりだったような気がします。ヨーロッパ諸国では反EUを掲げる右派政党が支持を伸ばしています。グローバリズムによって最も利益を得たのは中国です。トランプ氏は感覚的にそこが解ったのだと思います。だから、中国製品に45パーセントもの関税をかけるなどと主張しているのです。

 要は、グローバリズムが行き過ぎたのです。これから、その調整が始まります。世界はローカルリズム(地域主義)へと向かうでしょう。我々は大きな時代の転換点に立っています。

 今回取り上げる大宝律令の時代もまた時代の転換点でした。220年、後漢王朝が倒れると、以後、魏蜀呉の三国並立、西晋、東晋と五胡十六国の興亡、北魏と南宋による南北朝の時代と約360年間、中国は分裂と抗争の時代が続きました。589年、この状況を脱し、南北を統一したのが隋王朝でした、しかし、この王朝は高句麗への外征と大運河建設で疲弊し、618年、唐王朝に取って代わられます。一方、朝鮮半島では、高句麗、新羅、百済の三国が並立し、半島南部には日本の支配地任那(562年滅亡)がありました。

 唐が成立すると、新羅は唐と同盟し、高句麗と百済を滅ぼし、その唐の勢力も駆逐して、676年、朝鮮半島を統一します。このような半島情勢の下、663年、百済の要請を受けて、日本は朝鮮半島に派兵しますが、新羅と唐の連合軍に大敗します。これが白村江(はくすきのえ)の戦いです。これ以後、百済から多くの人民が日本へ移り住んで帰化人となります。彼らは各地に移り住み、一部は朝廷に仕えるなどして、日本社会に大きな影響を与えました。大宝律令(701年)は、中国大陸と朝鮮半島に唐と新羅という軍事大国が出現するという北東アジア情勢の激変を背景として、成立したのです。

 明治政府は欧米諸国並みの国家の建設を目指しました。それが、欧米列強の我が国への侵略を阻止する最善策だと時の為政者たちは考えたからです。大化の改新、大宝律令の制定もまた唐・新羅による我が国への侵略阻止を目的とするものでした。明治と同様に、大化の為政者もまたその手段として当時の先進国・唐の諸制度に習った政治改革を目指しました。

 大化の改新は645年の蘇我氏の滅亡と中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の実権掌握に始まります。中大兄は668年即位し、天智天皇(38代)となります。670年には、庚午年籍(こうごねんじゃく)と呼ばれる全国規模の戸籍を作ります。671年には、近江令を発布しています。

 671年、天智帝が亡くなると、実子の大友皇子(おおとものみこ)と実弟の大海人皇子(おおあまのみこ)との後継者争いが起こります。壬申の乱の勃発です。大海人皇子が争いに勝利し、翌672年即位して天武天皇(40代)となります。天武は689年、飛鳥浄護令を制定します。そして、701年、孫の文武天皇(40代)の時に大宝律令が完成しました。

 次に、その内容を見てみましょう。その前に、律と令とは何か、を確認しておきましょう。「律」は現在の刑法に、「令」は現在の行政法、民法に相当します。今回は、令のみ取り上げます。

 まず、行政組織を見てみます。政府の中央には、神祇官と太政官が置かれました。神祇官は宮中祭祀を統括しました。太政官は現在の内閣にあたるもので、総理にあたる太政大臣、その下に、左大臣と右大臣、補佐役として、大納言が置かれました。左右大臣の下に、左弁官と右弁官、そして、大納言の下には少納言が置かれました。左弁官の下に、中務(なかつかさ・詔勅発布)、式部(しきぶ・人事)、治部(ちぶ・仏事、外交)、民部(みんぶ・民政)の四省を、右弁官の下に、兵部(ひょうぶ・軍事)、刑部(ぎょうぶ・司法)、大蔵(おおくら・財政)、宮内(くない・宮中庶務)の四省を置きました。

 中央各省の行政を担ったのは、有力豪族たちでした。彼らの一部は、都に集住し、給与を与えられ、官僚として政府に仕えました。自領との関係が薄くなるにつれ、豪族官僚たちは貴族化していきます。そして、その役職(官位)は世襲されるようになります。

 地方行政はどうなっていたでしょうか。地方は、大きく、畿内と七道に大別され、大和、山城、摂津、河内、和泉の五国を畿内とし、その他を、道(どう)として、東海、東山、北陸、山陰、山陽、南海、西海の七道に分けました。各“道”には、いくつかの国が所属し、国はいくつかの郡に分けられ、さらに、郡はいくつかの里に分けられました。国には、その国の首都・国衙(こくが)が置かれました。また、行政の責任者として、国司、郡司、里長がそれぞれ置かれました。国司は中央から派遣されましたが、郡司は地方の有力豪族、里長は農民から選ばれました。

 次に、身分制度を見てみましょう。国民は良民と賎民に分けけられ、良民は皇族・貴族と公民(農民)、公民の下に雑色(ぞうしき・手工業者)が置かれ、その下に賎民(陵墓の墓守、家人~農民の使用人、奴婢)がいました。

 土地については私有地(屯倉・みやけ・田荘・たどころ)が廃止され原則公有地化されました。班田収授法と呼ばれるもので、6才以上の男女公民に支給されました。これらの支給地を口分田と言い、男には2反、女には男の3分の2が、そして、家人にも公民の3分の1が支給されました。

 また、皇族や貴族の位階、官職に応じて支給される位田・職田、功労者に与えられる功田・賜田、そして、社寺に与えられた神田・寺田がありました。これらの土地(田地)も課税されましたが、一部は不輸租田として税が免除され、後の荘園(貴族、寺社の私有地)発生の一因となります。

 租税制度の基本は「租・庸・調・雑徭(ぞうよう)」の4段階でした。租は口分田等の田地にかけられ、国衙に収められて地方財政にあてられました。収穫高の3%ぐらいであったと言われています。

 庸・調は公民(農民)男子にのみかけられた人頭税で、家人(農民の使用人)、奴婢は非課税でした。庸は都での労役義務、調は物納で絹、綿、布地、海産物など各地方の特産物があてられました。運搬も人民(公民)の負担でした。雑徭は国司が一年で60日以内で公民を使役できるというものでした。兵役も雑徭の一部でした。兵士は公民(農民)の中の、21歳から60歳までの男子から、家ごとに3人に1人の割合で徴兵され、各国の軍団に派遣されました。九州の大宰府には防人司が置かれました。派遣費用は人民(公民)の負担でした。

 律令制度の基本は公地公民制です。しかし、その姿は、荘園の拡大と武士の登場によって変容していきます。次回はこのあたりの事情を学びます。

北朝鮮の猛威を考える(2017年4月4日)

 去る2月13日、北朝鮮の金正恩労働党委員長の実兄金正男氏がマレーシア、クアラルンプール空港で暗殺されました。今回は予定を変えてこの事件を取り上げます。愚生、この報道を見て、李氏朝鮮末期の改革派のリーダー金玉均氏のことが頭に浮かびました。

 鎖国政策を採っていた当時の朝鮮は1876年(明治9年)日朝修好条規を日本との間に結び、開国しました。これにより、清(中国)や日本あるいは欧米諸国の情報が朝鮮国内にも入ってきました。このような状況下、青年官僚だった金玉均もそのような情報に触れます。そして、祖国朝鮮の近代化を考えるようになりました。

 1882年(明治15年)7月、軍近代化に反対して旧軍兵士たちが反乱を起こしました。壬午の軍乱と呼ばれるもので、清国軍の介入により乱は収まりましたが、その後も、清国軍は撤退しません。清国は朝鮮を属国だとして、朝鮮への直接支配を強めます。

 当時、金玉均氏は日本滞在中でした。日本各地を視察後、帰国の為、神戸から乗船しました。帰国船が下関に寄港したその時に軍乱の勃発を知ります。

 帰国した金玉均は数名の若者を日本に派遣し、知識を学ばせます。その時、彼らを世話したのが福沢諭吉でした。一方、改革は思うように進みません。それどころか、反金玉均の勢力は増すばかりです。日本式の改革は当時の朝鮮にとってはあまりにも急進的でした。改革派の大勢は清国式の緩やかな改革を目指していました。

 1884年(明治17年)8月、清仏戦争が勃発します。そして、朝鮮駐留の清国軍の半数が帰国します。清仏戦に投入する為です。この時しかない。金玉均はクーデターを決心します。同年12月、自身の手勢と日本公使館の守備兵の援護を得て決起しますが、清国軍の介入によってクーデターは失敗に帰します。金玉均は日本に亡命しました。

 政変に驚いたのは日本政府でした。クーデターには確かに日本政府が加担しましたが、列強の干渉を怖れて、事件をうやむやにしてしまいます。日本政府の後ろ楯を失った金玉均は1894年(明治27年)3月上海で李朝政府の刺客に暗殺されました。

 海外で暗殺されたこと。改革派であったこと。今回の金正男暗殺事件は金玉均暗殺とよく似ています。暗殺は金正男氏が中国政府の保護を失ったことも要因の一つだとも言われています。この点も日本政府の保護を失った金玉均氏と似ています。

 金玉均改革はあまりにも急進的でした。恐らく、当時の朝鮮人民はついて行けなかったと思います。しかし、金正男氏が目指した改革は中国式だと言われています。民度は李氏朝鮮当時とは雲泥の差があります。彼が指導者になれば改革は成功したことと思います。しかし、金正恩委員長は叔父の張成沢氏を初めに次々と政敵を粛清し、改革派を一掃してしまいました。このことも、李朝末期の政治状況と類似しています。改革派(正確には日本式の改革派)を失った李朝政府は1894年(明治27年)5月農民の大規模な一揆(東学党の乱)を招来し、滅亡への道を歩み始めます。反乱に介入した日清両国はこの年7月武力衝突します。日清戦争です。

 北朝鮮が崩壊するかどうかは分かりません。核兵器とミサイルの開発が加速しています。軍事力による国威発揚しか、国民を統合する手段は北朝鮮政府にはないのでしょう。しかし、経済的には必ず行き詰まるはずです。改革を怠った李朝政府は農民の大規模一揆を招来してしまいました。先軍(軍国)主義を放棄し、国民生活の向上を目指す改革をしない限り、国民の不満はやがて沸点に達し、21世紀版の東学党の乱が勃発するかもれません。その時、中国は必ず軍事介入します。歴史は繰り返します。

 歴史上、我が国の国家危機は必ず朝鮮半島を通して入ってきました。我々はもっと朝鮮半島に目を向けるべきです。韓国では、大統領の弾劾成立によって朴槿恵大統領が辞任し、次の大統領選では親北・反日大統領が誕生すると言われています。朝鮮半島は激動の時代に入りました。

 一方、トランプ米大統領は北朝鮮のICBM(大陸間弾道弾)開発に成功すれば、それ相応の対抗策を採ると発言しています。状況によっては、軍事力行使も躊躇しないという含みを持たせた発言です。

 朝鮮戦争はまだ終わっていません。今、休戦状態にあるだけなのです。以外と、このことは日本では知られていないようです。何時、戦闘が再開されても不思議ではありません。金正恩は今一人物像がはっきりしません。油断があってはなりません。先日は、在日米軍を標的にしたミサイル実験をしました。朝鮮半島問題は我々日本人の問題でもあるのです。国連決議による経済制裁が北朝鮮にはかけられていますが、成果は上がっていないようです。北朝鮮は崩壊するなどと夢見てはなりません。彼らはしたたかです。日本が普通の国になること。これが対北朝鮮の最善策かも知れません。

憲法を考える(3)~御成敗式目①~(2017年7月21日)

 前々回取り上げた大宝(養老)律令は形式的には明治維新まで続きました。律令制は実に一千年以上も続いたことになります。何故、8世紀に制定された大宝(養老)律令が19世紀の明治維新まで続いたのか。ここに、法に対する日本人の基本的な考え方を見ることができます。

 今回取り上げる御成敗式目は1232年執権北条泰時によって制定されました。鎌倉幕府の大きな役割の一つは武家間の利害関係の調整でした。その為、御成敗式目は、武士階級にのみ適用される法令で、そこでは頼朝以来の武士階級の慣例や裁定事例等をベースに守護・地頭の権限、所領関係の相続、刑罰・訴訟手続き等が定められました。

 そもそも、律令制下では公地公民(班田収授法)が原則でした。しかし、これらの土地は、時代が下るにつれて、私有地化してゆきます。その要因は人口の増加です。食糧の増産には新しく土地の開墾が必要です。初め、政府は自ら開墾を推し進め、口分田を増やそうとしますが、それには限界がありました。

 そこで、今でいう、民活を採用します。723年(養老7年)三世一身法を発布して、新しく耕地を開墾した者には、三世(曽孫)までその土地の私有を許しました。しかし、耕地を開墾できるのは、皇族・貴族・有力社寺あるいは、有力農民のみでした。しかも、三世までとした私有は実際には世襲されてゆきます。そこで、政府は743年(天平15年)墾田永年私財法を制定して、新開墾地の永代私有を認めました。ここに、公地公民制(班田収授法)は実質的意味を失いました。開発の波は畿内から地方へと波及してゆきます。その担い手は国司や郡司あるいは地方豪族たちでした。

 こうして、新しく開発された土地が荘園です。開発者同士の争いも絶えませんでした。彼らは自分たちの土地を守る為に武装しました。初めは自警団的なものだったと考えられますが、やがて、専門集団化してゆきます。ここに、武士が誕生しました。公地公民制の崩壊は、公地の荘園化とともに、一方で、公民の流民化を促進しました。このような状況は治安の悪化をもたらしました。こうして、中央政府にとって、武士団は治安維持の面からも、一目置かざる得ない存在へと成長して行きます。

 その象徴的な出来事が、平将門の乱です。935年、伯父国香を殺害した将門は939年、常陸の国府、及び、下総・上総の国衙を攻略して、関東地方をほぼ武力制圧し、新皇と称しました。しかし、翌940年、国香の子貞盛によって滅ぼされます。このように、乱鎮圧には、地方武士団の協力が必要でした。既に、中央政府は自らの軍事力を持っていませんでした。元来、律令制下の兵役は、租税制度(租庸調)の一つ庸(人頭税)の一種で、成人男子の中から各戸ごとに3人に一人の割合で徴兵され、各国の軍団に配置されました。つまり、律令制下の兵役はあくまでも臨時的なものだったわけです。これに対し、武士は常設の武装集団です。しかも、それは律令制の中に規定がありません。この点、日本国憲法下の自衛隊とよく似ています。本来ならば、律令を改正して、武士の存在を明文化しなくてはなりません。

 先人たちがそうしなかったのは恐らく律令(憲法)の意味をよく理解しいていなかったからだと思います。逆に、現代の憲法(9条)改正反対派は、憲法の意味をよく知った上で、自衛隊を軍隊として、憲法上位置づけようとすることに反対しています。しかし、軍事組織として、現に、自衛隊という軍隊が存在しています。これでは、律令制下の武士(武装集団)と何ら変わりません。さて、武士が社会的地位を上昇させた最初の事例として、平将門の乱を取り上げました。中央の貴族たちは、やがて、武士たちを自分たちの権力争いに利用するようになります。

 1156年、上皇(崇徳)と天皇(後白河)の争いに藤原摂関家の兄弟(忠通・頼長)間の争いが絡み、保元の乱が起こります。上皇側には、頼長、平忠正、源為義、為朝、天皇側には、忠通、平清盛、源義朝が味方しました。勝敗は夜襲をかけた天皇側が勝利しました。しかし、やがて、清盛と義朝が鋭く対立するようになります。そして、1159年、両者は武力衝突します。平治の乱です。戦いは清盛の勝利に終わり、ここに平氏政権への道が開かれます。清盛は戦功により、参議に取り立てられ、さらに、1167年には、太政大臣にまで出世します。すると、清盛は官職のほとんどを平氏一門で独占し、政治的にも経済的にも大きな権力を持つこととなります。その栄華は“平氏にあらずんば人にあらず”と言われまた。

 話しはそれますが、一言。先の都議選では自民党が歴史的大敗を喫しました。安倍首相は敗北の総括で“我々には驕りがあった”と述べています。そうであれば、自民は平氏の悲劇を辿ることはないでしょう。首相の自覚が本物であることを望みます。話しを元に戻します。武士は明らかに新しい階級の登場でした。しかし、清盛にはその自覚がありませんでした。一族を全国の国司や受領(徴税役人)郡司等に任命するなどして、既成の権力機構(律令制)に自己の権力基盤を置きました。しかし、律令は天皇家や公家たちの法制であって、武士たちのそれではありませんでした。

 その体制に自ら参加するということは、自らの貴族化を意味していました。平氏に武家の棟梁を期待していた地方の武士勢力は次第に離反してゆきます。1177年の反平氏派による鹿ケ谷事件を契機に平氏の求心力は急速に失われてゆきます。そして、1180年、源頼政が平氏打倒の兵をあげました。
今回はここまでとし、次回は、平氏滅亡と鎌倉幕府の成立、そして、御成敗式目について学びたいと思います。

憲法を考える(4)~御成敗式目②~(2017年9月3日)

 1180年に勃発した源頼政による反平氏挙兵は失敗しました。しかし、この挙兵に応じて、各地の源氏が立ち上がりました。関東の源頼朝、信濃の源義仲です。頼朝は妻政子の父北条時政の援助を得て挙兵、石橋山の合戦で敗北しますが、関東の豪族を糾合し、平氏の討伐軍を富士川に破り、鎌倉を拠点に東国の全域を支配下に置きました。また、1183年、義仲は北陸から京都に入り、京都を支配下に置きます。一方、義仲に追われた宗盛率いる平氏一族は勢力下にあった西国に落ち延びていきます。

 この時点での勢力範囲を見てみますと、関東・東海に頼朝、中部・北陸・京・大阪・紀伊に義仲、中国・四国・九州に宗盛、そして、東北には奥州藤原氏がありました。

 京都に入った義仲軍は兵士の暴力・略奪行為が絶えず、義仲は朝廷(後白河院)の信頼を失います。そこで、1184年、朝廷は頼朝に義仲追討の宣旨を与えて、義仲を討たせました。入洛した頼朝軍は、さらに平氏追討の宣旨を受け、義経を総大将に軍を進めます。一の谷から、屋島、壇ノ浦と平氏軍に勝利し、1185年、平氏は滅亡します。しかし、この直後、頼朝と義経の対立が表面化し、義経は奥州藤原氏の元に落ち延びます。しかし、義経は藤原氏四代目の泰衡に殺されます。ところが、1189年、奥州藤原氏は義経をかくまったとして頼朝に攻め滅ぼされました。ここに、日本全国は頼朝により実質統一されました。翌1190年には、頼朝は上洛をはたします。そして、1192年には征夷代将軍に任じられました。ここに、鎌倉幕府が成立しました。

 平氏は平氏一族で権力を独占しました。しかし、頼朝は違っていました。彼の権力の基本は、地方武士(豪族)との主従関係です。武士たちは、自分たちの土地の支配権を安堵してもらう代わりに頼朝への忠誠を誓いました。こうして、頼朝と主従関係を結んだ武士が御家人です。頼朝はこの御家人との主従関係を基礎として支配地域を広げていきました。

 1180年には、侍所を設置して、有力御家人の和田義盛を任じて、御家人の統制にあたらせました。また、一般政務を担当する公文所(のちの政所)と裁判・訴訟を扱う問注所を設置しました。公文所の長官(別当)には、大江広元、問注所の長官(執事)には三善康信が京より迎えられました。

 1185年、頼朝は朝廷より義経追捕の宣旨を受けたのですが、その目的達成の為として、この年、国ごとに守護(総追捕使)を、荘園及び国衙(公)領に地頭を置きました。

 荘園の所有者は本家あるいは領家と呼ばれ、多くは都(みやこ)の有力公家が務めていました。しかし、その多くは、在地の有力者(豪族)が彼らに寄進したものでした。彼ら地方豪族たちは、その見返りとして、荘官の役職を得ることで自身の土地支配権を強化しました。その地方豪族たちが頼朝と主従関係を結んだのですから、そういう土地は実質的に頼朝の支配下に入ることになりました。そういう土地に地頭をおくことなど容易だったわけです。

 また、幕府自身も関東御領と呼ばれる荘園の所有者(本家)でした。ここにも、地頭が置かれました。その職は恩賞として、功労のあった御家人に支給されました。さらに、関東御分国と呼ばれる幕府の直轄地がありました。ここは、幕府の領国で幕府任命の国司が置かれました。

 荘園の増加ということは、律令制にとっては公地つまり口分田が減少していくということでもありました。ついには、天皇家までが荘園主になっていきます。こうして、土地に関する権利関係が複雑化していきました。何重にも権利関係が重なりあっていた土地もあったはずです。

 1199年、頼朝が亡くなります。長男頼家が後を継ぎますが、1203年に、頼朝の妻政子の父北条時政によって廃され、弟の実朝が将軍職に就きます。そして、時政自らは政所の長官(別当)に就任し、執権と称して、幕府の実権を握りました。ところが、1219年、実朝をも謀略によって暗殺します。ここに頼朝の直系は途絶えました。初期の幕府政権はごたごた続きでいずれにせよ政権基盤は盤石ではありませんでした。

 このような幕府の状況に、天皇の復権を画策した人物が現れました。後鳥羽上皇です。1219年、上皇は反幕府(北条氏)の御家人や非御家人の武士、そして、大寺社の僧兵たちを糾合して、二代執権北条義時の追討の院宣を発し、挙兵しました。

 承久の乱の勃発です。幕府は初め上皇に弓を引くことに動揺しました。しかし、頼朝の妻政子は、御家人たちを前に「頼朝以来の恩顧」を諄々と説き、それに感激した武士たちは幕府への忠誠を誓いました。戦いは幕府側の圧勝に終わりました。

 戦後処理は厳しいものでした。後鳥羽上皇は隠岐に流され、院の近臣や院側についた武士たちは斬刑に処されました。また、その所領は没収され、戦功のあった御家人に地頭職として分け与えられました。ここに、幕府の朝廷に対する優位は明らかとなりました。京都には、六波羅探題が設けられ、朝廷と公家たちは幕府の監視下に置かれました。

 
このような時代背景の下に、御成敗式目は制定されました。次回は、その内容について学びたいと思います。

憲法を考える(5)~御成敗式目③~(2018年1月26日)

 昨年の衆院選では、自民党が大勝しました。野党敗北の原因は野党間の選挙協力の不調にあると言われています。また、希望の党の小池代表の「排除」発言も影響したとも言います。しかし、野党敗北の根本原因は、各勢力の理念および政策がバラバラだったことにあると思います。一方、自民(与党)側は政権の維持という一点に力を集中していました。20代、30代の若者層で自民支持が多かったのも、彼らが今の生活を壊したくない。多くのマスコミは、彼らが現政権の政策に満足しているからだと分析していました。

 さて、ここで御成敗式目の制定のきっかけとなった承久の乱について、復習しておきましょう。昨年の衆院選と酷似していることに気が付くと思います。源氏系の鎌倉幕府は三代目将軍実朝の暗殺により終焉したのですが、幕府は存続しました。妻政子の父北条時政が執権と称し、幕府の実権を握ったからです。御家人の一人である時政が実質天下人となったわけです。このような状況に御家人の中には不満を抱く者も現れます。特に西国に多かったようです。一方、朝廷側では、後鳥羽上皇が実権を握り、朝権回復の機会を狙っていました。1221年、上皇は義時(二代目執権)追討の宣旨を発し、挙兵します。しかし、幕府軍に惨敗します。上皇軍は、反北条の御家人、非御家人の武士、そして、大寺社の僧兵たち寄せ集めでした。昨年の衆院選では希望の党の下に野党陣営を糾合しようとしましたが、失敗しました。つまり、野党側は選挙協力することなく、バラバラに衆院選を戦わざるを得なくなりました。そして、結果は自民大勝となりました。乱後、北条幕府は上皇側の所領を没収、戦功のあった御家人に地頭として任じました。こうして、幕府は全国の支配体制の見直しに着手しました。このような政治状況を背景に御成敗式目は制定されました。

 御成敗式目は全51か条からなり、御家人(地頭)の権限(権利)と義務について定めています。初め、35条までが制定され、その後、追加されて51か条となりました。まず、第1条に、「神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添う」とあります。ここでは、神仏が人の上に置かれています。幕府(将軍)と御家人とは主従関係にありますが、その関係を超えて、神仏が存在している。だから、地頭に任ぜられた御家人はその任地の寺社を崇敬し保護しなければならないというのです。

 一方、第2条では、僧侶は日々お勤めに励み、寺塔の修理等その管理を怠ってはならないとあります。何故、こんな条項が入ったのでしょうか。ここからは、当時の僧侶たちの堕落退廃の状況を窺い知ることが出来ます。

 第3条には、守護の職務権限が定められています。一つは大番催促、二つ目は謀反人と殺人犯あるいは強盗、山賊等の取り締まりです。大番催促とは、御家人に朝廷警護を命ずる権限のことです。朝廷警護はもともと地方武士が上京して担っていました。だから、それを御家人(守護)の職務権限の第一番にあげて、ここで確認しているわけです。また、守護はかってに代官を任命したり徴税したりしてはならないとあります。

 続いて、第4条では守護は重罪人(謀反人)から、かってに土地を奪ってはならず、その扱いについては、必ず、幕府の指示を受けること。

 第5条では、地頭は年貢を横領してはならず、必ず本所(京在住の領主=公家)に納めなければならない。横領が改まらない場合は地頭職を解任する。第6条では、国司や領家(荘園の所有者)等の本所が起こす裁判について幕府は介入しない。この2か条からは、幕府の支配権は未だ全国には及んでおらず、旧支配層(天皇家や公家階級)の支配地域もかなり存在しており、彼らの権利は尊重しようという幕府側の意向が窺えます。

 第7条と第8条では、所領(土地)の権利について定めています。まず、第7条では、頼朝や源氏三代の将軍あるいは二位殿(北条政子)の時代に恩賞として御家人に与えられた所領の支配権は保証される。一方、旧領主(公家や寺社)の支配権復活の主張は認められない。第8条では、御下文(みくだしぶみ・領地保証書)にあるように、御家人が20
,年間支配した土地は領有を保証する。しかし、実際に支配していない場合は保証書があっても権利は認められない。

 
第16条では、承久の乱後に没収された領地について規定されています。乱後、非謀反人たることが証明された者の領地は返還される。乱後に新しく入った領主は新領地が与えられる。一方、御家人にもかかわらず、謀反に加わった者は死罪及び領地没収等厳罰に処す。

 相続に関する規定を見てみます。まず、第18条には、女子に相続された所領に関する規定があります。式目制定前、女子には所領の返還の義務がなかったようです。しかし、この条では当該女子に親不孝の事柄があった場合には所領を返還させるとあります。第19条では、忠義の家来で所領を与えられた者であっても、主人亡き後、その子供らと財産争いを起こした場合は彼の所領は子供らに返還される。第20条では、譲り状にあった相続人(子ども)が死亡した場合は被相続人(親)が自由に相続人を決められる。第21条では、離別前に妻や妾に相続された所領は、離別後も所有が保証されるが、当人に落ちが度あった場合は所有できない。第22条には、後妻や連れ子に追い出された前妻の子であっても、功労のあった子(長兄)には嫡子相続相当分の五分の一が与えられる。第23条には、未亡人の所領は養子をとってそれを相続させることが出来る。第24条には、夫の所領を相続した後家(未亡人)が再婚した場合は、その所領を亡夫の子息に与えなければならない。第25条では、御家人の婿となった公家は御家人(武士)としての役割を果たさなければならない。それが出来ない場合は領地を知行出来ない。第26条には、所領を子供に相続した後であっても、別の子供に相続しなおすことが出来る。第27条では、御家人が財産の相続を決めずに亡くなった場合は、働きや能力に応じて妻子に分配する。

 裁判に関する規定もあります。第28条では、虚偽の訴訟を禁止しています。違背者は、所領を取り上げるとあります。第29条では、裁判は担当裁判官が行うのが本筋で、他の裁判官に依頼してはならない。また、裁判が二十日以上かかった場合は問注所に訴えることが出来る。第30条では、有力者に頼った裁判を禁止し、言い分は法廷でせよとあります。第31条では、敗訴した者が判決を不服とし、虚偽の事柄をもって再審を訴えることを禁止する。虚偽の再審を訴えた者は領地の三分の一を没収する。第35条には、役所からの呼び出しに、三回応じない被告は原告だけで裁判する。但し、原告が敗訴した場合は領地を没収する。

 また、次の三つの犯罪を特に取り上げて禁止しています。第32条では、盗賊や悪党(反幕府勢力)をかくまった地頭は同罪とする。第33条には、強盗と放火は同罪とし、断首刑とする。第34条には、人妻との密通を禁止し、犯した者は男女問わず所領の半分を没収する。かかる条項から見ますと、この時代、治安は著しく悪かったようです。わざわざ密通を法令で禁止するなど男女間の風紀も乱れていたようです。

 今回は35条までを取り上げました。内容分析と評価については次回とします。尚、当ホームページはこの一月で五周年を迎えました。これもひとえに支えてくださった訪問諸兄姉のおかげと感謝しております。今後とも宜しくお願い申し上げます。

憲法を考える(6)~御成敗式目④~(2018年4月19日)

 相も変わらず、国会は森友、加計問題で機能不全に陥っています。アメリカは限定的とは言え、シリア攻撃に踏み切りました。北朝鮮は急速に中国に近づき、中国を後ろ盾に米朝会談に臨もうとしています。新聞各紙はこのままでは日本が孤立すると報道しています。そもそも、軍事力を背景にできない日本外交には限界があります。今国会が為すべきことは、かかる厳しい国際情勢にどう対処すべきか、与野党挙げて検討すべきです。やるべき政策論争をそっちのけで、スキャンダルばかりを追いかけているのでは、国会の役割を果たしていません。

 昭和の初め頃もそうでした。金融恐慌や農村の窮乏化に当時の政党政治は対応出来ませんでした。226事件はこのような社会情勢を背景に勃発しました。実は、国民は本事件を起こした軍人たちを熱烈に支持したのです。国民は、何か、世の中がいい方向に変わると思ったのかも知れません。しかし、その後の状況は歴史の示すところです。

 さて、今回も御成敗式目を続けます。前回は、御成敗式目の基本項目である第35条までを見てきました。今回はその内容分析と評価について行います。

 その全体的な構成をまず見てみましょう。1条と2条で寺社の関する規定。3条と4条で守護に関する規定。5条と6条で天皇家や公家に関する規定。第7条以下、35条までが御家人に関する規定となります。

 御家人に関する規定は大きく分けて、領地(土地)の権利に関する規定と相続に関する規定、及び、罪科に関する規定が定められています。

 まず、領地(土地)の権利に関しては、第7条8条で頼朝および政子より与えられた領地についての規定、さらに、第16条では、承久の乱後に獲得した所領についての扱いが定められています。

 次に、相続に関しては、第18条から第27条に規定があり、注目すべきは相続に関しては男女同権だったということです。そもそも、相続に関して男女格差が生じたのは、江戸時代からであり、儒教(朱子学)の影響を受けてのことと思われます。

 35条以下、補則では、領地(土地)と相続に関する規定の他、裁判に関する規定があります。土地争いとその解決が当時の幕府にとって最大関心事であったことがこれらの条文からは窺えます。

 御成敗式目制定当時、上位法として、律令がありました。将軍職は令外官(りょうげのかん)といって、律令制下では例外的な職制でした。坂上田村麻呂が担った征夷大将軍は蝦夷平定の為に臨時に設けられたものでした。蝦夷平定後は廃止されています。律令には将軍や武士という身分も職制もありません。本来ならば、律令を改正して、将軍職や武士身分を法的に規定するのが筋であろう考えられますが、父祖たちはそうしませんでした。

 何故でしょうか。我々は鎌倉幕府=日本政府と考えがちですが、当時の幕府は武士階級の統治機構であって、その統治は全国には及んでいませんでした。天皇家や公家の支配地、あるいは、寺社領もかなりの範囲にあって、そこは、基本的には律令制下にありました。つまり、当時の日本は実態としては公武二重政権だったということが出来ます。

 その為、一条と二条で寺社の尊崇と保護を謳い、三条では、守護の仕事の一つとして、国司(朝廷が任じた地方長官)や領家(荘園所有者の公家)の保護を定めています。名実ともに武士の天下が定まったのは、1588年の秀吉による全国的な刀狩り以降だと考えられます。

 次に、当時の武士たちの権利と義務について考えてみたいと思います。地頭職は将軍(幕府)より恩賞として与えられた者と、自領を幕府により安堵され地頭職を任命された者とがありました。いずれにせよ、その土地は領有(所有)権と統治権、及び、徴税権が幕府により保証されました。その見返りとして、彼らは幕府に対する忠誠と軍役義務等を担いました。
 
 また、武家政権の成立は天皇・公家政権からの武士たちの独立ということも言えます。御成敗式目はその宣言書ということも出来ます。1215年、イギリスの貴族たちは自分たちの権利をマグナカルタ(大憲章)として当時の国王に認めさせました。1232年に成立した御成敗式目もこれに匹敵する歴史的快挙ということも出来ると思います。

 一所懸命ということばがあります。武士たちが自分の領地を命がけで守る行為を意味しています。領地へのあくなき権利意識。幕末から明治維新にかけて、日本人はそれこそ一所懸命にヨーロッパ思想を学びました。その中心は下級武士でした。幕末・明治人たちが容易にヨーロッパ思想を理解できたのも彼らの考え方の根っこのところに、ある種の権利義務意識を持っていたからではないでしょうか。清(中国)や朝鮮はヨーロッパ化に失敗しました。古代の政治体制(律令)下で多くの人民は権利義務意識など持ちようがなかったからです。

今回はこれまでとし、次回は武家諸法度を学びます。

憲法を考える(7)~健武式目①~(2018年7月10日)

 6月12日の米朝首脳会談では、朝鮮半島の非核化で合意しました。アメリカの経済および軍事圧力に北朝鮮が屈した結果なのは明らかです。一方、具体的な方法と時期については今後の協議に託されました。拉致問題も提議されたようですが、共同声明には謳われていません。何でも、話し合い、話し合いとわが世論は言いますが、そもそも、外交は力、それは軍事力であり経済力、あるいは、文化力といったものも入るかもしれません。そういった力を背景にしない外交は時間の無駄でしかありません。日本は完全に北朝鮮になめられています。皮肉な言い方をすれば、日本国憲法が拉致事件を起こし、そして、稀なる人権侵害を生じさせたということも出来ます。改憲勢力が三分の二を超えました。しかし、安倍首相は改憲には慎重です。まず、首相のやるべきことは改憲世論の形成ではないでしょうか。

 鎌倉から江戸まで、わが国は軍事政権でした。ただ、建武の親政といわれる後醍醐天皇による治世のみが例外でした。後醍醐は軍事集団である武士たちを使いこなせなかったと言えます。恩賞を天皇公家方に多く配分したと言いますが、この施策などはその典型例でしょう。現場で戦った武士たちが怒るのも当然です。

 今回取り上げる「建武式目」は南北朝の争乱に勝利した足利尊氏が鎌倉幕府の後継政権として、その正当性を示す必要性から制定しました。政権発足にあたり、尊氏は武家法の基本である「御成敗式目」は引き続き政権運営の要とするとともに、新幕府の当面の政策課題について、旧幕臣であった二階堂是円ら八人に諮問しました。そして、1336年、答申されたのがこの「建武の式目」でした。

 建武式目は、前文と各17か条からなり、前文で、何故この式目を定めるのかを述べています。そもそも鎌倉は将軍の居所として相応しいのか。他所では、いけないのか。冒頭、こう問題提起した上で、鎌倉という所は初めて幕府が置かれ、承久の変では、北条義時公が勝利し、天下に武威を示した。武家にとっては、吉相の場所である。そうであるのに、先の執権北条高時は遊興に耽って政治を顧みることがなかった。そもそも、政治の善し悪しは、政策の善し悪しによるのであって、政治の行われる場所によるのではない。今の鎌倉の荒廃はひとえに悪政によってもたらされたものである。もし、多くの人々が望むのであれば、武家の都を移せばよい。古典にはこう言っている。「徳はこれ嘉政、政は民を安んずるにあり」。徳は善政の基本、政治の目的は民を幸福にすることにある。人々の愁いを安んずるために、衆知を集め、ここにその要点を記す。

 (一)倹約に努めなければならない。最近、婆佐羅(バサラ)と称して、派手好みな風潮がある。富む者はいよいよ富み、貧者は及ばぬことを恥じる。世の乱れ、甚だしい限りだ。早急に、取り締まるべき事柄か。

 バサラとは、常識破りな服装や振る舞いを指しているが、そもそも、このような風潮を戒めなけれはならなかったのは、これを許せば、貧富の格差が拡大し、治安も悪化すると考えられたからである。

 (二)集まっては飲み食いし、怠けて(佚遊・いつゆう)ばかりしていてはならない。女を買い、博打に及ぶ。あるいは、茶会、連歌の会と称して、賭け事をする。その費用は計算しがたきほどである。

 茶会や連歌の会が賭博の場だったとは、驚きである。遊んでる暇があるならもっと働けということか。今の日本人からすれば想像もできない事である。

 (三)暴力行為(狼藉)を取り締まれ。昼は空き巣。夜は強盗。街中での殺人、追い剥ぎ。人々の叫びは絶えることはない。もっと、警備態勢を強化すべきではないか。

 今でも、治安悪化に苦しむ国々は多い。我が国でも、当時はこうであったのだろう。

 (四)個人の家屋の没収は止めるべきだ。苦労して建てた個人の家屋が没収され、取り壊される。当事者は生計の手立てを失い、困窮し、露頭に迷う。こんな不合理なことはない。

 南北朝の争乱で当時の京の町は焼け野原だったはずである。そこに勝手に掘っ立て小屋みたいのがどんどん建っていったのであろう。もう少し、取り締まりを緩めたらどうかというのである。焼野原になった終戦後の東京など大都会の復興は個人のバラックの建設から始まった。いつの時代も、民衆はたくましい。

 (五)京内の空き地は元の持ち主に返却されるべきである。京内の過半は空き地である。早く元の持ち主に還して、有効利用してもらったらどうか。噂によると、天子の側近のある人は有無も言わさず、財産の大半を没収されたとのことである。きちんと調査して対処すべきである。承久の乱後の没収地もかなりある。その上、さらに没収されるのであれば、公家や役人はいよいよ萎縮してしまう。

 後醍醐天皇による復古政策によって、恐らく、京の地の土地は一時であれ国有化されたのではないか。何故なら、律令体制下では公地公民が原則だからである。戦乱で焼け野原となった京の町で民有地を政府が接収したのだから、人々の不満はどれほどであったか。何より、時代に逆行する愚策であった。再調査して、正当な対処をすべきというのである。

 (六)無尽や土倉はやるべきだ。膨大な人頭税を課せられて、課役に駆り出され、家にも帰れない状況下では、家屋も失ってしまうのではないか。そうすると、身分に関係なく、急な入り用の時窮乏してしまう。無尽や土倉があれば皆が安心できる。

 無尽とは金銭を融通しあう集まりを言う。土倉とは今でいう質屋のことである。このことから、当時、貨幣経済が社会に浸透しつつある状況を窺い知ることが出来る。京では無尽(金銭の貸し借り)や土倉(質屋)が建武政権によって禁止されたのかも知れない。

 (七)全国の守護は、政治能力によって登用されるべきである。昨今、軍功によって守護職に任じられることがある。恩賞を与えるのであれば土地(荘園)によって行えばよい。守護職は頼朝公が定められた権威ある職務である。それぞれの国(領国)の統治の正否は守護の働きによる。もっと、能力により登用されれば、領民の安撫にも資する。

 さすがに、武士である。実力主義を称揚しているのである。

 (八)朝廷や公家および女性、禅僧、律僧の干渉(口出し)は止めるべきだ。

 朝廷や公家、及び、寺院がこの時代依然相当の力を持っていたことは理解できるが、何故、かかる干渉勢力に女性が入るのか分からない。特に、女性領主(荘園主)が口うるさかったのであろうか。

 今回はここまでとし、次回、残り9か条について学びます。

憲法を考える(8)~健武式目②~(2018年8月20日)

 前回に引き継続き「建武式目」を続けます。

 (九)政治家や役人は職務を怠ってはならないし、また、職務に忠実でなければならない。こんなことは当たり前のことであって、新たに言うべきことでもない。

 つい先日も、森友、加計学園の件で、政治家に対する役人の忖度が問題となりました。また、安倍首相がこの問題で圧力をかけたという証拠はついに見つからなかったようです。なのに、野党は未だ首相への追及を緩めていません。国会はスキャンダルを楽しむ場でありません。野党の議員方は職務を怠り、不忠実なのではないか。国民の間でもこんな認識が広がっているのではないでしょうか。

 (十)賄賂は絶対に止めなければならない。このことは今に始まったことではない。特に、厳しく徹底すべきだ。たとえ百文の薄給の身分であっても、賄賂をもらったら、その人を召し抱えるべきではない。さらに、高額であれば生涯を失うかも知れない。

 当時、かなりの頻度で賄賂が横行していたようだ。本式目の対象者は武士であるはずだ。何でも金で解決するという風潮が武士の間にも蔓延していたのであろうか。

 (十一)城内城外を問わず、誰からであろうと進物をもらったら返すこと。上司の行動(好み)に部下は従うものである。重ねて倫理観を教育すべきである。中国(唐)製の珍品、特に、鑑賞の対象となるようなものは言うに及ばない。

 前項では、金銭のやり取り、本項では物品のやり取りについて取り上げています。つい先日も、文部官僚の一人が自分の子息を大学合格させる為に、その大学関係者に便宜を図ってやったということがありました。この件などは、確かに、金銭や物品の授受はなかったのですが、大学合格という「サービス」の授受があったと認定されたわけです。

 (十二)家来の選び方。その君主を知ろうと思えば、その臣下を見よ。その人を知ろうと思えば、その友を見よと云う。とすれば、君主の善悪は、臣下の在りように顕れる。だから、家来は実力により採用すべきだ。また、党派を組んで、お互いに非難しあう。これは争いの基である。これに過ぎるはない。

 
リーダー一人では目的は達成できません。有能な部下があってこそ事は成就できます。不祥事のほとんどは組織内のチェック機能が働いていない場合が多いようです。ここに来て、日本ボクシング連盟による助成金の不正流用や試合判定の不正が問題になっています。同連盟は民間の自主組織ですが、国のスポーツ振興の観点から税金からの財政支援を受けています。驚くべきことに、現会長は終身だと言います。組織は小さくとも、これでは、どこかの発展途上国の独裁大統領と何ら変わりはありません。ノーを言える有能な部下がいない証しです。現会長は世論の批判を受け、辞職したようです。さらに、現執行部の大幅入れ替えするぐらいの改革が必要でしょう。

 (十三)礼節を重んずるべき。国家統治の要は「礼」である。君主には君主の礼。臣下には臣下の礼がある。上も下もそれぞれの立場(分際)をわきまえ、礼をもって言行の指針とすべきではないか。

 「礼」は社会秩序の要であると言うのです。戦前は、修身という形で子供たちに倫理道徳が教えられました。多くの親は躾けは学校の仕事と思っていたふしがあります。しかし、戦後、それは、家庭の仕事となりました。筆者の両親もそのような考え方だったのかどうかは分かりませんが、きちんと躾けられた記憶がありません。今般、道徳教育が正式教科に引き上げられたようですが、まことに良いことだと思います。

 (十四)清廉潔白の評判が高い人には特に褒賞を与えるべきだ。これは善人を重用し、悪人を排徐する良策である。但し、判断の基準ははっきりさせておくべきだ。

 とにかく当時は汚職が蔓延していたようです。正直者は褒めて、さらに努力を促す。但し、判断の基準は公平にということです。

 (十五)古代中国の堯(ぎょう)の政治が理想である。弱者の訴えに耳を傾けること。憐れみは弱者にこそかけるべきである。彼らの愁訴に耳を傾けることは政治(幕府)にしか出来ない。

 ここで言う愁訴とは農民による荘園領主への年貢減免の訴えのことです。また、堯王は何よりも農民(人民)を大切にし、暦と灌漑を普及させ、人民を豊かににした古代中国の伝説の帝王です。また、位を晩年瞬(しゅん)に譲ったことでも知られています。いわゆる禅譲です。岸田政調会長は安倍総理からの禅譲を期待しているようですが、事はそううまくいくでしょうか。

 (十六)寺社からの訴えはことの正否を見極めて対処すべきだ。時には、権威を振りかざし、あるいは、天下一の寺(神社)と称し、または、奇瑞で驚かし、祈祷(現世利益)を売り物にする。

 このような寺社は最も注意すべきである。

 いかがわしい宗教には注意しようというのです。当初、オームがあれほどいかがわしい宗教だとは、誰も思ってもみませんでした。鎌倉末期、末法といわれ
,今同様、不安の時代でした。今以上に、人々は不安からの救済を宗教(信心)に頼ったはずです。そうは言っても、人心を惑わすような宗教は、当然、排除すべき対象だったわけです。

 (十七)裁きの日時はハッキリさせておくべきだ。人々の訴え(愁い)は待ったなしである。しかし、事を急いで、真相究明をおろそかにしては元も子もない。要は、人々の不満(愁い)無きよう取り計らうのが政治(御沙汰)の役割である。

 ここでは、公平性の重要性を指摘しています。今、格差が問題になっているのは、公平性が担保されていないからです。いくら努力しても貧困から抜け出せない。これなども、社会構造が固定化し、親の貧困が子に引き継がれていくからです。奨学金はかかる格差是正の一つの手段ですが、ほとんどが貸与だと言います。無償支給の部分をどうやって増やしていくか。今の政治の課題だと思います。

 以上、建武式目の17条全てを見てきました。同式目はこの後主筆の是円(ぜえん)の言葉として、こう伝えています。“わたくし是円は前幕府の禄を少しは食んだ者ではあるけれども、今は、在野の一浪人である。しかし、もったいなくも、今般、今後の政治の在り方について尊氏公より諮問をこうむり、古今の中国及び日本の古典をひもとき、一文にまとめてみた。未だ、諸国の戦は止まない。最も、危惧すべきことではないか。延喜・天歴両帝の徳政及び義時・泰時両公の治世に学ぶべきである。天下万民が納得する政治を行えば、全国津々浦々にいたるまで天下(社会)は安泰である。以上はそのための言上である。”

 さて、これら建武式目の17条から何が見えてくるでしょうか。建武式目が出された時期は南北朝の争乱が収まった直後です。今だ、天下に統一政権はなく、天皇・公家勢力、寺社勢力、そして、武家勢力が分立していました。加えて、農民や商人(職人)たちも力をつけてきていました。かかる諸勢力の対立を解消し、安定した統治が行える中央政府(幕府)の登場が期待されていました。

 式目の編者たちは、まず、社会の現状を分析しました。第一に、治安の悪さを取り上げています。第1条と2条では、社会に広がった風紀の乱れを指摘し、対策を促しています。第3条では、数々の犯罪行為を挙げて、とにかく取り締まれと主張しています。

 第4条から6条までは、民衆対策です。私有財産(家屋と土地)の保護を謳い、無尽(金貸し)や土倉(質屋)を勧めています。

 第7条は、守護についての項目です。守護は頼朝が定めた武家政治の要です。律令制における国司にあたります。何よりも、政治能力による登用が重要だと指摘しています。今でも、順送りの大臣登用がよく行われますが、決して、やってはならないことだと思います。

 第8条からは、天皇・公家勢力と寺社勢力が依然武家政権の対抗勢力として認識されていたことが窺い知れます。

 第9条から14条では、政治家や役人の身の処し方について、述べられています。職務に忠実であることは当然のこととして、金銭であれ、品物であれ賄賂は絶対にやってはならない。リーダーたる者、部下をよく観察して、能力によって採用すべきである。国家統治の要は「礼」である。上も下もそれぞれの立場で礼を尽くす。だから、清廉潔白の人は特に優遇し、悪人は排除すべきである。

 第15条から第17条は、訴訟についての規定です。まず、農民は弱者なのだから
,領主は彼らに憐れみをかけて公平な裁きをすべきである。反対に、寺社勢力は強者である。その訴えには、よくよく見極めて対処すべきというのです。

 
民主主義の基本は少数意見を大切にすることだと言われています。建武式目は武家専制下にあって、しかも、弱者の意見(訴え)を重視せよと主張しています。現代の民主政治にも通ずる考え方です。鎌倉、室町期の武士たちは、今の我々よりずっと自立していたと思います。建武式目から我々が学ぶべきは「自立」ということだと思います。

 次回は、分国法について学びます。分国法はそれぞれの領国内で行われた統治法規で、御成敗式目および建武式目が影響したと言われています。

憲法を考える(9)~分国法①~(2019年3月13日)

 日韓関係が悪化の一途をたどっています。戦国時代は一種の国際社会で武力が事を決する最善の手段でした。現在の国際関係においても、武力がものをいうのは当たり前です。北朝鮮が米朝会談を承諾したのも、アメリカの軍事力の前に屈したのは明らかです。今般、韓国海軍駆逐艦による空自哨戒機への火器管制レーダー照射は日本国憲法がもはや制度疲労を起こしてしまっている明らかな証拠です。

 攻撃は最大の防御であることは千古の真理であり、専守防衛などナンセンスです。韓国艦は明らかに遊び半分でレーダー照射をやったとしか考えられません。何故なら、空自機は攻撃兵器を掲載していなかったのですから。アメリカ軍なら絶対にやれません。今一つ、韓国国会議長の天皇による元慰安婦への謝罪要求発言も許せません。天皇は日本国民の統合の象徴であって、天皇への侮辱は日本国民への侮辱と同じと考えられるからです。今までになく、日本国民の韓国への怒りの気持ちは高まっています。この今こそ、憲法論議を速やかに前進させ、時代に合った新憲法を制定し、国家・国民の尊厳を取り戻すべき時です。

 前置きが長くなりすぎました、今回から、分国法について学びます。分国法は戦国大名の領国内で行われた統治法規で、御成敗式目および建武式目に倣ったものです。

 さて、武家政権の成立は天皇・公家政権からの武士階級の独立だったということを以前に指摘しておきました。当時の基本法(憲法)である律令には武士階級の規定はありません。御成敗式目はいわば必要に迫られて制定されたとも言えます。北条(鎌倉)政権から足利(室町)政権への移行に際して制定された建武の式目は御成敗式目を基礎としながら、新しい時代状況に条文を合わせる必要性から制定されたとも言えます。

 今、取り上げようとしている分国法は乱世となって、室町幕府が実態として統治能力を失っていく時代状況の中で、戦国大名たちの独立志向の高まりを反映したものと言えます。つまり、彼らもまた自らの領国経営のために何らかの統治法規を必要としたということです。

 そもそも、戦国時代というのは国家・社会の力学が分裂の方向に向かっていた時代です。各領国どうしの争いは当然として、それぞれの領国内での争いもまた当然のものでした。戦国大名には、二つのタイプがあったようです。一つは領国拡張主義者。今一つは、領国安定主義者。前者は、織田、徳川、毛利、島津等。後者は、伊達、六角、今川、武田等があげられるでしょう。明治大学の清水教授は、後者は伊達を除きすべて滅亡していると指摘しています。前者の勝組は領主の力が強く、独裁で物事が進められていたと考えられます。結果は歴史の示す通りです。後者は、何がしかの領国法を作成していますが、その第一の目的は領内の安定でした。

 乱世の時代、力関係の基本は、自力救済と不入権(治外法権)という考え方でした。そもそも、この時代、個人という考え方はありません。権利の主体は集団でした。土地争いは必ず一族郎党どうしの争いとなってしまいました。地域有力者はその地域の集団間のトラブルを調整することにより、地域リーダーの地位を確保していきました。

 そこで、本稿では分国法の代表作「今川かな目録・同追加」を取り上げ、分国(領国)法の一端に触れてみたいと思います。同法は、本法33条、追加21条からなり、本法を父の今川氏親、追加を息子の義元が定めました。その目的は、自力救済を禁止し、地頭ら地域有力者の権限(不入権)を制限し、今川氏の支配権力を確立することにありました。

 
かな目録の第1条から第4条までは、土地に関する規定です。第1条では、家臣所有の土地をその主人は正当な理由なしに没収出来ない。但し、年貢未納の場合は没収できる。第2条では、土地の境界争いにおいて、不当な訴えで敗訴した場合はその者の所領の三分の一を没収する。第3条では、荒れた土地の再開発において、領主間の争いが生じた場合には、その中間を境界とする。もし、双方が不承知の場合は、双方の権利を剥奪し新たな領主を定める。第4条では、訴訟中の土地を実力でもって侵してはならない。但し、判決の三年後、裁判のやり直しができる。5条から7条までは、家臣に関する規定です。第5条では、他家の臣下を許可なく召し抱えてはならない。そういう場合は裁判で決着する。係争中、もしも、当該家臣が逐電した場合は、召し抱えたい側が家臣一人を弁済する。第6条では、新規召し抱えの家臣が逃亡した場合、20年にて捜索を打ち切ること。ただし、犯罪人はこの限りではない。第7条では、夜間の不法侵入者は捕らえてよい。抵抗を受けて侵入者を殺害しても罪にはならない。また、他家の下人が許可なく通い婚をした場合、捕らえても構わない。また、殺害しても罪にはならない。ただし、婚姻関係が明らかになったならば追放にすべきだ。

 ここで言う家臣は侍なのか下人なのかはっきりしない。この時代、まだ、通い婚だったようだ。そうすると、ここでの家臣は下人なのか。


 第8条から第12条までは、喧嘩に関する規定です。この時代、武力による支配は当たり前であって、土地等の権利争いは武力争いに至ることは当然の成り行きでした。喧嘩というと何やら軽い印象を受けますが、要は、武力衝突ということです。第8条では、喧嘩を起こした者は理由を問わず、両者死罪とする。但し、仕掛けられても手出しせず負傷した者は死罪を免ずる。喧嘩の責めは当人にあって家族にはない。また、味方して負傷しても加害者を訴えることはできない。

 第9条では、喧嘩の当事者が多すぎて首謀者がはっきりしない場合は、全員を死罪とする。第10条では、家臣の喧嘩はその主人に咎は及ばない。但し、当人が逃亡してしまった場合は主人の所領の一部を没収する。第11条では、子供の喧嘩は詮議に及ばない。ただし、両者の親どうしが、止めもせず、けしかけ、鬱憤晴らしにするなら、親子ともども死罪とする。第12条では、子供の罪科については、責任を問わない。但し、15才以上の場合は責任が問われる。

 これらの条項は、いわゆる「喧嘩両成敗」ということを言っています。小競り合いも、すぐに、刃傷ざたとなり、大きな争乱に至るというのがこの時代の常でした。個人と個人の争いが容易に集団と集団の争いに転化していきました。とにかく、大小問わず、争いをなくす。その為には、当事者双方を罰する。喧嘩(争い)を起こさせない。これらの条項の意図はここにあるようです。

 今回はこれまでとします。左手首の傷はまだ癒えませんが、出来る範囲でコラム執筆は続けたいと思っていますので、今後とも、宜しくお願い申し上げます。

憲法を考える(10)~分国法②~(2019年5月25日)

 令和元年5月1日、令和の御世が始まりました。令嬢。令息。令夫人。「令」には“よい”、“美しい”の意味があります。「和」は調和の和であり、和国(日本国)の和でもあります。従って、“美しい日本”という風にも理解できるでしょう。阿部首相に通ずるニュアンスがありそうな感じもしますが、おおむね国民には好評のようです。

 新元号「令和」は、従来の慣例を破って、国書から採られたとのことで、このことも話題になっています。その国書とは万葉集で、御存知のとおり天皇から農民に至るまであらゆる階層の人々の歌を集大成したものです。出典部分は、天平2年(730年)正月に九州・大宰府の長官・大伴旅人宅で開かれた歌会で披露された「梅花の歌三十二首」に付された序文から採用したとのことです。「初春の令月(れいげつ)にして、気淑(きよく)風和(やわら)ぎ、梅は鏡前の粉(こ)を披(ひ)らき、蘭は珮後(はいご)の香を薫(かお)らす」・・・春の初め、美しい月に気分もよく風も肌に優しく梅の花は鏡台の前の女性の白粉(おしろい)の香のように、蘭(らん)は腰に付けた匂い袋ように香っている。原文は漢文で、専門家によれば、なかなかの出来だそうです。大化の改新(645年)から80年あまり、万葉集の編纂は我が国が名実ともに当時の先進国の仲間入りをした証しでもありましょう。政治が安定して、文化も栄える。歴史はこのことを証明しています。

 さて、新天皇の即位に関しても一言申し上げなければなりません。先帝陛下は平成時代を振り返られて、戦争がなかった時代だったと発言をされていました。確かに、明治維新以来、日本の近代化は戦争の歴史であったことは確かです。明治、大正、そして、昭和の前半まで、歴史イコール戦争だったと言えるでしょう。戦前78年、戦後75年。戦前、戦後はほぼ同じ長さとなりました。平和をもたらしたのは、自称平和主義者たちの言う憲法
9条があったからではありません。たまたま、国際関係の条件が我が国にとって幸運だったからにすぎません。令和の時代がそのような幸運に恵まれるとの保証はありません。つまり、“新しい御世はひょっとすると戦争があるかも知れない”ということを国民一人一人が頭のどこかに置いておくことが肝要かと思います。つまり、地球規模の戦乱の時代が、冷戦にせよ、熱戦にせよ到来するかも知れないということです。今、学んでいる「今川かな目録・同追加」は戦乱の時代の一つの先人たちの知恵だと思います。今回は、13条から始めます。

 
第13条から17条までは、土地に関する権利義務関係を再規定しています。1条から4条までの規定を恐らく社会状況の変化に即して再規定したものと思われます。第13条では、主人より与えられた土地は売買が禁止されているが、やむを得ない場合は、理由を報告させ、買い戻し期間を定めて、許可すること。第14条では、売却された土地に対する元領主の検地権はない。第15条では、井戸や用水路を作る場合、他人の土地を通る場合は使用料を支払うこと。このような規定があるということは、土地の権利義務関係が相当に複雑にからみあっていたのでしょう。第16条では、新しい主人が昔の家臣に与えた土地を奪ってはならない。主従関係もまた複雑に絡まっていたのでしょうか。第17条では、古文書を根拠に土地の領有権を主張してはならないとあります。今川家の統治の目的は旧秩序を再編して今川家中心の新秩序の建設にあったのだから、古文書など認めていたら到底その目的は達成されません。この規定は当然の措置でしょう。

 第18条から21条までは、貸借関係の規定です。第18条では、借米の利息は初契約年の利息とし、期間は5年、借米一石につき一石。つまり、五石借りて、5年後、六石返す。返済がない場合は、領主に訴えて、差し押さえの措置がとれる。第19条では、借金の利息が元金の
2倍を超えてから2年までは返済を猶予するように。6年返済されない場合は、領主に訴えて、差し押さえの措置がとれる。利息が元金の2倍を超えるとは高利貸しもいいとこですが、当時は当たり前のことだったのでしょうか。第20条では、借金を返済できなくなり、領主や当家(今川)に救済を求める者がいるが、今後は一切救済には応じない。今後は、領地や資産を差し押さえる。出家、隠居等の逃げ行為は許さない。これは相当きつい。あくまでも、当事者本人の責任だという事なのでしょう。第21条では、他人(他家)の家臣への貸し米、貸金は当事者の主人および当家(今川)への届け出がない事案については、処罰される。

 
第22条・23条では、幕府に任命された守護の不入権(治外法権)は存続させるが、駿府においては廃止するとあります。不入権は荘園主の特権であって、今川氏もその配下の武士たちも荘園主であっただろうから、領国全体では荘園制を維持するが、今川配下の駿府では廃止するということです。新しい支配制度を駿府で実験しようという事なのでしょうか。

 第24条では、駿府、遠江においては、港の使用料、荷駄への通行税等は廃止し、今後は、今川家が直接管理する。商業活動に対する課税はこの当時かなり有効な財源になっていたという事でしょう。第25条では、今川家に報告せずに、債務者の資産を差し押さえしてはならない。資産の多くは土地(領地)であったのだから、無秩序に土地の権利関係が移動しては、領国統治に支障が出るということなのでしょう。

 第26条では、海岸に流れ着いた難破船は元の持ち主に返却する。持ち主不明の場合は資材として神社や寺院に寄進すること。この当時、船の航海はかなり危険があったのでしょう。難破船はごく普通の日常風景だったわけです。第27条では、河川の流木などは流れ着いた土地の所有者のものとなるとあります。

 その他。宗派間の教義論争を禁止する(28条)。無能な者への寺院(法系)の譲渡は禁止する(29条)。今川の領国民と他国民との婚姻は禁止する(31条)。今川家の許可なく他国人を今川の軍陣に参加させてならない(31条)。他国の商人を家臣としてはならない(33条)。

 一般に、この“かな目録”によって、今川氏は守護大名から戦国大名に成長したと言われていますが、これはどういう事なのでしょうか。そもそも、守護とは幕府(室町)から任命された地方官です。彼らは幕府の権威を背景に領国統治を行いました。今川氏も駿河の守護でした。しかし、今川氏は幕府の権威が凋落していく中で幕府権力から独立し、在地の国人(地侍)たちを家臣化し、かれらを通して農民たちを支配していきました。領国を一つの国家として、その統治法規を作成することは当然の成り行きであって、かな目録は必要に迫られて制定したとも言えると思います。守護もまた国司と同様に有名無実化していったわけです。義元時代には、追加21条を制定し、今川支配を盤石なものとします。

 今回はこれまでとし、次回は追加21条を取り上げます。

憲法を考える(11)~分国法③~(2019年8月19日)

 参院選が終わりました。自民党は改選議席を10議席減らし、単独過半数を失いました。連立相手の公明党は3議席増やしたものの、政府与党の敗北は明らかです。また、維新を含めた改憲勢力は三分の二を割り、改憲は遠のきました。それでも、安倍首相は憲法改正を諦めていないようです。野党に改憲議論を持ち掛けています。日本国憲法の制度疲労は明らかです。改憲反対者たちは現実を見ようとしていません。日本の“普通の国化に”反対しているのは、中韓北朝鮮ぐらいなもので、東南アジア諸国やインド、中東の国々は日本の“普通の国化”を支持しているはずです。国際社会に対して責任を果たしていない、果たせない。いくら、世界第三の経済大国だと威張ってみても、諸国民は心の中では日本を侮蔑しているかも知れません。中韓北朝鮮国民はバカにしていることでしょう。憲法審査会は開店休業のもようです。速やかな議論開始を望みます。議論を通して国民が現実を知ることこそが急務だと思います。

 今参院選では、新政党れいわ新選組が2議席を獲得しました。しかも、当選者は重度の身体障碍者です。参議会内のスロープ化工事も完了したようです。人間、実際に体験してみなければ、事の真相は理解しえません。国民も議員の方々も、本会議でのお二方の活動を実際に見る体験を通して厳しい障碍者の現実を見ることになるでしょう。2議員の発信力も大切ですが、我々国民としても身障者の置かれた厳しい現実に向き合う機会としなければなりません。

 日韓関係が最悪となっています。日本政府は半導体製造に関わる3素材の韓国向け輸出に実質的な輸出規制をかけました。韓国を最恵国待遇(ホワイト国)から外し、輸出手続きを一般国並みにするものです。今回の措置は輸出禁止ではなく、手続きの一般化です。なのに、元徴用工判決への対抗措置だとして、韓国は官民あげての反対の大合唱です。集団ヒステリーとしか言いようがありません。しかし、よく考えてみれば、今回の措置は日本の国内問題です。彼らは内政干渉していることに気が付いていません。日本には何を言っても反撃してこない。いつもの通り、たかを括っていたのではないでしょうか。あまりの驚きに腰が抜けてしまったのでしょう。今回の日本政府の措置はほとんどの日本国民の賛同をえています。今後、韓国政府および韓国国民は日本政府と日本国民を軽く見てはなりません。政府は妥協することなく施策を推進するべきです。

 前置きが長くなりました。今回は、今川義元のかな目録追加21か条を見てみます。義元が当主に就任したのは、1536年、十八歳の時でした。追加21か条の制定は17年後の1553年、かな目録の制定が、1526年ですから、それからも27年たっています。時代の変化に即しての条文改定が必要になってきたものと考えられます。

 第1条では、結審後、新たな証拠が示せれば控訴できる。但し、同じ証拠をもっての控訴は認められない。そうした場合は処罰するとあります。

 第2条から第4条までは、寄親と寄子の関係を定めています。寄親とは今川家直参の家臣かと思われます。彼らの多くは、国人と呼ばれ、地域の支配者でした。今川家は彼らを家臣化することによって、領国支配を広げていったわけです。第2条では、訴訟は必ず自分の主人(寄親)を通して行うこと。第3条では、家臣(寄子)はかってに主人(寄親)を変えてはならない。当時は忠君愛国などという道徳観はなかったわけですから、このような規定が必要だったのでしょう。第4条では、自分の寄り親以外の寄り親の元での軍功は認めない。不忠として処罰する。戦ごとに主人を変えていた者がいたということでしょうか。

 第5条、朝廷・幕府の定めた守護不入の特権地は既に廃止されているが、直参旗本(馬回り)の所領は特例とする。かな目録での特権地の廃止は駿府のみでしたが、この頃には、今川領内すべての特権地が廃止されていたようです。ただ、今川家直属の臣下については特権を認めるというのです。独立あるいは朝廷・幕府系の小領主を家臣化していく過程でこのような措置が必要となったものと思われます。

 第6条では、徳政令がないのにもかかわらず、借金返済の年期契約の延長は許されない。かな目録の18、19条で借金・借米についての規定がありますが、守らない、守れない事例が多く発生したのでしょうか。徳政令はその救済策と考えられますが、それを待てない事例が多々あったのでしょう。訴訟も許されていませんでした。訴訟した場合は全財産没収とあります。要は、土地(資産)の管理は今川家が一括して行うということでしょう。

 第7条では、他国の者が今川領内で宿を借りた際、士官を申し出ることは許されない。一宿一飯の恩義はだめだという事でしょうか。宿を借りるということですから、その人は放浪者かも知れません。素性の知れない者の雇い入れは許されないという事でしょう。

 第8条は、商人に関する規定です。今川家より営業権が与えられている者は引き続き商売を認める。しかし、通常の営業税の倍であっても、新規の商人は認めない。商業活動も今川家の管理下に置こうという事でしょう。

 第9条では、農民(百姓)は領主(国人)の許可なく田畑の売買は出来ない。但し、年貢費用として期限付きで売買する場合は許されるが、2年から3年の間に清算しなければならない。とにかく、土地が今川家の管理外にあることを許さないということでしょう。

 第10条から第12条までは、相続に関する規定です。第10条では、国人の家の相続は嫡子相続とする。第11条では、不義不忠不孝の者は嫡子であっても相続権はない。第12条では、相続権のない庶子への相続は五分の一ないし十分の一とせよ。これらの規定には、家臣団をそれぞれ一族集団として把握しようとする今川家の意思が窺えます。

 第13条では、かな目録2条で“田畑・山林原野の境界線争いで敗訴側の所領の三分の一を没収する”との規定を、当該土地の倍の所領の没収に緩和する。

 第14条では、かな目録4条に“訴訟中の権利停止の土地を侵略することは違法である”とあるが、この規定を悪用して、審理を遅らせようとする者がいる。今後、違反者にはその年の年貢を浅間神社に寄付させる。その上で、翌年再審理を行う。不当に奪取した土地を訴訟中だとの理由で居座る者がいたということでしょうか。

 第20条では、この追加21条の制定理由を述べています。このような趣旨であれば、本文冒頭にもってくればいいのではないかと思うのですが、ここにあるということは、思いつくままに義元が書き付けたからではないでしょうか。これはこれとして、この条文ではこう主張します。そもそも守護は幕府により任命されたものである。それ故に、守護がトラブルに介入できない土地、つまり、守護不入の特権地というものがある。しかし、今現在、この駿河・遠江の統治者はこの今川家である。領内の統治法規はわが今川家が決定する。従って、幕府の定めた守護不入の特権地は廃止する。これは、明らかに、幕府からの独立宣言です。

 
その他、訴訟物権の差し押さえは奉行の許可を得る(15条)。盗品を守護不入地に持ち込んでも、持ち主に返却せねばならない(16条)。他国からの手紙への返信は今川家の承諾を要する(17条)。寺の相続は今川家の承諾を要する(18条)。訴訟は大いにせよ。今川家への忠節である(19条)。家臣間のトラブルをあぶり出して、その判定を通して、今川家の支配力を高めようとしたものと考えられます。下人の子供は親の主人とすることが基本だが、父母の主人が異なる場合は、幼少より養育してきた方の親の主人に帰属権がある(21条)。

 以上、かな目録追加を見てきました。一つ疑問が生じました。何故、義元はかな目録の改正をしなかったのでしょうか。かな目録を全面的に改正して、新かな目録として制定すれば、誰から見ても分かりやすいはずです。足利尊氏は御成敗式目に追加するような形で、建武式目を定めました。義元はこれに倣ったのではないでしょうか。


 今回はこれまでとし、次回は、刀狩り令を取り上げます。

憲法を考える(12)~刀狩り令~(2019年11月30日)

 去る10月22日、「即位礼正殿の儀」が執り行われ、天皇陛下が内外に即位を正式に宣言されました。名実ともに、令和の時代が始まりました。平成の時代は多くの災害に見舞われました。新時代は災害のない時代を期待したいところでしたが、15号、19号、21号と列島は台風に襲われました。特に、10月12日に、伊豆半島に上陸した19号は広範囲の被害となりました。被害は、中部、北陸、関東から東北に及び、河川の氾濫が広範囲に及びましだ。死者、行方不明者は90名を超えています。テレビ映像などを見ていると、住宅地が河川の堤防近くまで迫っています。本来ならば、住宅地としては不適地のはずの場所です。核家族化が進み、危険地であっても住まざるを得ないのでしょう。核家族化が今の時代の災害広域化の一つの要因であるかも知れません。タテの家族統合(イエ制度)の再考を促したい。都会では空き家が問題になっているとも聞きます。若い家族の児童虐待もあとを絶ちません。家族文化が伝えられていない。いな、破壊されている。日本の家族のあるべき姿のモデルとして、天皇家及びその家長である新帝陛下には期待したい。

 本論に入ります。今回は「刀狩り令」を取り上げます。まず、何故、刀狩りが必要だったのか考えてみましょう。鎌倉、室町時代は武家政権と言われていますが、制度上は、律令体制(天皇公家政権)下での武士たちの自治政権でした。また、鎌倉・室町幕府は全国政権ではありませんでした。幕府の支配の及ばない地域は全国に広がっていました。それらは、天皇・公家・寺社の荘園であったり、農民の自治郷村であったり、小領主(地頭)の領地であったりしました。

 武士、農民、商人などの身分もはっきりしていませんでした。乱世(戦国)の時代の社会関係の基本は自力救済と不入権です。言うならば、各自・各集団に武装(自衛)権と自立(独立)権があったということです。農民の家に刀・槍の類があるのは当たり前であって、武装した農民は時には地域領主の徴兵の対象になったり、一揆の主体ともなりました。だから、権利関係の清算にはしばしば武力による解決が図られました。武器が各家、各地域に拡散していました。今だ、治まらないアフガニスタン、或いは、西部劇の時代状況に似ています。つまり、治安が著しく悪い時代であったということです。自衛のための武装は当たり前でした。

 しかし、各領国で有力勢力による統一政権が樹立されていくにつれ、治安も改善されてくると、拡散された武器類が逆に治安悪化の一因になるだろうことは、容易に想像されます。刀狩りは農民から武器を取り上げて、一揆の芽を摘み、耕作に専念させることが目的とされています。しかし、真の目的は軍事を武士のみに限定し、武家階級の支配権を確立することにありました。このことは、必然的に、武士と農民という身分(階級)を創造し、非流動的な社会を作り上げました。かかる身分制は最終的に徳川幕府の士農工商制度に繋がっていきます。

 刀狩りの歴史はこれぐらいにし、実際の、刀狩り令を見てみましょう。1588年(天正16)の豊臣秀吉制定のものを見てみます。

 第一条、百姓が刀や脇差、弓、槍、鉄砲をもつことを固く禁じる。余計な武器をもって年貢を怠ったり、一揆を起こしたりして役人の言うことを聞かない者は罰する。


 第二条取り上げた武器は、今造っている方広寺の釘や鎹(かすがい)にする。そうすれば、百姓はあの世まで救われる。

 第三条
百姓は農具だけをもって耕作に励めば、子孫代々まで無事に暮らせる。百姓を愛するから武器を取り上げるのだ。ありがたく思って耕作に励め。

 秀吉による天下統一は北条氏を亡ぼした1590年(天正18)でした。刀狩り令はその前に出されています。秀吉の頭の中には、この時点で、既に統一後の統治プランがあったのだと思います。武士と農民の住み分け。いわゆる、兵農分離です。農民は耕作に専念し、武士は政治に専念する。第一条の規定です。二条と三条は農事専従による農民側の利益を数え上げて、今回の政策(兵農分離)を正当化しています。人口のほとんどが農民であったあの当時、実際、国土の隅々まで武力による支配を浸透させることは不可能だったと思います。また、刀狩りの実務は村々に任されていたようで、徹底を欠きました。刀は古来神聖視された側面があり、神社の御神体にもなっていました。それ故、帯刀は神聖な行為でもありました。要は、武器類が村々の争いや一揆の手段に使われなければ、政権側としては良かったわけです。

 
前述したとおり、刀狩り(兵農分離)は身分制の確立に繋がっていきます。最終的には、徳川幕府の士農工商制に結実します。次回は、武家諸法度について学びます。

憲法を考える(13)~武家諸法度~(2020年2月24日)

 令和二年がスタートしました。本年は、世界史的に見ての一大転換点になる年かも知れません。米中対立は一応の休戦状態となったようですが、秋の米大統領選後に対立が先送りされたに過ぎません。同様に、米朝関係、米イラン関係も前途多難です。

 また、年明け早々、ビッグニュースが入ってきました。新型コロナウイルス肺炎です。発生地は中国・武漢市で、海鮮卸売り市場の関係者が最初の発症者のようです。中国政府は1月23日に同市を事実上封鎖しました。学級封鎖ならぬ都市封鎖です。潜伏期間は12日ほどで、潜伏期間であっても、感染をすると言います。政府は2月1日に同疾病を「指定感染症」および「検疫感染症」に指定しました。

 1月30日には世界保健機関(WH0)が緊急事態の宣言を出しています。政府は武漢からの邦人帰国用に、チャーター機を派遣しました。国内でも、中国ツアー客の観光バスの運転手と添乗員が発症しています。また、横浜港に向かっていたクルーズ船が香港在住のウイルス感染者が乗船していたとの理由で2月3日以降横浜港に係留を余儀なくされています。乗客、乗員は下船を許されず船内での待機状態が続いています。

 船内感染者も増えており、感染者は、順次、医療施設に搬送されています。政府は、乗員・乗客全員のウイルス検査を実施する一方、14日間の船内待機を決定しました。日本人の感染者はチャーター機及びクルーズ船を含め250人を超えました。2月13日には、初の日本人の死者が出ました。ウイルス検査で陰性だったクルーズ船内の待機者は待期期間を満了し、2月19日から順次下船し、帰宅しました。厚労省は追加観察を実施する方針です。

 政府は対応に苦慮しているようですが、今、政治が試されているのは危機対応能力です。政府自民党内には緊急事態法制の制定を望む声もあがっています。野党は反対してはなりません。挙国一致で取り組んで欲しい課題だからです。

 日本政府の対応も大切ですが、中国政府の対応にも注目したいと思います。そもそも、今回のコロナウイルスは昨年12月に医療現場から懸念が出されていたにも関わらず、当局は告発した医師を行政処分したといいます。その医師は2月7日に亡くなりました。さすがに、世論も硬化し、中国政府に対する批判がネット上にはあふれていると聞きます。疫病は歴史上数々の中国王朝を危機に陥れました。科学強国を自任する中国政府が疫病封じ込めに失敗するとは考えられませんが、もし、失敗するようなことがあれば、大陸は再び混乱に陥るでしょう。

 本論に入ります。今回は武家諸法度を取り上げます。そもそも、同法は関ケ原戦(1600年)後、全国の大名および旗本統制の必要性から制定されたものです。徳川期を通じ4回制改定されましたが、今回取り上げるのは、天和3年(1683年)五代将軍綱吉制定のものです。本法は15条から成り、本文は和漢混交体です。

 第一条では、武家(武士)としてのあり方をこう定めています。学問武芸に励み、礼儀正しくあること。第二条は、参勤交代の原則です。参勤交代は毎年決まった時期に行い、従者の人数は多すぎないこと。石高に応じた参勤交代の規模を守れということでしょう。第三条は、領国(藩)防衛の基本原則です。人馬、武器(軍備)は財力(石高)に応じて整えて置くこと。軍備は多すぎてもいけない。少なすぎてもいけない。改易の対象となります。綱吉の頃は改易もひと段落し、幕府の全国統治も軌道に乗ったものと思われます。第四条も領国防衛の基本原則です。この条項では新規の築城を禁止しています。この条項は、二代秀忠時代以来採用されており、堀、石垣、櫓、城門等の修理についても、幕府への届け出・指示待ちを義務付けています。

 第五条は、徒党を組むことを禁止しています。謀反に繋がるからです。幕府にとっても、各藩においても謀反は政治上の最大の危機要件です。幕藩体制は徳川氏による独裁政権であることを考慮すれば、一藩の謀反は幕府の崩壊に繋がりかねません。また、この条項では、関所を作ることも禁止してすます。全国的な物流は幕府の管理下に置こうということです。第六条では、各領国におけるトラブルの処理に関するルールです。江戸屋敷および領国でのトラブルは幕府に届け出て、その指示を待つこと。第七条では、喧嘩口論を禁止しています。しかし、その争いにやむを得ない理由がある場合は、奉行所に届け出てから、その指示を待つこと。また、争いに加担すれば加担者側の罪のほうが重いとあります。第八条は婚姻に関する原則です。すなわち、国主、城主、及び、一万石以上の領主の婚姻は幕府の許可を得る事。および、公家との縁談は奉行所に届け出ることあります。いわゆる政略結婚の禁止です。

 
第九条は、奢侈の禁止です。贈り物、宴会、家作等万事に倹約すべしとあります。第十条では、位階に応じた衣装を守ること。白綾は公卿以上。白小袖は諸士大夫以上。それ以下は木綿を着用。第十一条では、輿に乗れる身分を規定しています。徳川一門。国主、一万石以上の大名とその子息。および、五十歳以上の者。儒学者。医師。僧侶。

 
第十二条は、養子に関する規定です。基本は同姓の者から選ぶこと。一族から養子はもらえということでしょうか。該当者なき場合はそれ相応の由緒正しい者を申し出ること。付則として、殉死の禁止が謳われています。

 第十三条では政治のあり方について規定しています。知行・政務は清廉に、領国を疲弊させぬこと。道路・駅馬・橋・船舶等を整え、交通を途絶えさせぬこと。付則として、荷船以外の大船の建造を禁止しています。尚、この条項は、幕末・嘉永6年(1853年)に廃止されています。第十四条は寺社領の保護規定です。規定の寺社領は安堵し、新規の寺社建立は禁止する。

 第十五条には、全国どこであっても幕府の法令を遵守することとあります。この項目は二代・秀忠の元和令には規定がなく、当時は未だ全国の統一過程にあったことが窺い知れます。この規定により、武家諸法度は全国一律の法令となったわけですから、一種、憲法的な役割を持ったともいえましょう。

 武士階級は全人口の6%程度で、農民および町人・職人などを支配していました。道徳的にも、また、文化的にも彼らは一般大衆に対して優位であることが必要でした。第一条に、武士としての在り方を掲げているのは当然のことでしょう。

 以下、天下の秩序をどう守っていくか。細かく規定しています。参勤交代。領国(藩)防衛。築城。謀反。私闘(喧嘩)の禁止。婚儀。冠婚葬祭。衣装。乗輿。養子。領国(藩)経営。寺社領。法度というぐらいですから、全体的に「何々してはいけない」「何々せよ」という項目が目につきます。このような政治体制では、幕末期、欧米列強に政治が対応しきれなかったのは当然のことだったと思います。井伊直弼が大老職を置き、超法規の政策を進めたのはある種合理性があったわけです。今回はこれまでとし、次回は、五箇条の御誓文について取り上げます。

憲法を考える(14)~五箇条の御誓文~(2020年8月4日)

 北朝鮮による拉致被害者横田めぐみさんの父親滋さんが亡くなりました。87歳でした。めぐみさんが拉致されたのは1977年11月、以来43年、愛娘との再会はかないませんでした。1997年、家族会が結成され、滋さんは代表に就任しました。2002年、北朝鮮側は拉致を認めましたが、めぐみさんは死亡したと連絡してきました。その上、偽の遺骨まで送って来たのですから、あきれる他ありません。滋さんは、2007年に会長は退きましたが、爾来、家族会のシンボル的存在でした。

 拉致は明らかに北朝鮮の国家犯罪です。彼らからすれば、諜報活動の一環なのかも知れませんが、素人しかも中学一年生の少女を標的にするなど言語道断です。国家は国民の生命と財産を守る義務があります。その意味からすれば、日本国政府は義務をはたしていません。諸悪の根源は日本国憲法にあります。そもそも、北朝鮮に圧力をかけると言いながら、何の圧力なのでしょうか。経済制裁は一向に効いていません。抜け穴はいくらでもあります。それでは、軍事的圧力はどうでしょうか。
“平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。”(前文)“日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。”(9条1項)そもそも、外交手段として、日本は軍事力を使えません。政府は米国の軍事力に頼るばかりです。米国を怒らさなければ、日本にはどんなことをしても、報復されない。中国、北朝鮮、韓国、そして、ロシアは皆そう思っているはずです。軍事圧力をかければ北朝鮮側は必ず折れてくるはずです。国家というものは、国力に応じた軍事力を持たねばなりません。日本はいわば腕力に自信のない金持ちのボンボンのようなもので、中国や北朝鮮側はわんぱく坊主どもです。横田めぐみさん、滋さん父娘は日本国憲法の犠牲者だといっても過言ではありません。

 
拉致は人権問題です。憲法改正に反対の人達はこの事をどう考えているのでしょうか。国民の人権は状況によっては、力を使ってでも守らねばなりません。話し合いが万能であれば、誰も苦労しません。本コラムで何回か取り上げていますが、国会の憲法審査会は相変わらず休業状態です。拉致問題は実は憲法問題だということを認識できれば、事は動くのではないか。そう思えてなりません。

 本論に入ります。今回取り挙げるのは、五箇条の御誓文です。同法は、明治元年、福井藩出身の参与由利公正が起案し、土佐藩出身の参与福岡孝弟が修正、参与木戸孝允が加筆修正して成ったものです。同年3月明治天皇が神前で天神地祇に誓約するという形で発布されました。発布に当たっては、公卿と諸侯544名等の署名が為されています。

 五箇条の御誓文は、近代日本の基礎となったもので、自由民権運動の拠り所でもありました。大日本帝国憲法、日本国憲法にもその精神は受け継がれています。以下、一条ずつ見ていきましょう。

 第一条
広く会議を興し、万機公論に決すべし。

 
万機とは諸々の重要事項、公論は皆なの意見という意味です。会議は勿論「会議」であって、話し合いのことです。聖徳太子の十七条憲法、第一条に通ずる一文です。「和を以て貴しとなし、さからうこと無きを宗(むね)とせよ」同条で、太子は人には色々な考え方がある。時には、徒党を組み、相争うこともある。だからこそ、話し合って事を進めれば、自ずと落としどころがきまってくるものだ。太子の時代も明治の維新時もともに時代の転換点でした。色々の価値観が入り交じり党派間の対立が常態でした。しかし。それでは、事は前に進みません。まず、話をしよう。そして、一致点を見つけようというのです。審議拒否を正義と勘違いしている野党の議員たちには、この一条を今一度噛みしめてもらいたい。

 第二条、上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし。

 上下というのは、上の者も下の者もという意味だと思いますが、要は、国民全員ということです。明治維新が成功した一つの要因は国民国家を作ることに成功したということを挙げることが出来ます。それまでの何々藩の藩士という立場から日本国民という立場への転換が図られたということです。経綸は色々の解釈があるようですが、経済、財政他政策全般ということです。そうすると、この条項は、国民全員が身分やその立場に関係なく、心を一つにして、国家の行く末(政策全般)を論ぜよということになります。

 第三条、官武一途庶民に至るまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦(う)まざらしめんことを要す。

 官は天皇家と公家つまり当時の中央政府、太政官を指しています。武は武家、諸藩のことです。二条でも、国民全員の参加を謳っていますが、本条では、当時の主な政治勢力たる天皇家と公卿(公家)および諸藩の領主一体(一途)となって、そして、一般庶民に至るまで新国家建設の決意を完遂し、人民にとって満足なものとなっていなければならない。

 第四条、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、天地の公道に基づくべし。

 旧来の陋習とは、それまでの封建的な制度や慣習あるいは考え方のことです。それらを打破し、天地の公道、つまり、政治的にも、また、社会的にも全人類的な普遍的な価値観に基づいて事をなさねばならない。発布当時から、この一文は解釈が色々あったようですが、今は、こう解釈しておきます。

 第五条、知識を世界に求め、大いに皇基を振起すべし。

 知識を世界に求めはこのままで解釈のしようはないでしょう。但し、ここに言う世界は当時の欧米列強諸国であって、清国やムガール帝国(インド)ではないことは自明のことと思われます。皇基とは天皇統治の基礎いうような意味合いで、天皇統治の世を益々盛んにしなければならないということです。

 さて、五箇条の御誓文は、昭和21年元旦に出された昭和天皇による年頭詔書いわゆる人間宣言の冒頭に引用されています。後に、昭和天皇は同詔書に五箇条の御誓文を引用した理由について、日本には日本の民主主義があるのであって、決して、欧米からの輸入のものではない。五箇条の御誓文こそがその出発点であって、明治天皇こそその採用者であった旨のことをご発言されています。(昭和52年・1977年)

 次回は、大日本帝国憲法について学びます。

憲法を考える(15)~大日本帝国憲法①~(2021年3月15日)

 昨年2020年はコロナに始まりコロナに終わりました。本年もまたコロナに始まりました。とにかく、コロナの感染拡大が収まりません。昨年8月の安倍氏の突然の首相辞任表明には驚きましたが、それはそれで氏なりのけじめのつけ方だったのだと思います。今、思い返すと確かに辞任前の数か月は覇気がなかったように感じられます。一方、後継の菅政権の迷走が収まりません。就任時、70%近くあった支持率は昨年末ごろには40%近くまで堕ちました。安倍政権を引き継ぐと言いながら、感染症対策と景気対策という正反対の政策を同時執行したのですから、この結果は当然といえば当然と言えます。ゴーツートラベルとゴーツーイートと称して結果人々に三密を勧めたのですから感染拡大するのは小学生でも分かります。恐らく、当時、多くの国民はコロナは収まったと感じたのではないでしょうか。

 政府はあまりにも国民の良心に期待をかけすぎたようです。政府は緊急事態宣言の再発令を決断せざるを得なくなりました。1月8日には東京、神奈川、埼玉、千葉の1都3県が、14日には、栃木、愛知、岐阜、大阪、京都、兵庫、福岡の7府県が追加されました。実施期間は2月7日までとなっています。ポイントは午後8時以降の外出自粛で、飲食店は8時までの営業が要請されました。協力店には協力金が出されるようですが、すずめの涙ほどの金額です。応じられない店も出てきているようです。要は、防疫と経済の両立は無理なのであって、政府はコロナ終息に全力投球せねばなりません。コロナが収まれば、国民からはそれほどの不満は出ないと考えます。

 この後、宣言は栃木を除く10都府県で3月7日まで再延期され、さらに、東京、埼玉、神奈川、千葉の首都圏4都県では3月21日まで再々延期されています。政府は政策を小出しにしているように感じます。今、我々はコロナ軍と戦っているのです。日露戦争最大の山場日本海海戦では、海軍は組織の総力をあげて戦いに挑みました。今、政府に求められているのは、政府の総力を挙げてコロナ対応に当たることです。総大将は菅さんあなたですよ。


 さて、今回は大日本帝国憲法を取り上げますが、本論に入る前に、自由民権運動を取り上げます。何故ならば、五箇条の御誓文の全体的な趣旨は、自由な討議を通して、国論を統一し、よって、天皇を中心とした国家を建設せよと読めるからです。

 1603年、幕府を開いた徳川家康は朱印船制度による海外交易を奨励しました。これにより、日本人の海外進出が進みました。フィリピンから東南アジアにかけて、多くの日本人町が形成されました。一方、新教国のオランダ、イギリスが来航し、いずれも平戸に商館を設けて対日貿易を始めました。旧教国のスペインも交易を許されていましたが、キリスト教の布教を交易に絡ませたために、幕府の警戒を生み、来航を禁止されてしまいました。ポルトガルはどうにか交易を許されていました。

 オランダとイギリスは対日貿易をめぐり苛烈な競争を繰り返しましたが、勝利したのはオランダでした。1637年、キリシタンによる島原の乱が起こりました。乱を平定した幕府はいよいよキリスト教に対する警戒を強め、1639年、ポルトガル船の来航を禁止、続いて、1641年、オランダ人を長崎出島に移転させました。ここに、わが国の鎖国が完成しました。

 こうして、世界への窓口はオランダのみとなってしまったのですが、年1回、オランダは「オランダ風説書」を幕府に提出し、直近の世界情勢を報告することになりました。鎖国は完全に国を閉じたわけではありません。オランダを通して、幕府は世界情勢をある程度は把握できました。

 ヨーロッパ思想はキリシタン禁教により、ほとんど入らなくなりました。しかし、8代将軍吉宗は、1720年、非キリスト教関係の洋書の輸入を解禁し、青木昆陽らにオランダ語を学ばせました。ここに、蘭学が始まりました。

 1774年には、杉田玄白らによって「解体新書」が訳出されました。1788年の大槻玄沢による「蘭学階梯」は蘭学の入門書でした。また、1796年、稲村三伯は蘭日辞書の「ハルマ和解(わげ)」を出版しました。さらに、玄白は江戸に芝蘭堂(しらんどう)を設立し、多くの門弟を養成しました。蘭学は江戸から大阪、京都、そして、長崎方面まで拡がりました。

 一方、仏教が寺請け及び寺檀制度により生気を失ったのに対し、儒学が台頭しました。儒学の中心は朱子学で、理気二元論を主張しました。理とは万物の根源つまり宇宙を、気は人間の智を指します。理は社会秩序の本源であるとともに、倫理道徳の本質である。だから、人はその秩序に従わなければならない。当時、その倫理道徳は儒教だと考えられていたから、儒教が広く学ばれることとなりました。儒教は要は社会秩序はどうあるべきかを教えるものです。親子、兄弟、夫婦、君臣等、社会の上下関係を重視しました。それ故、幕府の官学として採用されました。林羅山がその基礎を築きました。五代将軍綱吉は湯島に昌平坂学門所を設立し、儒学を保護発展させました。

 朱子学の理気二元論はもともと万物の根源を論ずるものでありましたから、科学的な思想を育くみました。農学、本草学、医学等の実学を発展させました。宮崎安貞の「農業全書」、貝原益軒の「大和本草」、関孝和の「発微算法」、その他、新井白石の「西洋紀聞」はヨーロッパ事情を紹介するものでした。

 官学としての朱子学はどうしても形式主義に陥ることを防げませんでした。国学はこのような中国由来の思想を否定し、古代日本へ帰れと主張しました。その代表者は本居宣長で、「古事記伝」を著しました。その系統に、平田篤胤がいて、復古神道を唱えました。その思想は、幕末の尊王攘夷思想に繋がっていきました。


 兵農分離によって、商品経済が発達したことは、信長の楽市楽座政策により、歴史的事実として広く知られていますが、徳川幕藩体制はこの政策を引き継ぐものでした。つまり、商品流通は閉鎖経済圏のそれぞれの各藩国を越えて、日本全国に及びました。農業生産力が向上し、綿や養蚕、菜種、大豆、あるいは、都市近郊の野菜などの商品作物の生産が増えました。農民の中にはこれらの商品を扱う事によって商人に成長する者も現れました。自立した商人たちはやがて株仲間と呼ばれる組合を結成して団結しました。また、これらを原材料にした織物業、醸造業の発達も見られるようになりました。

 江戸期を通じて、実力を蓄えてきた非武士階級の農工商の庶民階級は文化の担い手ともなりました。町民文化の勃興です。松尾芭蕉の俳諧は与謝蕪村や小林一茶に引き継がれていきました。浮世草子と呼ばれた小説も井原西鶴(好色一代男)から始まり、十辺舎一九(東海道中膝栗毛)、式亭三馬(浮世風呂)などに引き継がれていきました。また、狂歌や川柳は人と世の中の機微を歌う一方、巧みに世相を皮肉るものでした。浄瑠璃と歌舞伎の隆盛を支えたのも庶民階級でした。浮世絵も日本独特のものでした。喜多川歌麿、葛飾北斎等がいました。

 農業生産が財政基盤であった幕府財政は天候に多く左右されました。1836年、天保の大飢饉が起こりました。百姓一揆や打ちこわしが全国的に勃発しました。しかし、幕府は有効な手立てが打てませんでした。このような状況の下、翌1837年、大塩平八郎の乱が大阪で起こりました。大塩は陽明学者で知行合一を掲げて決起しましたが、その日のうちに鎮圧されました。この事件は幕府に相当の衝撃を与えたようでした。

 1841年、老中水野忠邦は幕政改革に乗り出しました。その柱は、文武の奨励、倹約そして、風俗の粛正でした。前二項は言いとして、風俗の粛清は問題でした。奢侈品の売買および使用の禁止。芝居小屋、遊里の禁止、小説類の出版禁止。一方、飢饉で流民となった農民の故郷への帰還促進。株仲間を解散させ、物価引き下げを試みましたが、失敗しています。また、上知令なるものを出して、江戸と大阪の天領の整理を試みましたが、各地統治者の代官の反発を買い、失敗に帰しています。文化と経済の統制を実行したわけです。結局、忠邦は1843年失脚しました。

 江戸時代の歴史はまだまだ続きます。今回はここらで打ち切ります。自由民権思想は江戸期の長い学問思想の蓄積の上に成ったものです。もう少し、江戸の歴史を見ていきましょう。

憲法を考える(16)~大日本帝国憲法②~(2021年5月1日)

 新型コロナ感染症の死者が、4月26日、1000人を越えました。政府のコロナ対策の失敗と言わざるを得ません。しかも、3度目の緊急事態宣言下(4月25日~5月11日)のことでした。政府の対策の中心は国民への自粛要請とクラスター(集団感染)潰しに偏重していたのではないでしょうか。これでは、モグラ叩きのようなもので、叩いても叩いても遂に終わることがありません。韓国や台湾は感染抑え込みに成功しています。両国の対策の中心はPCR検査と陽性者の隔離です。何故、わが国はこれが出来ないのでしょうか。今からでも遅くありません。高齢者へのワクチン接種と同時に現役世代のPCR検査を実施したらどうでしょうか。この場合、企業ごとにやるのが良いと思います。

 東京オリンピックはどうでしょうか。コロナ感染症の流行が終息の目途がたっていないにも関わらず、政府も東京都も開催ありきの方向で進んでいるように思われてなりません。今回の緊急事態宣言が開催に向けての一手であることは理解できますが、これによってコロナが終息する保証はありません。国民の大半もオリンピック開催を望んでいません。こんなことで、はたして盛り上がるのでしょうか。速やかに中止を決断すべきです。強硬開催によって、コロナが世界中にさらに拡がったら我が国は世界中から恨まれるでしょう。菅総理は開催権は
IOCにあると発言していますが、当事国として菅総理には最終決断すべき責任があります。総理の決断を望みます。

 
さて、ここからは、江戸期後半の歴史を検証しながら、自由民権運動への繋がりを探っていきたいと思います。

 日本が鎖国体制の下、泰平の安眠を貪っている間に世界は革命的な変革を遂げつつありました。産業革命の進行です。産業革命はまずイギリスに起りました。前駆となったのは毛織物産業とマニュファクチャー(工場制手工業)の発展でした。領主でもある村々の地主たちは村の共同耕地を囲い込んで、農民たちを追い出し、牧草地に変えていきました。17世紀頃のことです。地主たちは遊民化した農民たちを毛織物の生産労働者として雇用しました。ここに、資本家と労働者が誕生しました。

 18世紀に入ると生産機械が発明され、生産はますます増大していきました。1769年にワットにより、蒸気機関が発明されると生産活動はますます盛んとなりました。特に、この頃より木綿工業が発展し、原料と市場を求めて世界各地で植民地獲得に乗り出しました。

 インドを植民地化したイギリスは、次に、清朝統治下の中国に進出しました。そして、1840年(天保11年)、アヘン戦争に勝利しました。

 この天保11年に起きたアヘン戦争は幕府に衝撃を与えました。大国“清”がユーラシア大陸の西の端に位置する小国(少なくとも、清はそう認識していたはずです)イギリスに負けたのですから。世界史的には、アジア文明に対するヨーロッパ文明の優位が確立した大事件でした。

 そもそも、歴史上、いつ頃からが幕末なのでしょうか。幕末問題とは一言で言えば「開国」問題です。この観点から以下検討してみたい。日本に開国を求めて最初に登場したのはロシアでした。1792年、ラクスマンが根室に来航し、通商を求めましたが、幕府はこれを拒否しました。さらに、1804年、レザノフを長崎に来航させて、再度、通商を求めましたが、幕府はこれも拒否しました。一方、ロシアはこの頃ナポレオンの侵略(1812年)を受け日本から一時退かざるを得なくなります。

 
これらロシアの動きは幕府に海防の重要性を認識させました。1798年、幕府は近藤重蔵、最上徳内を蝦夷地に派遣し、国後、択捉両島を探検させました。そして、1799年、東蝦夷地を幕府直轄地とし、1802年、函館に奉行所を置きました。さらに、1807年には、全蝦夷地を幕府直轄地とし、翌1808年、間宮林蔵を派遣し、全蝦夷地を探検させました。間宮は樺太まで至り、間宮海峡を発見しました。

 
さて、日本近海から撤退したロシアに代わり登場したのがイギリスでした。日本近海にたびたび姿を現したイギリス船でしたが、1808年、軍艦フェートン号が長崎港に不法に侵入しました。その後も、たびたび、日本各地の沿岸に近づき、時に、上陸をしました。そこで、幕府は1825年、無二念打ち払い令を発布して、沿岸に近づく外国船を理由のいかんに関わらず砲撃するように命じました。ところが、1840年、アヘン戦争でイギリスが清に勝利し、不平等条約の南京条約を締結させられたのを見た幕府は打ち払い令を撤廃し(1842年)、外国の漂着船に限り救助し薪水、食料を与えることとしました。水野忠邦の統治下でした。こうして、日本は開国せざるを得ない状況となっていきました。

 政治的動きはここらにして、次に、文化思想面の動きについて見てみたい。ヨーロッパ文明の優位性について気が付いた幕府は、1811年、蛮所和解御用を設置し、有能な蘭学者を集めて蘭書の翻訳にあたらせました。蘭学の発達に特に影響を与えたのはシーボルトでした。シーボルトは1823年オランダ商館の医官として来日し、長崎郊外に鳴滝塾を開設し、医学にとどまらず、天文、地理学等科学一般の教育を行いました。ここからは高野長英、高良斎等が出ました。一方、緒方洪庵は1838年大阪に適塾を開き、多くの門弟を育てました。ここからは、橋本左内、大村益次郎、福沢諭吉等が出ました。

 ところで、蘭学は思想面で我が国にどのような影響を与えたのでしょうか。近代ヨーロッパ文明の誕生はルネッサンスに始まるのは承知のことですが、その特徴は、科学性と合理性です。最初は単にその実用性に着目して関わっていったのだと思いますが、学ぶ者は知らないうちにその科学性と合理性を身に着けていったと考えられます。1837年、モリソン号事件が起こりました。アメリカ商船モリソン号は日本人漂流民救助に際して、浦賀に接近して、通商を求めました。しかし、幕府はそれを拒否し撃退しました。これを見た高野長英や渡辺崋山らは幕府を批判しました。幕府は高野らを弾圧しました。この事件は蕃社の獄と呼ばれています。これ以後、蘭学者らによる幕政批判は影を潜め、蘭学は主に実用面で発達し行くことになります。


 次回は、ペリー来航と開国、そして、その影響について学びます。

憲法を考える(17)~大日本帝国憲法③~(2021年7月30日)

 すったもんだの末、東京オリンピックが始まりました。開幕早々、金メダルラッシュで開催反対派の声もかき消されそうです。一時の愛国心の高揚は各国共通の現象ではないでしょうか。無観客の開催も、テレビ中継を見ている限り違和感はないようです。選手たちは勝負の一瞬に全力を注いでいるのです。ここは、国民は諸外国含めて全選手の健闘を称えその努力を労いましょう。全国民がオリンピックの成功を祈りましょう。菅総理は結局オリンピック開催の意義を語らずじまいでした。成功すればそんなことはどうでもいいことになるのでしょうか。コロナが再拡大している模様です。感染者は一万人を越えました。政府は気を抜かず、運営に全力を注いでほしいと思います。

 
さて、国際関係を見ますと、米中対立が激しさを増しています。争点は香港、ウイグル、そして、台湾問題です。バイデン大統領は専制主義対民主主義の対決だといい、習近平主席は専制主義の優位を主張して妥協する気はないようです。ややもすると、日本は経済を優先して、中国に融和的な施策を取ってきました。果たして、それで良いのでしょうか。

 
かって欧米列強諸国はナチスドイツに融和的な施策を取って、第二次大戦を招きました。中国共産党は明らかにナチス中国です。今の中国は中国一国ではやっていけません。周主席はそこに気が付いていません。技術を日本が、市場をアメリカが提供して今の中国があることに気が付かねばなりません。

 アメリカは本気で中国潰しをしようとしています。中国政府は躍起になって国内市場を育成しようしています。しかし、上手くいくのでしょうか。労働者の権利すら守られていない国で自由で公正な市場が出来るはずがありません。必ず失敗します。そして、貧富の差はますます拡大し、国民の不満はいずれ沸点に達するでしょう。

 そうすると、香港、ウイグル、そして、台湾は国民の目を外に向けさせて政策の矛盾を糊塗しようとする方策だと分かります。迷惑なのは中国国民です。軍事費の1割でも民生に振り向けられれば国民福祉はかなり向上すると思います。

 さて、我が日本はどうすればいいのでしょうか。中国抜きの経済をいまこそ真剣に考えるべき時です。大東亜共栄圏は日本軍国主義の象徴のように考えられていますが、新しい共栄圏つまり経済圏の建設が急務です。台湾、ベトナム、フィリピン、タイ、マレーシア、ミャンマー、インドネシア、インド、豪州、それに、アメリカを加えた新経済圏を作るべきです。既に、アジアには、TPP(環太平洋連携協定)、QUAD(日米豪印の連携枠組み)、ASEAN(東南アジア諸国連合)等経済連携協定があります。各協定をそのままに、中国封じ込めに再連携できるのではないかと思います。

 さて、今回も自由民権運動に通ずる江戸期の歴史を学んでいきたいと思います。

 
幕府はペリー来航を事前に知っていました。オランダは徳川幕府成立当初からオランダ風説書として、毎年、世界情勢についての情報を幕府側に報告していました。このことは既に述べました。幕府はさらに詳しい世界情勢知るべく、1842年に、オランダ別段風説書の提出をオランダ側に要請しました。1844年には、オランダ国王名で開国勧告が為されています。ここでは、アヘン戦争(1840年)によって、清国が敗北し、多大の賠償金と領土の割譲が強いられたこと、そして、日本にも同様の脅威が迫っていることが述べられていました。ペリー来航は1853年(嘉永6年)の別段風説書によって、知らされました。

 
ペリー来航は1853年、6月です。幕府にどれほどの時間的余裕があったかは分かりませんが、国策である鎖国政策は基本的には変えられないとの認識があったはずですから、検討する必要もなかったのかも知れません。

 ベリーは軍艦4隻を率いて、浦賀沖に現れました。そして、アメリカ大統領の国書の受け取りと開国を要求してきました。交渉にあたったのは、与力中島三郎助でした。中島には当時の国際法である「万国公法」の知識がありました。日本の国法(鎖国)を盾に開国を拒否しました。しかし、武力を背景としたペリー側の要求には抗しきれず、幕府はやむなく浦賀の久里浜で国書を受け取り、翌年の返書提出を約束し、ペリーを退去させました。

 時の老中は阿部正弘でした。阿部は事態の重要性に鑑み、朝廷に報告するとともに、諸大名にその方策を下問することにしました。時の将軍は13代家定でした。家定は病弱で、政務が不安でした。挙国一致政策は時宜を得ていました。徳川斉昭(水戸藩)、松平慶永(越前藩)、島津斉彬(薩摩藩)など、雄藩の領主がそれら要求に答えました。また、川路聖謨(としあきら)
,岩瀬忠震(ただなり)等の幕臣が事態に対応しました。

 
さて、翌年1854年、ぺリーは軍艦7隻を率いて、再び、来航しました。停泊したのは、江戸湾奥の金沢沖、交渉の場所は横浜村でした。交渉にあたったのは、儒学者の林大学頭でした。

 
まず、下田と函館の2港の開港と領事駐在、及び、薪水、食料、石炭等の供給、そして、漂流民の救助と保護等が定められました。幕府が力を入れたのは、遊歩範囲でした。遊歩範囲とは外国人が開港地から移動できる範囲で、幕府は江戸との距離を最大限とろうとしました。最終的には、下田から七里(28km)、函館から5里(20km)と定められました。また、最恵国待遇の条項があり、アメリカ側に一方的に有利な片務的な内容でした。

 
こうして、1854年3月、日米和親条約が締結されました。この後、イギリス、ロシア、オランダとの間にも同様の条約が結ばれました。日本の正式な国際社会へのデビューでもありました。

 1856年、アメリカ総領事として、ハリスが下田に着任しました。ハリスの目的は、日本側と通商条約を結ぶことでした。まず、玉泉寺にアメリカ領事館を置きました。そして、幕府側と、開港に関する細則を取り決めました。下田条約です。この中には、片務的な領事裁判権の項目があり、日本側には外国人に対する裁判権がありませんでした。

 さらに、ハリスは将軍との謁見を求めました。目的は外交官の江戸駐在と通商条約の締結でした。ハリスは軍事力を背景に、交渉を進めました。幕府側は日本側の法制度を盾に要求を拒み続けましたが、ハリスはアヘン戦争、アロー号事件、あるいは、セポイの乱等を例に引きながら、英仏の武力侵略の体質を批判しつつ、アメリカは非侵略国家であり、武力は絶対に使用しないと主張しました。しかし、日本側はアロー号事件等の本質、或いは、米メキシコ戦争は米側の侵略戦争であったことを正確に把握していました。交渉にあたったのは岩瀬忠震と井上清直でした。結局、交渉は13回に及びました。そして、1857年12月、日米修好通商条約草案が合意されました。

 その主な内容を見てみましょう。①アメリカは江戸に公使、各開港地に領事を置く。②下田、函館に追加して神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)を開港し、江戸、大阪の市場を開放する。開港地でアメリカ人は居留を許され、居留地内では自由に商売ができる。これらは、実質的な自由貿易の規定でした。④両国の貨幣の交換は同種同量で行う。金は金と、銀は銀という具合です。但し、日米で金銀の交換比率が違っていました。日本は1:4.65で、アメリカ側は1:15.3でした。今で言えば、円安だったということです。その為、外国人による金買いが進み、大量の金流出を招きました。⑤関税は両国の協定で決める。この規定は、関税自主権の喪失を意味していました。⑥アメリカ居留地内での領事裁判権を認める。これはアメリカ側の治外法権を認めることでした。⑦アメリカに最恵国待遇を与える。但し、これはアメリカ側にのみ認められており、片務的な協定でした。和親条約を引き継ぐものでした。

 以上、日米修好通商条約草案の内容を見てきました。明らかに、不平等条約でした。特に問題なのは、関税自主権の放棄と居留地内でのアメリカ側の治外法権・領事裁判権を認めたことでした。そして、和親、通商両条約を契機として、尊王攘夷運動が起こってくることです。次回は、このあたりの事情を学びたいと思います。

憲法を考える(18)~大日本帝国憲法④~(2021年10月12日)

 まさか、一年余りで総理が交代するとは夢にも思いませんでした。発端は、8月22日投開票の横浜市長選での与党敗北でした。菅総理の側近小此木八郎氏が横浜市立大教授の山中竹春氏に大差で敗れました。横浜市は菅首相の地元であり、地元での敗北は菅首相の自民党内での求心力に陰りを生じさせるものでした。しかも、山形(1月)、千葉(3月)、静岡(6月)の県知事選での敗北、また東京都議選(7月)でも満足する議席を得られませんでした。自民党内では、来る衆院選は菅首相では戦えないという声が若手を中心に沸き起こったのは当然の成り行きだったでしょう。

 それでも菅首相は続投の道を探り続けました。しかし、9月3日、コロナ対策に注力するとして、総裁選には出馬しないとの意向を表明しました。総裁選は9月17日告示、9月29日投開票と決まりました。

 この一年の菅政治はどうだったでしょうか。初めこそ、ゴーツートラベルで迷走したしたものの、コロナワクチン接種は6割を越えています。携帯電話料金の値下げやデジタル庁の設置も実現しました。また、温暖化対策では、2050年までの温室効果ガスの排出ゼロを表明しました。地道に政策を遂行してきたことは確かです。しかし、如何せん、原稿の棒読みはいけません。誠意が国民に伝わりません。首相は日本国の顔です。これでは、日本国の代表として国際舞台に上げられません。本当の辞任要因はここらあたりにあるのかもしれません。

 総裁選は4人の候補で戦われました。岸田文雄。河野太郎。高市早苗。野田聖子。以上、4人の各氏でした。女性候補が
2人同時に立候補したのは史上初で日本政治も進化したものです。結果はどの候補も過半数を得られず、岸田氏と河野氏の決選投票となり、岸田氏が勝利しました。岸田氏は8月26日に総裁選立候補を正式表明しており、かかる攻めの姿勢が勝利の女神を引き寄せたのでしょう。

 岸田氏はまず党執行部の人事を決定しました。幹事長に甘利明氏。総裁選を戦った高市早苗氏には政調会長、総務会長には若手の福田達夫氏を起用しました。甘利氏は2016年、「政治と金」問題で経済再生相を辞任しています。その後、不起訴になりましたが、野党は説明責任を求めて追及する構えです。福田氏は菅前首相の辞任要求の若手のリーダーでした。また、麻生太郎氏を副総裁に据えましたが、党内に睨みを利かす役割を期待したのでしょう。

 さて、次に、組閣人事を見てみましょう。まず、茂木外相と岸防衛相を留任させました。これは明らかに、中国対策です。ぶれることなく今後も中国に対しては対応して欲しいと思います。

 注目は官房長官です。官房長官は江戸幕府で言えばお側用人で、各大臣を通しての国民の声を総理に伝える重要な役目を担っています。岸田氏はこの役目に細田派の松野博一氏を充てました。自派ではなくて、最大派閥の細田派からの採用です。総裁を戦った野田聖子氏は少子化・地方創生・女性活躍相です。総裁選での自己の主張を力強く実現してもらいたいと思います。

 経済安全保障相を新設しましたが、これも対中国シフトかと思います。コロナは終息方向に向かう傾向にありますが、岸田氏は担当大臣(厚労、コロナ担当、ワクチン担)を一新しました。この意図が分かりません。また、新内閣は閣僚20人中13人が初入閣です。党内対策としか見えません。確かに、政策遂行には党内融和は大切です。各大臣の努力に期待するしかありません。

 さて、岸田新首相は主要政策として、「新しい資本主義」を提案しました。新自由主義政策の下で、格差が拡大し、貧困層が増加したことの反省に立っての新政策打ち出しです。これは、経済学上は「修正資本主義」であって、政策的には目新しいものではあません。ここらは注意しておきたい。

 10月1日には緊急事態宣言も解除されました。衆院選は11月14日解散、19日公示、31日投開票と決まりました。野党はしっかりしないとまた敗れます。とにかく、与野党ともども正々堂々と戦って国民の声を国政に反映して欲しいと思います。

 国際情勢にも新しい動きが出てきました。8月15日、アフガニスタンでは旧支配勢力タリバンが首都カブールに侵攻し、大統領府を占拠、ガニ大統領は国外に脱出し、アフガニスタン政府は崩壊しました。タリバン軍は各州の州都を制圧し、首都カブールに迫りました。政府軍は米軍に訓練された精鋭のはずでした。しかし、中央政府は汚職にまみれ、兵士の給料も遅配が多かったと聞きます。日本政府は警察官の給料を負担していました。そもそも、兵士が政府を信用していなかったのですから、そんな政府の為に死ねるかというのが一般兵士の気持ちだったのではないでしょうか。

 タリバン政権は一度国際社会の信用を失っています。イスラム法を厳格に解釈し、女性の権利を奪いました。今回は女性の権利は守ると言っていますが、信用できません。末端の兵まで統制が効いていないからです。国際社会の承認を得るのは容易ではないでしょう。「捨てる神あれば拾う神あり」で中露がタリバンに近づいています。ともに、国内にイスラム過激派を抱えているからです。特に、中国はイスラム教徒ウイグル人を虐殺しています。タリバン政府が了解しても末端の兵は許すはずがありません。必ず、ウイグル過激派のテロに悩まされることになるでしょう。習近平政権はよくよく考えるべきです。

 ここからは、前回に引き続き、幕末の歴史を続けます。日米修好通商条約は1858年
7月に調印されました。時の将軍は14代家茂、老中は堀田正睦(まさよし)でした。

 
堀田は孝明天皇の勅許を得ようとしましたが、天皇と攘夷派の公家の反対に遭い挫折しました。打開策として、堀田は大老を置くことを決定し、越前藩主松平慶永に就任を働きかけましたが、就任したのは、彦根藩主井伊直弼でした。直弼は朝廷の勅許を得ることを優先しましたが、朝廷側の抵抗は思ったよりも激しく、勅許を待たずに調印することを選択しました。幕閣の大勢も調印に傾き、直弼は神奈川沖に停泊中の米艦ポーハタン号の艦上で調印に至りました。日本側の全権は岩瀬忠震(ただなり)と井上清直、米側はハリスでした。1860年、批准書の交換の為、遣米使節団がポーハタン号でアメリカに派遣されました。この時、勝海舟率いる幕府軍艦咸臨丸も派遣されました。

 さて、日米修好通商条約は日本社会にどのような影響を与えたのでしょうか。それを見ていきましょう。通商条約の発効によって、横浜、長崎、函館で貿易が始まりました。

 最初、貿易額は輸出が輸入を上回りました。輸出の主なものは生糸や茶、原綿等でした。しかし、その輸出は無制限に行われた為、国内需要を圧迫し、生活必需品までもが価格高騰しました。下級武士や庶民は困窮しました。反幕府運動が起こるのは当然であって、攘夷思想が諸藩の下級武士の間に広がりました。

 反幕府運動は普通「尊王攘夷」と一括りで語られることが多い。ここでは、それぞれのことばの意味を探ってみたい。まずは、尊王ということです。一言でいえば、天皇を、貴ぶということですが、歴史的には、その思想的ルーツは中国にあります。中国の歴代王朝は古代周王朝の治世を理想とし、仁徳による統治を王道と称し、武力による統治すなわち覇道に対比しました。我が国では、鎌倉幕府末期、覇道の幕府に対し、後鳥羽上皇率いる朝廷側は王道を唱え、建武の中興の治世が実現しました。徳川幕府末期の尊王運動はこれとは趣を異とします。時の天皇孝明は幕藩体制の支持者でした。つまり、朝廷側としては、幕府に国の統治を委任しているのであって、天皇自ら統治に乗り出すことなど考えもしませんでした。だから、反幕府の理論的根拠は、もはや幕府は朝廷の委任に耐えられない。だから、退場せよということだったのです。

 次に、攘夷ですが、これも思想的ルーツは中国です。つまり、華夷思想から来ています。世界の中心は中華つまり中国であり、周囲の国々は非文明の夷荻(蛮族)である。だから、中華帝国はこれら蛮族を教化し文明人にしなければならない。中華皇帝は徳を以て蛮族教化に当たり、蛮族は中華皇帝の徳を慕ってその統治に服するべきである。幕府もまた諸藩の攘夷論者も初めはこの論理に従い、夷荻の外国船のうち払いを決行しました。長州藩による四国連合艦隊への攻撃と惨敗(1864年)はその一例です。

 次回は、平田篤胤と吉田松陰の二人の思想家を通して開国が思想的にどのような影響を我が国に与えたかを見ていきたいと思います。

憲法を考える(19)~大日本帝国憲法⑤~(2021年12月25日)

 先の衆院選は立憲民主党の敗北で終わりました。110から96議席に減らしたのですから大敗と言えましょう。確かに、自民党は276から261議席に数を減らしました。しかし、公明32議席を合わせ与党としては絶対安定多数は確保しました。絶対安定多数とは、与党が衆院の全17常任委員長を独占した上で、全委員会で委員数の過半数を確保できる議席数を言います。これで、与党は安定的に国会を運営できることになります。

 一方、日本維新の会は、11から41議席へと大躍進しました。立憲民主党の敗北は共産党との選挙協力が有権者に嫌悪されたとの観測がされています。つまり、立憲民主党を支持していた無党派層が共産党との連携を嫌って、維新の会へ流れたのではないかと言うことです。その通りなのでしょう。主催人も4年前には立憲民主党に入れました。枝野党首の左傾化が気になっていました。同じ思いの有権者が多かったのでしょう。今回は自民を支持しました。

 それにしても、岸田首相は思い切ったことをしたものです。岸田内閣の発足は10月4日、同日招集の臨時国会で第百代の総理大臣に指名されました。組閣を完了後、皇居での親任式を経て、同日、岸田内閣が正式に発足しました。10月8日、所信表明演説を行い、成長と分配を基軸とする新しい資本主義を提案しました。そして、各党の代表質問を経て、同日、14日、衆議院を解散しました。19日公示・31日投開票となりました。国民一般は意表を突かれた感じです。何故なら、岸田内閣は何も仕事をしてないのですから、有権者は判断のしようがありません。支持政党の選挙公約に期待するしかありません。内閣発足後、時を経て、岸田政権に何が失策があれば、立憲民主党の共産党との選挙協力もある程度成功していたかもしれません。当面の課題はやはりコロナ対策でしょう。今のところ、感染状況は落ち着いています。首相自らが状況を把握し、適時、神対応することを期待します。

 さて、ここからは国際関係に目を転じましょう。8月31日の米軍のアフガニスタンからの完全撤退は、アメリカの時代の終わりを告げる象徴的な出来事でした。だからと言って、中国の時代が始まるわけではありません。アメリカの支配は、軍事力は当然として、アメリカ文化或いはアメリカ式生活の普及でした。タリバンは依然イスラム支配の方針を崩していません。中国はタリバンと手を結んだようですが、うまくいくとは思えません。新疆ウイグル自治区でイスラム教徒のウイグル人を弾圧しておきながら、アフガンのイスラム政権と手を結ぶなど、矛盾も甚だしいのではないでしょうか。習近平政権は今後、ウイグル人勢力によるテロに悩まされることになるでしょう。

 中国のウイグル人弾圧に対して、最近、来年2月の冬季北京オリンピックのボイコット問題が浮上してきました。12月6日、アメリカ政府は来年2月開催の北京冬季五輪・パラリンピックに政府関係者を派遣しないことを正式発表しました。選手団は派遣する。中国政府による新疆ウイグル自治区でのウイグル人へのジェノサイド(集団虐殺)や人権弾圧に対する抗議の意味合いがありました。中国政府は直ちに猛反発し、対抗措置を示唆しました。しかし、中国にうまい手立てがあるようにも思えません。イギリス、オーストラリア、カナダが米国に続きました。はたして、日本政府はどう対応するのでしょうか。一方、フランスのマクロン大統領はボイコット反対を表明しました。バリ五輪を控えており、対応は仕方ないことと思われます。周主席がオリンピックを自己の権威向上に利用しようとしていることは明らかです。オリンピックが権威主義に利用されるのは、ヒットラー以来であって、我々は常にこのことを頭の片隅に置いておく必要があると思います。

 さて、前回に引き続き、自由民権運動に繋がる幕末の思想について学びます。今回は、神道思想家平田篤胤(ひらたあつたね)を取り上げます。

 篤胤は1776年、出羽国(秋田県)久保田藩大番組頭・大和田家の生まれ、1795年、二十歳の時、江戸に出ました。苦学して、地理学、天文学等を学びました。1800年25歳の時、松山藩士で山鹿流兵学者の平田藤兵衛の養子になりました。26歳の時、沼津藩士石橋常房の娘織瀬と結婚しました。

 1803年、偶然、国学者本居宣長の名を知ります。既に、宣長は亡く、長男の春庭が後を継いでいました。1805年、その門下生となり、「玉勝間」「古事記伝」等を独学で学んでいきました。

 この頃、地理書「訂正増訳采覧異言」(山村才助)、天文学書「歴象新書」(志筑忠雄)が出版されました。
前者はアジアからヨーロッパにわたる総合地理書であり、後者にはコペルニクスの地動説、あるいは、ニュートンの万有引力説が紹介されていました。篤胤はこれらの著作を通して世界観の転換を迫られました。このような時に出会ったのか、宣長の国学でした。篤胤が衝撃を受けたのは、その文献学的、考証学的研究方法でした。そこには、古代日本の姿が実証的に見事に表されていました。

 1804年には、真菅乃屋(ますげのや)と号し、後、私塾としました。門人は500人余に達しました。1811年、それまで行われた講義が、講義録として出版されました。「古道大意」「出定笑話」「西籍概論」等があります。

 1812年、妻織瀬が亡くなりました。篤胤37歳でした。深い悲しみの中で、妻の死にうながされるように、篤胤の関心は死後の霊魂の逝くへに向かっていきました。その思索は「霊能真柱(たまのみはしら)」として纏められました。篤胤によれば、この世界には顕界(目に見える世界)と幽冥界(目に見えない世界)とがあり、人は生きては天皇が主催する顕界の御民(みたみ)となり、死しては大国主命が主催する幽冥界の神となって、それぞれの主催者に仕える。だから、死後は必ずしも恐怖の対象ではない。幽冥界は我々が生きる顕界と同じ空間の背後にあって山や森、あるいは、墓に顕れている。しかも、現実世界(顕界)は幽冥界から常に見られている存在だという。つまり、幽冥界の住人は常にこちら側(顕界)を見守っている。篤胤はこう考えることによって、妻織瀬の死を自分に納得させたのかも知れません。

 神はこの世(顕界)の人々を常に見守り加護している。この世界は顕世(うつしよ)と幽世(かくりよ)からなり、顕明事(あらわごと)と幽冥事(かくりごとこ)は均衡している。つまり、この世界はこの世とあの世からなり、この世とあの世の働きは均衡している。両者の間には、常に、均衡の力が働くから、死後の霊魂はこの世からあの世に往くことが出来る。

 本来、神道では来世を黄泉(よみ)の国とし、穢れた世界考えました。しかし、篤胤は来世(幽冥界)を見えないけれども今世と繋がる神の世界と考えました。そして、篤胤の関心はこの世界の成り立ちに向かいます。

 篤胤によれば、日本は「よろずの国の本つ御柱(みはしら)」であって、この世界の諸国に勝れたこの世界の中心の国である。掛けまくも畏(かしこ)き天皇命(すめらみこと)、畏れ多き天皇(すめらみこと)は諸国の中の大君(おおきみ)たるは自明のことである。

 我が日本人民は「御国の御民」としてひとり一人がこの日本国を成り立たせている。

 将軍は天皇より政(まつりごと)を委任されている。村落にあっては役人は将軍あるいは藩よりまた政を委任されている。

 以上、篤胤の思想を概観してきたが、はっきり言って、よく分からない。ただ、後世の国家神道に繋がる思想の萌芽がそこには懐胎している気がしてならない。日本は万国の中心であって、天皇はその指導者である。国民はその御民である。為政者は将軍から、幕府官僚、村役人まで天皇より統治を委任されている。大日本帝国憲法に繋がる考え方がすでに篤胤の考え方にはあるような気がしてなりません。

 篤胤に関する言説は舌足らずになった感は否めません。今一度、勉強したいと思います。次回は吉田松陰を取り上げます。

憲法を考える(20)~大日本帝国憲法⑥~(2022年4月1日)

 遂に、超えてはならぬ一線を超えてしまいました。2月24日、ロシア軍はウクライナに軍事侵攻を開始しました。21世紀の今日、このようなあからさまな侵略行為が行われるとは、とても信じられません。ロシアは反ロシア・親EUの現政権を打倒し、親ロシアの傀儡政権の樹立が目的と思われます。この状況に、主催人は1931年(昭和6年)勃発の満州事変を思い出しました。何故なら、翌32年、日本は傀儡国家、満州国を建国したからです。日本は明らかに中国東北部(満州)に軍事侵攻し、中国の主権を侵害、傀儡国家を作りました。つまり、ロシアの行為は、ウクライナ事変であって、その行為は明らかに主権国家に対する主権侵害・領土侵略に当たります。

 
何故、プーチン大統領はこんなことをしでかしたのでしょうか。彼の頭の中はヤクザと同じようです。つまり、ウクライナは俺たちの縄張りだ。西側(米EU)は手を出すなと言うことです。

 
そもそも、ロシアは帝政時代から南進を国是としてきました。不凍港を目指して南に勢力を伸ばしてきました。ウラジオストックを中心とする沿海州はもともと清国の領地でした。ウクライナは温暖でヨーロッパ随一の穀倉地帯です。本心はロシア領としたいはずです。その弟分みたいなウクライナが西側に寝返るなどロシアにとって悪夢の何ものでもないのでしょう。

 ウクライナのゼレンスキー政権は明らかに民主化と
EU加盟を目指しています。だからと言って、ロシアが内政干渉する権利はありません。しかし、プーチン氏はその権利があると考えているのでしょう。これこそ、ロシア帝国、ソ連邦の発想です。彼の頭の中は今だ19・20世紀のままのようです。

 
予兆はありました。ロシアは昨2021年秋ごろから、ウクライナ国境付近に軍を集結させていました。これに対し、米EU側はたびたび懸念を示し、経済制裁をちらつかせてロシア側を牽制してきました。この間、ロシア側はNATO(北大西洋条約機構)の東方拡大の停止を強く求めて、ウクライナ国境付近の軍を引きませんでした。

 
そして、事変は起こりました。2月24日、ロシアはウクライナの軍施設や空港への空爆を開始しました。一方、陸上からは、3方面からウクライナに攻め込みました。東側からは、親ロシア派がその一部を支配するドネツク州、ルガンクス州に侵攻。南側からは既に併合済みのクリミヤ半島から、ウクライナ側に侵攻。一方、北側からは首都キエフの攻略を目指して、軍を進めました。しかし、思うような戦果は得られていません。プーチン大統領はウクライナ側をなめてかかっていました。どうも、一週間程度でウクライナ政府を屈服させられると考えていたようです。しかし、4月1日現在、キエフの攻略は成し遂げられていません。ウクライナ軍は各地で善戦しているようです。米EUは紛争に介入しないものの、ウクライナ側に武器、弾薬等を供与しています。ウクライナは戦いを続けられそうです。予想以上に、ウクライナ国民の反ロシア感情は強く、ロシアは全ウクライナ国民を敵に回しました。ウクライナ政府はキエフに留まり、ゼレンスキー大統領はSNSを駆使して、自国民および世界に向けて情報発信を行っています。国民の支持率は90%を超えているはずです。元コメディアンとは思えない政治巧者のようです。

 
業を煮やしたロシア側は主要都市の空爆を強化しました。また、プーチン大統領は核や化学兵器の使用を示唆しています。このような発言自体がその前兆ではないかと懸念されています。このような状況に対しウクライナでは、避難民が増えています。鉄道、車、或いは、徒歩で。多くのウクライナ国民が周辺国に非難しています。それに対し、ポーランド等の受入国は全面協力することを表明しています。避難民は女性、子供が大半で成人男子は国内に留まり、ロシアと戦う覚悟です。

 ロシアは原発も攻撃対象にしています。3月4日、ロシア軍はヨーロッパ最大級のザポリージャ原発を攻撃しました。さすがに、原子炉は避けているようで、研究施設が被害を受けました。6日には、北東部ハリコフの研究施設をロケット弾攻撃しました。チェルノブイリ原発は既にロシア軍に占拠されており、ロシア軍は他の原子力施設の占拠も狙っています。原子炉の管理は専門性が高く、ロシア軍にそれが出来るはずはありません。ウクライナの原発依存度は半分ほどで、ロシアの狙いはウクライナ経済にダメージを与えることかと思われます。

 人道回廊は今回の紛争で初めて聞きました。これは紛争当事者どうしが一時交戦を停止して、民間人を非難させることを言います。その人道回廊が3月5~6日の予定が中止となりました。要因はロシア軍の攻撃がやまなかったからです。8日からは約5000人が北東部ムスイから避難できたようです。但し、これ以降、ロシア側の空爆が激しく、必ずしも、市民の避難は容易ではなくなっています。

 2月28日より、ロシア、ウクライナ両国による停戦協議が始まりました。ロシア側の要求は、ウクライナの非武装中立、非ナチ化、つまり、ゼレンスキー政権をナチになぞりその退陣、そして、クリミア半島の領有およびルガンスク・ドネツクの各共和国の各州の全領有承認。一方、ウクライナ側の要求は、即時停戦およびウクライナ領内からのロシア軍の即時撤退、そして、
NATOには当面加盟しない。至極、シンプルです。

 
ロシア側の要求はめちゃくちゃです。要するに、ロシアはウクライナを保護国化したいのでしょう。これなども、19世紀的な考え方です。これで思い出しました。韓国併合の前、李氏朝鮮政府は自国の中立化を欧米列強に働きかけましたが、拒否され、結果、日本に併合されてしまいました。自主独立を勧めた日本に倣い開国維新を達成していれば、独仏のように日韓両雄が東アジアに立ち、先の大戦も起こらなかったかも知れません。

 だいぶ紙幅が増えました。ここらで、我々は今般のウクライナ危機から何を学ぶかを考えてみましょう。まず、プーチンの野望を絶対に成功させてはならないということです。ウクライナがロシアの手に落ちるということは、次は、台湾が中国の手に落ちるということです。ロシアは今事変により日欧米からの強力な経済制裁を受けています。いずれ、じわりと、実体経済に影響してくるはずです。ロシアは資源大国ゆえまだ良いですが、中国は貿易立国です。経済制裁は絶対避けたいはずです。

 また、日本は侵略国ロシアの隣国です。北方領土は100%返ってこないでしょう。但し返還要求はやめてはなりません。日本国憲法は紙くずになりました。何が、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して・・・」なのでしょうか。世界のどこにも「公正と信義」などありません。そんな幻影に惑わされてはなりません。今こそ、全国民挙げて、憲法問題を考える時です。そうしないと国家の進路を誤ることにもなりかねません。

 今回は、コロナ等の諸問題をとりあげることが出来ませんでした。ご容赦ください。

憲法を考える(21)~大日本帝国憲法⑦~(2022年7月1日)

 ロシアによるウクライナ侵略から4か月がたちました。戦況は膠着状態にあるようです。これは、ウクライナ軍の士気の高さとロシア軍の戦略のまずさの結果だと言われています。

 
一方、ロシア軍は東部ドンバス地方に軍を集中させ、攻勢に出ています。この地域では、ウクライナ軍は守勢に立たされているようです。状況は予断を許さない状況にあるようです。

 一方、ゼレンスキー大統領は国際社会を見方につけることに成功したようです。ロシア軍の残虐行為に世界は震撼しました。特に、キウイ(キエフ)郊外ブチャでの残虐行為の映像は全世界に配信され、世界の人々の知る所となりました。

 ロシア政府の自国民向けプロパガンダは成功しているようです。ウクライナはネオナチに支配されている。兄弟を助けなければならない。だから、侵攻は当然のことだ。国営テレビしか見ない高齢世代を中心にプーチン支持は固いようです。

 一方、若い世代は
SNSを通して、事実を知った若者の中には、祖国を脱出する者も現れました。我々はロシア人は全て悪い。こう思いがちですが、常識あるロシア人もいるのです。これはロシアにはある程度の表現の自由があるからだと思います。中国や北朝鮮では考えられないことです。つまり、この戦争はプーチンの戦争であって、プーチン自身がネオナチなのです。

 
マルクスは共産党宣言の中で、資本家による労働者の搾取はいよいよ増進し、その窮乏化は極限に達する。その時、労働者たちは立ち上がり、資本家を打倒し、労働者持ちの国家が建設される。

 実際に、労働者持ちの国家・ソビエト連邦が設立されたのですが、長くは続きませんでした。社会主義は理想であって、その社会は長大な非効率システムでした。ソビエト連邦はゴルバチョフ改革によって、崩壊しました。そして、民主主義と多党制に舵を切りました。後継のエリチン氏は努力したと思いますが、社会の混乱は続きました。そして、救世主としてプーチン氏が現れました。

 何故、ロシアでは資本主義化がうまくいかなかったのでしょうか。主催人は、ロシアでは資本家と労働者がうまく育たなかったからではないかと考えています。企業というものは、健全な労使関係があって、初めて、健全な成長が見込めます。恐らく、経営者は役人根性が抜けず、労働者は労働者に成っていない。つまり、労働者の権利に疎かったのだと思います。労働基準法はあるのでしょうか。あっても、その精神が理解されてないのではないでしょうか。まずは、健全な労働者と労働組合を育成することが急務でないでしょうか。

 国内はどうなっているでしょうか。コロナはやや下火になってきたようです。ウクライナ事変を受けて、にわかに、専守防衛と敵基地攻撃いうことが問題となってきました。そもそも、孫氏の兵法にもあるように、攻撃は最大の防御です。しかし、実際に、先制攻撃してしまえば、戦争になってしまいます。今、問題とされているのは、敵基地への攻撃能力のことであって、いざと言う時は先制攻撃も厭わないという国家意思は是か非かということです。日本国というのは厄介な国です。

 
さて、6月15日、通常国会が閉幕しました。政治は、7月10日投開票の参院選に向かって、動き始めました。それにしても、岸田首相は運がいいと思います。内閣支持率もほぼ50%台を維持しています。“新しい資本主義”というのが首相の表カンバンですが、何しろ、具体的な姿が未だはっきりしません。

 
昨年生まれた子供の数は81万1604人で、1899年以降最小となりました。出生率は1.30です。岸田内閣はこども家庭庁を設立して、この状況に当たろうとしています。早急に、具体策を国民の前に提示してもらいたい。

 次に取り上げたいのは、「はやぶさ2」が持ち帰った小惑星「リュウグウ」の砂の件です。報道によりますと、リュウグウの砂からは、20種類以上のアミノ酸が見つかったそうです。アミノ酸はタンパク質の材料で、生命の起源に繋がり、地球の生命も宇宙からもたらされた可能性もあるというのです。

 
この宇宙には、地球以外にも生命の天体があることは確かです。そうすると、極楽浄土もあるかも知れない。地獄世界もあるかもしれない。明らかに、輪廻転生はある。こう思えてなりません。

 ここからは、幕末の思想家吉田松陰について学びます。今回は、松陰の生涯について、学びます。

 松陰は文政13年(1813年)、長州藩萩城下松本村に長州藩士杉百合之助の次男として生まれました。天保5年(1834年)、5歳の時に叔父の山鹿流兵学師範の吉田大助の養子となり、兵学を修めました。天保6年(1835年)その叔父が死亡、吉田家を継ぎました。そして、父の実弟の叔父玉木文之進が開いた松下村塾で文之進の指導を受けました。天保10年(1839年)、10歳の時に、藩校明倫館で家学の兵学を初めて講じました。翌、天保11年(1840年)、11歳の時、藩主毛利慶親の前で、武教全書を講じ、高い称賛を受けました。弘化3年(1846年)15歳の時、山田亦介より長沼流兵学を学びました。亦介よりは、兵学以外に世界情勢をも聞いています。こうして、松陰は山鹿流、長沼流の二大兵学を修めることとなりました。


 1840年、アヘン戦争が勃発しました。清はイギリスに敗北し、香港の割譲と莫大な賠償金を課せられました。松陰、13歳の時でした。山鹿、長沼の二大兵学を学んだ松陰でしたが、清の敗北を見て、旧来の兵学がもはや時代遅れになったことを痛感しました。

 そして、西洋兵学を学ぶことを決心します。嘉永3年(1850年)平戸、長崎に遊学しました。

 初めに、松陰は平戸に寄りました。ここでは、葉山佐内と山鹿万介に学びました。この間、約50冊の関連書籍を読破しました。特に、アヘン戦争関係の記事を集めた「阿片彙聞(アヘンイブン)」は松陰に強い印象を残しました。

 続いて、松陰は長崎に向かいました。長崎では、さらに見聞を高めることに尽力しました。ここでも、25冊ほどの内外の文献を読破しています。この間、オランダ船の見学、あるいは、清国の通訳に師事し当時の清国事情を学んでいます。この九州遊学では、天草、熊本、佐賀に立ち寄っています。この九州遊学で松陰は時代は今正に転換点にあるとの自覚を深めました。

 今回は、ここまでとし、続きは次回とします。

憲法を考える(22)~大日本帝国憲法⑧~(2022年9月24日)

 朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり・・・。その日、阿部晋三元首相は奈良の参院選立候補者の応援に、近鉄大和西大寺駅前の演説台に立ちました。7月7日11時25分頃でした。直後、2発の銃声を聴衆は聞きました。2発目、元首相はその場に倒れました。直ちに、奈良県立医科大学付属病院に搬送されまたが、夕方5時3分死亡が確認されました。67歳でした。

 
元首相暗殺から2ケ月余りが経ちました。政府は9月27日に国葬を行うようですが、主催人にはそれが妥当なのかどうか分かりません。

 さて、ここからは当該事件について主催人なりの分析をしてみます。元首相暗殺犯は元海上自衛隊員で山上徹也といい、1980年生まれ、41歳の無職の男でした。彼の母親は韓国発祥の世界平和統一家庭連合(旧統一教会)信者で、関わりを持ち始めたのは1984年頃でした。山上が4歳頃でした。実家は建設会社を経営しており、父親はいわば娘婿のような状況で母親と結婚したようです。しかし、学者肌の父親は複雑な経営環境下の建設業界には耐えられず、1984年、自殺してしまいます。母親の統一教会との関わりの開始時期と重なります。

 父親亡き後の山上家は経済的に困窮します。それを支えたのは父方の伯父でした。経済的には支えられても、精神的には支えられなかったのでしょう。1991年、母親は統一教会に入信します。入信と同時に、多額の献金が始まりました。合計で6000万円ぐらいだったようです。これには、自殺した夫の保険金などが当てられたようです。

 1996年、山上は奈良県立郡山高校に入学します。ところが、この年の8月、母親は祖父の土地を勝手に売却してしまいます。祖父は相当に激怒したようです。1998年の8月、その祖父か死去。母親は建設会社と山上家の資産を相続します。ところが、1999年3月、母親は建設会社と山上家の資産を一気に売却、それを教団に献金してしまいます。1億円ほどはあったようです。

 この年、山上は高3、当然、進学費用はありません。進学は諦めざるを得ません。2002年、彼は海上自衛隊に入隊します。しかし、まもなく除隊してしまいます。人間関係がうまくいかなかったのが除隊原因だったようです。

 母親はこの年自己破産しています。2005年2月、山上は自殺未遂を起こします。母親への当てつけだったのかも知れません。この事件を契機に、山上は宅地建物取引士資格等の諸資格を取得しています。人生をやり直そうと思ったのでしょう。

 ところが、2015年11月、兄が自殺をします。この兄は小児がんを患い、この為右目の視力を失いました。恐らく、山上以上に、自分の人生に絶望していたに違いありません。

 いよいよ、山上の統一教会への恨みは増すばかりでした。2019年ごろからツイッターでこの思いを吐露するようになります。しかし、世間の反応は鈍いものでした。そして、安倍暗殺へと繋がっていきます。

 ここからは、阿部元首相と統一教会の関係を探っていきます。両者の関係を探っていくと、祖父の岸元首相に行き着きます。

 世界基督教統一神霊協会は1954年に文鮮明によって韓国で創始されました。日本へは1958年に伝わりました。1964年には宗教法人化されています。この年、本部を岸元首相の居宅の隣に移転しました。そして、同時に布教対象を若者に絞り込みました。この当時、主催人は大学生で、確か、学内に原理研究会という名のサークルがあったように記憶しています。岸元首相は隣の統一教会に出入りする若者たちを見ていました。真面目な右派学生と捉えていたようです。

 1968年には統一教会(文鮮明)と日本の右派人脈(笹川良一、児玉誉士夫ら)とで国際勝共連合が発足します。岸元首相はこれに共鳴しました。1973年には、統一教会の本部で講演までしています。この年、文鮮明が来日、岸元首相と会談をしています。さらに、翌1974年には、再来日した文鮮明を帝国ホテルに招き、晩餐会まで催しています。両者はよっぽど、馬が合ったようです。この会には、娘婿の安倍晋太郎、福田赳夫元総理も出席しています。

 
1991年、父の晋太郎が急死します。1993年、阿部元首相は父晋太郎の後を継いで衆議院議員に初当選しました。38歳でした。この時、統一教会との関係も引き継いだようです。そして、2000年官房副長官、2005年官房長官に就任します。この年、統一教会の関連団体UPF(天宙平和連合)の記念大会に祝電を送っています。そして、2006年9月総理大臣に就任します。52歳、戦後最年少の総理大臣の誕生でした。翌年9月体調不良で辞任します。しかし、2009年12月復活します。この第2次安倍内閣は2020年まで続きました。

 総理大臣在任中も統一教会との関係は続いていたようです。総理在任中の国政選挙は全勝でした。現在、自民党による統一教会と議員個人の関係の調査が続いていますが、半数近くの179人が何らかの関係があったと報道されています。多くは、選挙運動の支援だったようです。ビラ配りやポスター張り、電話かけ等です。どうも阿部氏は総理在任中から選挙差配に関わっていたようなのです。その支配力の源泉の一つが統一教会による選挙支援だったようです。つまり、個人的にも統一教会にはお世話になっていたのです。

 昨年(2021年)9月には、元総理は統一教会へビデオメッセージを送り、家族・家庭の価値を重視する同教団への賛辞を述べています。たまたま、この動画を見た山上は安倍暗殺を決意したと言われています。つまり、元総理は自ら死神を呼び寄せたともいえるのです。

 
それでは、統一教会とはどのようなことを主張しているのでしょうか。確認しておきましょう。基本的には、その考え方は、反日・韓国朝鮮民族主義と言えましょう。

 世界にはアダム国家とイブ国家があり、韓国はアダム国家、日本はイブ国家である。イブの姦淫の原罪により、日本はアダム国家韓国に尽くさねばならない。


 何故か。1910年、日本は韓国を植民地化し、民族の独立と自由を剥奪し、民衆を虐殺した。1919年の独立運動以後もこの状況は続いた。特に、1923年の関東大震災では、無垢の韓国人を虐殺した。一方、韓国人の土地を奪い、韓国人を満州の地に追いやった。しかも、日本軍は、国中の村落を探索し、多くの民衆を一つの建物に監禁しては焼き殺した。

 1945年、日本の敗北により韓国民は解放された。日本は韓国侵略の罪を負っているのだ。日本人の信者が身を削ってでも協会に献金するのは、侵略行為の贖罪の為である。統一教会は日本人信者にこのような贖罪意識を植え付け、多額の献金を、信仰の名の下に強制してきました。一方的な、手前勝手な自己中心的な考え方です。決して、認めることなどできません。

 また、1980年代には、統一教会による霊感商法が問題になりました。逮捕者も出しました。統一教会は急速に力を失いました。そして、広く浅くから狭く深くに方針を変えました。金のありそうな信者を見つけては、狭く深く多額の献金を促しました。山上の母親もその一人でした。

 もう一つの方策が、政権党への接近でした。阿部元首相はこの策に利用されたのです。選挙応援という形で彼らは議員に近づきました。自民党の今回の調査でも多くの議員の教会との関係が明らかになりました。しかし、多くの議員が統一教会の関係者だとは知らなかったと言っています。そして、関係を切ると言います。にわかには信じられません。

 岸田総理の動きは鈍いとか言いようがありません。実際に、今現在苦しんでいる人がいるのです。特に、山上容疑者のような二世信者は深刻のようです。幼少青年期に叩き込まれた統一教会的な思考方法から脱却するのは容易ではありません。信仰の自由など言っている時ではありません。政府の責任において、元信者の救済と解散を含め当該教団の規制を進めるべきです。まずは、国会での与野党を超えた徹底的な審議と法的措置を望みます。

 長くなりました。今回はこれまでとし、松陰伝は休みます。

憲法を考える(23)~大日本帝国憲法⑨~(2023年1月16日)

 新しい年、2023年(令和4年)が明けました。今年はどんな一年間となるのでしょうか。昨年度の“今年の漢字1字は「戦」”でした。昨年2月24日に始まったロシアによるウクライナへの侵略戦争は未だ収拾の目途が立っていません。ロシアによる侵略戦争の世界的影響は大きく、資源大国であるロシアへの経済制裁は石油と穀物価格の世界的急騰を招きました。我々庶民も物価高という形でウクライナ戦争の影響を受けています。

 「戦」とは「対立」「争い」です。米中、米露、中印、日中、日韓等々・・・対立(冷戦)状態にある国家関係は多くあります。状況によってはいつ熱戦になってもおかしくありません。

 しかし、どう考えてもプーチン大統領の行動は理解できません。何故なら、合理性を欠いているからです。侵略戦争によって、経済制裁は予想されたであろうし、収束しない限り戦費という負の財政負担は増えます。彼にとっては予想外のことだったと思います。一般、言われているとおり、プーチン氏は一週間程度でウクライナ全土を制圧できると考えていたようです。

 弱みを見せたから、ウクライナは侵略されたのです。その通りだと思います。ここに来て、にわかに「反撃能力」(敵基地攻撃能力)がクローズアップされてきました。一方、専守防衛は国是でした。そうであるのに、今まで、国民も国会も「専守防衛」について、真剣に考えてきたとは思えません。要するに、「専守防衛」とは国民に犠牲者が出て初めて防衛出動(反撃)できるということです。誰もが、その犠牲者は自分ではないと思っていないでしょうか。

 日本国憲法、第66条②項にこうあります。“内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。”とあります。これは、軍人の存在を前提としている規定です。

 9条にこうあります。①項に“日本国民は正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。”そして、②項で“前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。”・・・、

 この度のロシアの侵略行為は明らかに、“武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争を解決する手段”として使っています。

 つまり、憲法が禁止しているのは、国際紛争を解決する手段としての戦争とそのための軍事力の保有です。②項は、日本国は二度と侵略戦争はしないとの国家の決意です。

 誰が見ても、自衛隊は軍隊です。自衛隊員は明らかに軍人です。憲法改正しなくても、自衛隊を国軍、防衛省を国防省に変更は可能だと思います。何故なら、今、見てきたように、日本国憲法は軍の保有を禁止しているわけではないからです。

 自衛隊は軍隊である。「攻撃は最大の防御なり」とは軍事の常識です。「反撃能力」(敵基地攻撃能力)は、純粋に、軍事問題として、論ずればよいのです。国会議員は今以上に軍事を勉強する必要があります。そのうえで、「反撃能力」も論議してもらいたいと思います。

 12月10日、旧統一教会被害者に対する救済法案が成立しました。審議期間二週間というスピード決着でした。ポイントは宗教法人が個人に対し布教をする場合、その相手の自由な意思を抑圧し、その相手が自分の意志で判断が困難な状況に陥らせてはならないよう配慮しなくてはならないということです。配慮ということがくせ者で、配慮を教団側に丸投げした感を否めません。

 初期の統一教会は霊感商法と言って、天罰が当たる、あるいは、地獄に堕ちるなどと相手を恐喝して、壺や経典を押し売りし活動資金を集めていました。そのことが、世間から非難されると、今度は宗教性を前面に打ち出し、信仰のために高額献金を勧めるという路線にかじを切りました。今、生起している問題は、霊感商法が高額献金に変わっただけであって、被害者は信仰と思っていても、外から見たら、だまされているとしか見えないということです。被害者はより多く献金すればするほど信仰が深くなったと信じています。このマインドコントロールを解くのは容易ではありません。

 
ただ、この度の法案は、今後に生起する事案に対しての規制であって、過去の事案は罰則の対象ではないようです。今後、不都合な点が発生すれば、即修正していくことが必要と考えます。これで終わりではありません。国会議員の方々は「反撃能力問題」ともども「統一教会問題」もお忘れ無きよう願います。

憲法を考える(24)~大日本帝国憲法⑩~(2023年5月2日)

 ロシアによるウクライナ侵攻から、1年余がたちました。戦局は依然膠着状態が続いています。それにしても、ウクライナ国民は、よく耐えたものです。ここ数か月は発電所や小学校等含め公共施設に対する主にミサイル攻撃が多くなっているようです。ゼレンスキー大統領は2013年のクリミヤ半島侵略時前の状態までの復帰を目標にしているようです。

 ところが、ここへきて少し状況が変わってきました。3月20日、中国の習近平国家主席はロシアに公式訪問し、プーチン大統領と首脳会談をしました。周主席、3期目の外遊先がロシアだったということは、アメリカとの対立が背景にあるようです。

 中国とロシア、同床異夢もいいところです。中国は本音では、ロシアを軍事的に支援したいはずです。しかし、それはおおびらにはできません。経済的にロシアを下支えするのが精いっぱいです。しかし、欧米の有力な企業が撤退した状況において、ロシア経済の行く末は中国に握られたようです。

 アメリカは中国との経済関係をデカップリング(切り離し)しようとしています。アメリカとの対立は国を危うくします。中国の対抗策としては、中ロの経済を一体化して、市場規模を大きくすることが考えられます。しかし、ロシアがアメリカ市場に取って代われるかといえば、はなはだ疑問です。今は、景気よく、ロシア産の原油や天然ガスを買い続けていますが、いずれ限界が来ます。

 ところで、岸田首相が予期せぬ行動に出ました。3月21日、極秘に、首都キーウ(キエフ)を訪問し、ゼレンスキー大統領と会談しました。訪問中のインド・ニューデリーからチャーター機と列車を乗り継いでのキーウ訪問でした。首相が全面的なウクライナ支持を表明したのは当然のことでした。お主なかなかやるな。首相を見直しました。

 どう考えても、ウクライナがロシアの勢力圏に戻るとは考えられません。いつか、戦いの終わる時が来ます。戦後復興は西側主導で成されるでしょう。その時、日本も応分の貢献をなさねばなりません。首相はもちろんお分かりことと思いますが、国民としても全面的に政府を支えなくてはなりません。

 今回は、機敏に行動しました。政府は、4月15日に政府軍と反政府軍との衝突が起こり、内戦状態に陥ったスーダンに、4月21日から23日にかけて、中東ジブチに救援機3機を派遣しました。そして、25日、邦人とその家族45人を自衛隊機でジブチへ避難させました。その他、8名が仏空軍機で国外退避。5名がフランスと国際赤十字の支援でジブチとエチオピアに避難しました。計58名が退避出来ました。この内、48名が4月29日、羽田へ無事帰国しました。この間、1週間ほど、政府・自衛隊はよくやったと思います。

 4月1日に子ども家庭庁が発足しました。こからは、少子化問題について、考えてみたいと思います。厚生労働省は、2月28日、人口動態統計の速報値を公表しました。これによりますと、2022年度の出生数は79万9728人で、統計を取り始めた1899年以降、初めて80万人を割りました。主催人は昭和19年(1944)生まれで、出生数が極端に減った年でした。それでも、180万人ほどの出生数はあったと記憶しています。しかも、この数値には、日本在住の外国人と在外の日本人が含まれるといいます。つまり、実数はもっと少ないということです。一方、死者数は158万2033人で、死者数から出生数を引いた自然減は16年連続で、減少幅は過去最大の78万2305人でした。

 人口が増加するためには、出生数が死者数を越えなければなりません。日本社会は、婚外子を容易に認めません。婚姻数は51万9823件、離婚数は18万3103件でした。夫婦一組当たりの平均出生数は1.53で2.0を切っています。これだけ見ても、人口減は自明のことです。政府はどう対策しようとしているのでしょうか。

・児童手当の所得制限を撤廃し、支給期間を高校卒業まで延長する。
・出産費用に公的保険を適用する。
・給食費の無償化。
・給付型奨学金の対象拡大(多子世帯や理工農系)
・親の就労の有無にかかわらず、時間単位で保育所などが利用できる。

・男女にかかわらず育児休業手当を産後育休の期間を28日を限度に手取りの10割程度に引き上げる。

 以上です。政府は「こども未来戦略会議」を設置して、これらの項目について議論を進めるとのことです。今後の議論の行方に注目したいと思います。特に、財源問題は重要です。政府は年金・医療・介護・雇用保険の保険料に上乗せする案を考えているようですが、主催人はこう考えます。少子化は国民全員の問題です。国家がなくなれば、我々の生活は成り立ちません。だから、一人ひとりの国民の問題としなくてはならないのです。消費税は国民全員が負担しています。消費税増額を私案としたいと思います。

 ところで、すでに指摘しましたが、婚姻数の減少や少子化は家族観の混乱も一因です。戦前には家族法制があって、戸籍に従って、自己の家族の維持継続が義務付けられていました。このような価値観は檀家制度とも関連していて、現代人の無意識下にも墓を守るという形で存続しています。

 家族は個の集まりなのか。あるいは、家族で一つの個なのか。欧米では、家族(家庭)は個を育む場です。しかし、日本では、家族と個が分離していません。家族の一員の罪は家族の罪に成りがちです。今こそ、家族観の確立が必要です。
 
 今回は、ここまでとします。

憲法を考える(25)~大日本帝国憲法⑪~(2023年8月11日)

 早いもので、本年も半周目を越えました。ウクライナ戦争は一向に収まる気配はありません。ウクライナによる反転攻勢も始まりましたが、戦況は予断を許しません。アメリカはクラスター爆弾をウクライナへ提供したようですが、人道上、賛否両論があるようです。一説には、通常砲弾の供給が間に合わない中、一時しのぎの策という見方もあります。いずれにせよ、戦火の収束は遠のくばかりです。

 
ところで、我々はこの戦争の表層しか見ていないような気がしてなりません。プーチン大統領はしきりにロシア・ウクライナ・ベラルーシは一つの民族だと主張していますが、その言うところの本旨はいったい何なのか。ここは、どうしても、この地域の歴史に立ち入っていかねばならないようです。

 
ウクライナの国旗は広大な麦畑を連想させます。国土はほぼ平野で、方々に、湿地帯があり、夏季は進軍は難しいと言われています。だから、ロシアは進軍開始を2月24日としました。ウクライナ軍の抵抗があれほどなければ、プーチン大統領の思惑どおり、ロシア軍は、一気に、ウクライナ全土を制圧できたはずです。

 本論に入ります。黒海北岸、今のウクライナ地域に最初期に現れたのはキンメリア人でした。彼らは、インド・ヨーロッパ語族で、紀元前1500~700頃、この地で遊牧生活をしていました。彼らは乗馬にたけており、鉄製の武器を使用していたと言われています。

 このキンメリア人を駆逐し、次に、この地の支配者になったのは、スキタイ人でした。彼らは、イラン系の民族で、紀元前750~700年頃、中央アジア方面から進出してきたといわれています。

 
このスキタイ人には建国神話が伝えられています。これによりますと、始祖の名はタルギタオスと言い、三人の男子がありました。後を継いだのは、末弟のコラクサイスでした。この民族には王権の象徴としての四種の神器があり、鋤、軛、戦斧、盃(すき、くびき、せんぷ、さかずき)があり、代々王権の象徴として、引き継がれてきました。

 
スキタイ人とはどんな人々だったのでしょうか。まず、第一に、彼らは、牛や羊、馬を飼育して生活を成り立たせていた遊牧民でした。しかも、定住はせず、家財道具一式とともに、牧草を求めては、移動を繰り返す生活でした。

 第二に、スキタイ人は優れた戦士であったということです。彼らは乗馬術に優れ、特に、馬上から矢を射る術に優れていました。この馬上術は画期であって、他民族を圧倒していました。また、彼らは馬の機動性に着目し、ゲリラ戦により、ついにはペルシャの大軍を破りました。

 第三に、スキタイ人は文化を生み出しました。彼らは古墳を多く残しています。その墳墓は小高い丘状になっており、ただ土を盛った形で、わが国の古墳とよく似ています。そこからは副葬品が多数出土しており、それによって、彼らの生活の一端をうかがい知ることができます。装身具、刀の鞘、矢筒、馬具等には、細かい彫刻がほどこされ、しかも、それらは黄金に輝いています。意匠は、ライオン、豹、猪、鷲等の獰猛な動物が多く、しかも、獲物を仕留めた時の様子が数多く描かれています。これらの荒々しさは、戦士スキタイ人の特徴をよく表していると言われています。

 永遠に繁栄する民族などありえません。スキタイ人はどのようにして
,滅亡に至ったのでしょうか。このあたり事情を見てみましょう。この時代、ギリシャ人のアテネが繁栄していました。ギリシャ人たちは黒海北岸に盛んに植民都市を建設しました。そして、穀物を求めて、スキタイ人と交易しました。スキタイ人たちがギリシャ文化の影響を受けないわけはありません。

 
もともと、遊牧民であったスキタイ人の中には定住して、農業を営む者も現れました。また、商業に従事する者もいました。こうして、彼らはギリシャ文化に染まり、尚武の気風を失っていきました。やがて、イラン系のサルマタイ人の侵入を許すこととなりました。スキタイ人は彼らに追われて、紀元前の三世紀ごろには、クリミア半島まで追い詰められて、ここで、ゴート人の侵入によって滅亡しました。

 サルマタイ人は、紀元三世紀ごろまで栄えましたが、文化的にはスキタイ人との共通点が多く、恐らく、スキタイ人の文化をそのまま取り入れたのでしょう。その後、この地は蒙古系のフン族をはじめとした遊牧民の諸民族に侵入支配され、有力な地域勢力は現れませんでした。

 ようやっと有力な勢力が現れたのは紀元六世紀後半でした。現在、東ヨーロッパに住む人々をスラブ人と呼びますが、彼らの起源ははっきりしません。恐らく、紀元前2000年ごろに起きたと言われています西アジア北部からのインド・ヨーロッパ(印欧)語族の移動・分散によって移動してきた人々でないかと思われます。その後、キンメリア、スキタイ、サルマタイ人らの侵入者の文化・慣習が混入し、スラブ人が形成されたのではないかと考えられます。

 スラブ人は基本農民で牧畜・狩猟・漁労を営み、養蜂もやっていました。八世記になると、アラビア人の商人がハチミツ、毛皮などを求めてこの地に到来し、スラブ人は彼らから布、金属製品等を購入しました。こうして、商品流通が盛んになり、社会も豊かになりました。政治的には、東ローマ帝国の支配下にありました。スラブ人たちの独立志向が明らかになってきました。動きはキエフの地より始まりました。


 こうして、キエフ・ルーシー公国が建国されました。その建国記「原初年代記」によりますと、有力氏族の一つにボリャーネ族がありました。一族には三人の男子と一人の女子がありました。長男のキーが一族を束ねて、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルに赴きキエフの支配権の保証を得ました。六世紀後半ごろのことでした。

 さて、この頃、ウクライナの地の東方周辺には、トルコ系の遊牧民国家ハザール汗国があり、シルクロード交易によって栄えていました。北方からは、ヴァイキングであるスエーデン人が武力を背景に交易を求めて進出してきていました。

 キエフの人々は初めスエーデン人に貢物を納めて臣従していましたが、彼らをいったんは追い払い、自治を始めました。ところが、内紛が生じて収拾がつかなくなり、かっての統治者スエーデン人に使者を送って、再統治を依頼しました。要請に応じて、到来したのが、ルーシの首長リューリクでした。ここに、キエフ・ルーシー公国が建国されました。862年のことでした。

 今回は、ここまでとします。引き続き、原稿が仕上がり次第公開します。

憲法を考える(26)~大日本帝国憲法⑫~(2023年9月30日)

 この9月1日で、関東大震災から100年になりました。大正12(1923)年9月1日、午前11時58分、駿河湾を震源とするマグニチュード7.9の大地震が関東地方を襲いました。死者は10万5000人で、全壊・全焼した家屋は29万棟、経済損失は当時の金額で約55億円、当時の国家予算の約4倍でした。

 
近くは、阪神淡路大震災、東日本大震災と我々は大震災を経験しています。また、南海トラフ地震も心配されています。30年以内の発生確率は70~80%で、死者・行方不明者は23万1000人と推定されています。また、首都直下型地震では、発生確率70%、死者2万3000人と推定されています。

 関東在住の主催人の身としては、起こりうる災害に対し、心構えを含めて準備しておかねばならないのに、一向に何もできていません。今は、常に危険性を感じていることぐらいしかできません。人間とは弱いものです。

 さて、ここからは前回に引き続きウクライナの歴史を学びたいと思います。前回は、キエフ・ルーシー公国の建国のところで終わりました。公国の建国はウクライナの地の人々の要請によるものでした。862年、ルーシーの首長リューリクはスカンジナビアの地から一族を従えて、ノヴゴロドの地に至りました。ノヴゴロドはキエフの北方、ドニエプル河畔にありました。

 リューリクは家臣のアスコルドとディルの兄弟をコンスタンティノープルに派遣して、その治世を固めました。その後、兄弟は政治の中枢を担うようになります。

 879年リューリクが亡くなると幼帝のイホルが即位しました。そして、一族のオレフが後見人となりました。ところが、オレフは882年、アスコルドとディルの兄弟を滅ぼし、自ら、キエフ公となりました。

 オレフは近隣の諸部族を従属させ、ハザール汗国への貢納を止めました。また、907年、40人乗りの船2000隻を率いて、コンスタンチノープルを攻撃し、有利な停戦条約を結びました。これによりルーシーの商人は有利な条件でビザンツ帝国との交易ができるようになりました。また、都をノヴゴロドからキエフに移しました。

 912年、オレフの死によりリューリクの子イホルが公位につきました。ところが、イホルは、945年、ドレヴリャーネ族により暗殺されてしまいます。後を継いだのは、息子のスヴァトスラフでした。彼も、また、幼帝でした。実権を握ったのはイホルの妻オリハでした。彼女はさまざまな策略を弄してドレヴリャーネ族を滅ぼし、夫の仇を打ちました。

 
オリハ時代で、特記すべきは、957年、オリハ自身がコンスタンティノープルに赴き、洗礼を受けたことでした。

 
一方、息子のスヴァトスラフは、戦いを好み、領土拡大に努め征服王とも呼ばれました。そして、ついに、ハザール汗国をも滅ぼしました。しかし、972年、キエフへの帰路、敵襲に会い落命しました。

 スヴァトスラフの死後、三人の兄弟の間で後継者争いが起こりました。争いに勝利したのは、三男のヴォロディーミルでした。勝利はヴァリャーグ人(スエーデン人・ヴァイキング)の援軍によるところが大きかったようです。

 978年、ヴォロディーミルはキエフ公の位に就きました。そして、バルト海、黒海、アゾフ海、ヴォルガ川、カルパチア山脈にまたがる広大な領地を作り上げました。988年、彼は、ビザンツ帝の妹アンナを妻に娶り、洗礼を受けました。そして、キリスト教を国教化しました。こうして、ルーシー国内にキリスト教が拡がることとなります。彼はこの功績によりキエフ聖公と呼ばれています。

 ヴォロディーミルの死後、再び、後継者争いが起こりました。勝利したのは、ノヴゴロド公のヤロスラフでした。1019年のことでした。彼は、ヤロスラフ賢公と呼ばれ、内政に手腕を発揮しました。まず、当時行われていた、慣習法を整理統一して「ルスカ・プラウダ」

 (ルーシーの法)として法典化しましたここでは、復讐殺人を禁止しています。確か、鎌倉幕府の御成敗式目にもあったような気がします。また、ソフィア聖堂を建立し、図書館を設けました。ここでは、聖書の翻訳なども行われました。他にも、キエフの都市整備にも熱心でした。城壁を強化し、城門を整備しました。また、ヨーロッパ諸国の王族との政略結婚を進めました。背景には、キリスト教の国教化があります。

 1054年、ヤロスラフ賢公が亡くなると、再び、後継者争いが起こりました。争いを制したのは、ヤロスラフ賢公の孫のモノマフでした。1113年のことでした。

 ところで、キエフ・ルーシー公国の領地継承の方法は初め兄弟相続でした。その為、支配地が分割傾向となり、各地に領国(公国)ができました。そこで、各領国(公国)では、父子相続が一般化してゆきました。1125年、モノマフ公が亡くなると、各領国(公国)は自領の維持・拡大に熱心となり、独立志向を強めていきました。そして、中央権力としてのキエフ・ルーシー公の力も相対的に落ちていきました。

 各公国(領国)が相争う。日本史的に言えば、戦国の世が出現したわけです。このような情勢下で、モンゴル帝国が侵攻してきました。1237年,ジンギス汗の孫バトゥは東部からこの地に侵入し、1240年、キエフを陥落させました。ここに、キエフ・ルーシー公国は滅亡しました。

 今回はこれまでとし、次回もウクライナ史を続けます。

仏家妙法十句

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