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           仏教の視点で人間と社会を考える ぶっけみょうほうじっく

仏教入門

ヒンドゥー教
インダス文明とアーリア人のインド進出
アーリア人の宗教観
カースト制度
先住民とアーリア人の宗教の融合
ヴェーダ聖典とバラモン教の成立

梵書(ブラーフマナ)とバラモン教の形骸化
森林書(アーラヌヤカ)と哲学思想の深化
ウパニシャッドの意味
ウパニシャッドの成立年代と時代背景
創造神話の世界・・・人間中心の世界観
ブラフマンとアートマン・・・帰一思想(一元論)への道

一切はこれブラフマンである・・・シャーンディリヤの教説
お前はそれである・・・ウッダラーカの教説
このアートマンはただ「非ず、非ず」と説き得るのみ
           ・・・ヤージニャヴァルキヤの教説

インド人の死生観・・・ウパニシャッド以前
インド人の死生観・・・ウパニシャッド時代(1)
インド人の死生観・・・ウパニシャッド時代(2)
ウパニシャッドと仏教・・・思想の加上
釈尊の生い立ちとその時代状況
釈尊ご出家の動機
仏教以前・・・その先行思想
釈尊の出家と修行
ブッダ誕生(1)・・・覚りを開く
ブッダ誕生(2)・・・説法の躊躇と開教の決心
仏教誕生(1)・・・説法へ向けて
仏教誕生(2)・・・中道・四諦・八正道
仏教誕生(3)・・・無常・無我
仏教誕生(4)・・・業
仏教誕生(5)・・・因果(業とその報い)

New!仏教誕生(6)・・・戒

ヒンドゥー教

  仏教はインドの宗教である。インドの地の人々の宗教観・死生観を基盤として生まれた。仏教を論ずる前に、我々はまずインド人の宗教を知らねばならない。

 インドの宗教は現在一般的に「ヒンドゥー教」と呼ばれている。“ヒンドゥー”とはサンスクリット語の「川」を意味する“シンドゥ”のペルシャ語訛り“ヒンドフ”に由来する。ここで言う川はインダス川を指しており、古代ペルシャ人達はこの言葉をインダス川の川向こうの人々と土地の意味で使っていたという。その“ヒンドフ”が逆輸入され、“ヒンドゥー”として、インドの地で定着したものという。その“ヒンドゥー”は日本では「ヒンドゥー教」と翻訳されているが、その原語は「ヒンドゥイズム」である。この言葉の原意は、宗教そのもののみならず、宗教的習俗・慣習、社会制度、生活習慣、人生観をも含む広い概念である。

  我々日本人は、自らの宗教伝統を「神道」と称するが、今ここで言う「ヒンドゥー教」も、この我々の宗教感覚にかなり近いと思われる。その昔、我々の周りには色々の神々がいた。山の神、田の神、水の神、かまどの神等々。また、人生の節々で氏神に詣でては、その報告をした。誕生、成人、結婚、長寿等々。五穀豊穣を願い、家内安全、病気平癒を願うのもかっては氏神さまであった。人々はそれらの行為を意識することなく、生活習慣として、慣習・決まり・制度として、淡々と行ってきた。ヒンドゥー教の神々もまた人々の生活の只中にあって、その日常と生涯を支配している。インド人にとって、ヒンドゥー教とは人生の指標であり、生活規範そのものなのである。

 ヒンドゥー教と神道は実によく似ている。開祖もなければ、所拠の経典もない。人々は意識することなく、生活の一部として、その教義?を実践している。しかも、寺院・神社間の対立もない。これは、いったい、どういう事なのか。

 インドの地の仏教は亡んだ。しかし、ヒンドゥー教の中にその教えは生き残っている。こう指摘するのはインドに宗教学者クシティ・モーハン・セーン先生である。先生によれば、インド宗教の原型は原住民ドラヴィタ人と侵入者アーリア人の宗教が融合したところに成ったという。バラモン教、ウパニシャッド、仏教、ジャイナ教等々。それぞれ教義は異なるけれども、その教義の基底部分ではある種の宗教的概念を共有していた。バラモン教が民衆の宗教習俗を取りいれながらヒンドゥー化されていく中で仏教がイスラム教によって滅ぼされた。その時、仏教が容易にヒンドゥー教に融合されてしまったのはこのようなわけで、ある種当然であった。

 社会的に共有された「宗教的概念」とは何か。それを知る為には、我々はインド亜大陸の歴史に立ち入らねばならない。
 

インダス文明とアーリア人のインド進出

 仏教をも飲み込んでしまったヒンドゥー教の歴史は諸宗教の融合と文化的重層化の過程でもあった。仏教成立もかかる宗教的・文化的力学の方面から再検討してみる必要がある。全く新しい仏教像が我々の前に現れてくるはずである。

 まずは、アーリア人とインドとの出会いからである。インド亜大陸の先住民はインダス文明を担った人々である。インダス文明はおおよそ紀元前三千年頃に発生し、紀元前千八百年頃滅んだらしいことが諸学者の研究により明らかになっている。種々の発掘品の中で、結跏趺坐した坐禅姿の人物が描かれた印象が注目されている。これはシヴァ神の原型だろうと言われている。また、沐浴場も発掘されており、この方は現代のヒンドゥー教寺院のそれと良く似ていると言う。その他宗教形態として、地母神崇拝や性器崇拝そして聖木(ピッパラ)崇拝、聖獣(牝牛)崇拝などが行われていたことが知られている。

 インダス文明がどのようにして滅んだかははっきり分かっていない。ただ上記のような宗教的傾向をもった人々が暮らす土地に紀元前千五百年ごろアーリア人がインド亜大陸の西北方面から侵入し、先住民を征服して、彼らを支配下に置いたであろうことは明らかであろう。この過程で先住民の宗教つまりインダス文明の宗教とアーリア人の宗教とが融合し、最初のインドの宗教が生まれた。これを通常「バラモン教」と言い、おおよそ紀元前千二百年頃だろうと言われている。

アーリア人の宗教観

 アーリア人はどのような宗教観を持った人々だったのであろうか。彼らは遊牧民であった。遊牧は自然環境に左右される。牧草が再生産されなければ、その土地は放棄された。新しい旅が始まる。それは新しい環境の選択であった。それは滅亡の危険性であるとともに、成長の可能性でもあった。そこに必要とされたのは自然環境に対する的確な判断力であった。自然は時として大地から牧草を奪い、人々の生活を根底から奪う加害者である一方、大地の恵みを与えてくれる慈しみの存在でもあった。人々はだからそういう自然現象の有り様を正確に観察する必要性を感じたに違いない。旅人であったアーリアの人々は太陽や月、星々などの天体の運行、あるいは、雨や雲、雷、風等の天候の現象に特に関心があったようだ。

 しかし、目の前の現象を色形(いろかたち)として見ることは出来ても、その背後にあるであろう現象を現象とさせている本体の実相は当時の人々には分からなかった。人々は自然現象の猛威、怒りを怖れるとともに、その恵みを願う意外に手段がなかった。天よ。大地よ。その「意志」を我らに示せ。そして、我らの願いを聞け。こう人々は祈ったに違いない。ここに「神」が誕生した。

 神は人々に加護を与える存在であると同時に罰を下す存在でもあった。だから、人々は「神の意志」を知る必要があった。そして、ある者はそれを知ったと宣言した。彼はどうそれを知ったのであろうか。アーリアの人々の考える「神」とはどんなものだったのであろうか。アーリア人にとっての神は天体や自然現象を神格化したものである。この意味で、彼らの宗教はアニミズムである。アニミズムはあらゆる自然存在に霊魂(精霊)の存在を認める。しかし、アーリア人たちはその方面にはあまり関心が無かったようである。彼らの関心は自然現象のその働き・機能にあったようである。

 太陽神スールヤはこの世界の光輝の源、この世界を光り輝かせる。暁の女神ウシャスはスールヤを引き連れて夜を明けさせる。雷雨神パリジャヌヤはその光と雨によって大地を潤し、草花を芽吹かせ、牛の乳を作る。人間にとって切っても切れぬ関係にあるのが火と水である。火神アグニは家の中心にあって、神と人間との間を媒介する祭祀の中心である。水の女神アーパスは地上の万物を生み出す天空の母である。また、火や水の穢れに対する浄化力も崇拝の対象となった。


 「神」は自然現象のさまざまな働きである。こうアーリアの人々は考えた。だから、神の意向に働きかけることによって、その加護と恩恵を得られると考えた。その働きかけの手段が供儀(生贄)であった。犠牲に処せられる対象は人を筆頭として馬、牝牛、牝羊、山羊等であったと言う。アーリアの神々は職能集団であった。

カースト制度

  アーリア人による先住民の征服過程で、社会構造も変化していった。カースト制度と呼ばれる社会の階層化である。初期は征服者である色白のアーリア人と被征服民であった色黒の先住民との間の肌色(ヴァルナ)の違いによる差別だけであったらしい。しかし、進出してきたアーリア人の社会の中では既に階層化が生じていたらしい。司祭階級である「バラモン」と戦士集団である「クシャトリヤ」そして生産活動に従事する一般民衆である「ヴァイシャ」の三階層である。一方、人口比で見れば被征服民である先住民たちは征服者たるアーリア人に対し圧倒的多数派であった。ここに、先住民を支配する社会制度としての階級制度が必要となったと考えられる。アーリア人たちは先住民をダーサ(悪魔)と呼び、その習俗を忌み嫌った。そして、彼らに奉仕する存在として社会の最下級に位置づけた。シュードラ(隷民)である。

 アーリア人による先住民の征服過程で、社会構造も変化していった。カースト制度と呼ばれる社会の階層化である。初期は征服者である色白のアーリア人と被征服民であった色黒の先住民との間の肌色(ヴァルナ)の違いによる差別だけであったらしい。しかし、進出してきたアーリア人の社会の中では既に階層化が生じていたらしい。司祭階級である「バラモン」と戦士集団である「クシャトリヤ」そして生産活動に従事する一般民衆である「ヴァイシャ」の三階層である。一方、人口比で見れば被征服民である先住民たちは征服者たるアーリア人に対し圧倒的多数派であった。ここに、先住民を支配する社会制度としての階級制度が必要となったと考えられる。アーリア人たちは先住民をダーサ(悪魔)と呼び、その習俗を忌み嫌った。そして、彼らに奉仕する存在として社会の最下級に位置づけた。シュードラ(隷民)である。


 紀元前六世紀頃になると、都市国家も発生し貨幣経済も発達し始める。このような社会と経済の複雑化に伴い、各階級に種々の職業集団が生まれてきたという。これをジャーティー(生まれ)呼び、その仕事は代々世襲された。こうして、階級と職業が社会的に固定される。今我々がカーストと呼ぶものは大概このジャーティーを指している。また、カーストという言葉の起源はポルトガル語のカスター(血統・家柄)に由来し、それをイギリス人が引き継ぎ「カースト」としてインドの地に定着した。だから、カーストとは“ヴァルナ(階級)”と“ジャーティー(職業集団)”を含む概念であると考えればよい。例えば、バラモン・ヴァルナで教師・ジャーティー所属の誰々と言った具合である。

 さて、かかるカースト制度にアーリアの宗教はどう関わっていったのであろうか。前提として、ここで言うアーリアの宗教とは「バラモン教」の経典「ヴェーダ」の学修と実践に関わっていく事として議論を進めたい。この前提の上で、次の三点を指摘しておきたい。第一点は、ヴェーダの学修から女子を排除したということである。つまり、ヴェーダの学修は男子のみの権利であった。第二点は、ヴェーダの学修から先住民(シュードラ)を排除したということである。ヴェーダを学ぶことが出来たのは上位三カーストつまりのアーリア人の男子のみであった。そして、彼らはその学修の結果として、宗教的に生まれ変わったとされて再生族と呼ばれた。一方、ヴェーダの学修が許されなかった最下位カーストのシュードラの人々は母の胎内から一度だけしか生まれないということから一生族と呼ばれた。第三点は、司祭職のバラモン階級による独占である。クシャトリヤ及びヴァイシャの人々はいくらヴェーダを学ぼうとも司祭職には就けなかった。バラモン階級による宗教の独占である。神々の世界はバラモン僧以外には容易に窺い知ることが出来ない世界とされた。バラモン教と呼ばれる所以である。人々はバラモン僧に宗教儀礼の全般を任せる以外になかった。そこがまたバラモン僧達の狙いでもあった。後段でも検討するが、儀礼はますます複雑化・専門化していった。

先住民とアーリア人の宗教の融合

 カースト制度の成立は紀元前八世紀頃であったらしい。ここでは、かかるカースト制度を前提として、先住民の宗教がアーリア人のそれとどのように融合していったかを見てみよう。

 征服者アーリア人たちは先住民をダーサ(悪魔)と呼び、その習俗を忌み嫌ったことは既に述べた。だから、当然彼らの宗教も受け入れがたいものであった。特に、性器崇拝を嫌ったらしい。同じく自然崇拝者であった先住民とアーリア人たち。どうして、その宗教観がこうも違うのであろうか。一つの考え方として、遊牧と定住という生活環境の差がその宗教観にも反映しているのではないかと考えられる。

 インドの先住民たちは地母神崇拝、聖樹崇拝、聖獣崇拝、性器崇拝等を行っていたこが知られている。農耕民であっただろう彼らは自分たちの土地とその生活の安寧を第一に願ったはずである。だから、彼らにとっての土地は絶対的な存在であった。彼らの神々はその土地その土地にいた。自分たちが暮らす村落の山や川、森、林。そこに生息する獣たちや樹木。あるいは、自分たちの生活を支える家畜等々。自分たちの周りに神々はいた。災いを除き、豊かな稔り、そして、自分と家族の安全や無事、家族や所属する共同体の末永い繁栄を人々は神々に託した。労働集約的である農耕は多くの人手を必要とする。それぞれの家族の維持は共同体にとっても死活問題であった。子孫繁栄を願っての性器崇拝が特に盛んであったのは当然であろう。また、耕地の生産力の良し悪しは収穫高の多寡に影響した。豊かな耕地を願って地母神崇拝も盛んに行われたはずである。基本的には、人々は容易に今の生活の地を棄てるわけにはいかなかった。だから、人々の暮らしを左右する神々(自然)は畏怖の対象であった。ただただ、ひれ伏し、その加護と恵みを祈る存在であった。人々の神々の対する姿勢はあくまでも受動的であった。

 翻って、アーリア人の神々に対する姿勢は能動的であった。人々の捧げる貢物(生贄)に対し、神々は人々に何らかの見返りを与えなければならない。アーリア人達はこう考えた。土地にしがみつき、得体の知れぬ偶像を拝んでは、ただただ、神々の加護と恩恵を待つのみの先住民たち。待つのではなく、勝ち取ることに価値を置いたアーリア人にとって、かかる先住民の宗教的姿勢は我慢ならないものであった。だから、このような土俗信仰はアーリア人にとっては決して取り入れられるものではなかった。

 一方、インド亜大陸の乾季の乾燥、雨季の激しい雨、そして、その厳しい暑さ、こういう熱帯モンスーン気候特有の厳しい気候環境は乾燥した草原地帯から南下してきたアーリア人達には驚きをもって迎えられたであろうことは想像に難くない。特に、乾季のもうもうと巻き上がる埃などを見て、衛生面からも水浴の必要性を感じたに違いない。沐浴の習慣はこうして取り入れられたのではないだろうか。やがて、バラモン僧たちがそれに宗教的意味付けをしたのである。また、神に働きかけるためには、より深く神を知る必要があった。こうして、先住民の恐らくは祭官が行っていただろう瞑想の方法を取り入れたのでないかと考えられる。

 インダス文明人とアーリア人の民族間の宗教の融合は「沐浴」と「瞑想」をアーリア人たちが取り入れることから始まったと考えられる。地母神崇拝や性器崇拝等のいわゆる土俗信仰は慎重に排除されたはずである。仏教興起時代の宗教事情についてもこんな所ではなかったかと考えられる。インドの宗教としての仏教を考える場合、まず、このことは頭において置かなければならない。時代が下るにつれ、民衆のレベルでは両者の融合は徐々になされていったであろう。仏教やジャイナ教等の影響も受けながら、両者が社会的にほぼ完全に融合し、ヒンドゥー教としてなったのは、イスラム教徒がインドに侵入し、仏教がこの地で滅亡した西暦紀元十三世紀ごろだと言われている。

ヴェーダ聖典とバラモン教の成立

 バラモン教の聖典群を「ヴェーダ」と言う。ヴェーダ(Veda)とは知識を意味するサンスクリット語であるが、転じて、バラモン教の聖典を意味するようになった。神の声を知る聖職者は聖仙(リシ)と呼ばれ、霊的直感力をもって「神の言葉」を聴いたとされた。先住民の祭官たちが巧みとした瞑想法が彼らの霊的能力を高める手段として大いに研究されたに違いない。リシ達はまた有能な詩人であった。神々の姿は彼らによって一編の詩文、神々への「賛歌」として歌い出された。それらは確かに人であるリシによって歌われたものではあるけれども、神の言葉そのものとされ、神よりリシへ啓示されたものとされた。それらは文字に写されることは不敬とされ、代々、師から弟子へと口伝された。

 ウェーダ聖典はまずこれら神々への賛歌集として編まれた。これを「リグ・ヴェーダ」と言う。リグ(Rg)とは賛歌を意味するから、リグ・ヴェーダとは神々への賛歌集である。賛歌はそれぞれの神ごとに編まれた。神々はその働き(職能)が重視されたことは既に述べた。太陽神スールヤ、神と人の媒介者火神アグニ、悪の懲罰者雷雨神パリジャヌヤ、宇宙秩序(天則)の維持者ヴァルナ神、戦勝の神インドラ等々。賛歌は神の威光とその働きを讃えては、一方、神の加護と恵みを願う。詩文には人々の神に対する畏敬と今の生活への願望が満ち満ちている。現在およそ一千賛歌が伝えられている。西暦紀元前千二百年頃にはほぼ成立しただろうと考えられている。

 神々への賛歌は一定の韻律を持つ詩文であった。サーマ・ヴェーダはこの賛歌の朗詠の仕方の集成として編まれた。サーマとは歌詠の意味である。内容のほとんどはリグ・ヴェーダからの転用であり、その韻律はサーマンと呼ばれている。

 アーリア人たちの祭祀の基本の形は火を祭った祭壇に犠牲(生贄)を供し、神に賛歌を捧げてその加護と恩恵を祈ることであった。遊牧の時代は恐らくその儀式は簡単なものであったであろうが、インド亜大陸に定住し、身分の固定化とバラモン階級による祭祀の独占と専門化が進むにつれて、その祭式は次第に複雑化・形式化していったことは容易に推察される。ヤジュル・ヴェーダはこれら祭式の手順書(マニュアル)として編まれた。ヤジュルとは祭詞と訳され、真言(マントラ)の意味である。その祭式は聖なる言葉(マントラ)を唱える司祭(バラモン)によって主導され、彼らによって執行された祭式は神々の秩序(天則)の地上における再現であるとされた。この意味で、祭式もまた神々より賜った聖なる行為なのである。

 インドにおける宗教は「ダルマ(法)」と同義である。ダルマとは、一言で言えば、神々の秩序(天則)に随って人生を律していくことである。それは、宗教的義務であり、倫理・道徳であり、社会的義務・社会秩序そのものであった。ヴェーダ聖典はその指南書であり、宗教指導者(バラモン僧)はその指南役であった。この意味で、ヴェーダ聖典として本来認められたのは、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、そして、ヤジュル・ヴェーダの三聖典のみであったと言われている。

 しかし、民衆レベルでは病気平癒や家内安全、子孫繁栄、豊作や家畜の増殖、そして、恋の成就から怨敵調伏まで現世利益的な宗教が求められた。時代、民族の差を越えて、現世利益は民衆の宗教的欲求の根っこの部分を形成している。インド・アーリアの人々にとっても同様であった。アタルヴァ・ヴェーダはこのような呪法の集成である。大衆のこのような要求をバラモン正統派も無視することが出来なくなり、やがて、呪術の類いも聖典(ヴェーダ)として認めざるを得なくなった。

 以上、リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、そして、アタルヴァ・ヴェーダの四聖典を本集(サンヒター)と言う。これらは西暦紀元前十世紀頃には成立したと考えられている。バラモン教の成立である。バラモン僧は神々と人々の仲介者であった。神々の声を聴き、それを人々に伝える。人々の声を聞き、それを神々に伝える。儀式(祭式)はその手段であった。それを独占することによって、バラモン僧たちはその特権的地位を確立した。


梵書(ブラーフマナ)とバラモン教の形骸化

 形が決まってしまうと、物事というものは形骸化する。いわゆる、手段の目的化である。バラモン教も同様であった。ヴェーダ本集の内容がほぼ固まってしまうと、バラモン僧達の関心は祭式の整備とその神学的意味づけに移っていった。こうして作られた教学書を梵書(ブラーフマナ)という。最も古い梵書はヤジュル・ヴェーダ所属のものである。その作成の目的は祭式に使用されるマントラの神学的意味づけであった。それらの文書は祭式に直接使用されることはなかったが、執行される祭式の理論的根拠となった。その効用が理解されたのであろう。教学書ブラフーマナ類は他のウェーダ聖典についても作成されることとなった。

 さて、宗教的形骸化はバラモン教をどのように変質させたのであろうか。バラモン教の成立当初、バラモン僧は神と人の仲介者であった。ところが、梵書の時代になると、バラモン僧が人々ばかりでなく、神々とその世界(宇宙)をも支配するようになる。その手段が祭式であった。その理論的根拠が教学書ブラフーマナであった。バラモン僧たちはそれぞれの祭式の方法・順序等を事細かに規定するとともに、その理由付けを念入りに行い、バラモン僧以外は関与出来ないよう工夫した。文書の内容はバラモン僧たちの胸三寸でどうにでもなったのであるから、儀式はバラモン僧たちが人々を宗教的に支配する手段として、どのようにも演出可能であった。いわば、彼らの自作自演であった。儀式の一つ一つの行為が人の社会と神々とその世界(宇宙)を動かすものとされた。祭式を通じてバラモン僧は神々と人の世界の支配者となった。もはや、神々は彼らの宗教権力維持の為の傀儡であった。

 それでは、バラモン僧達は祭式とその儀礼(所作)の正当性をどのように人々に説明し、納得させたのであろうか。そのキーワードとなるのが「同置」という考え方である。同置とは要は「AはBである」ということであるが、「AがBになる」為には、「人の介在」が必要であるとされた。この「介在」を担ったのがバラモン僧であった。例えば、Aをアグニ(火)神、Bを火壇とする。そして、火壇の前で所定の儀礼を行う。この所定の儀礼という人の行為(介在)によって、火壇の火はアグニ神となるのである。同置という考え方はリグ・ヴェーダにその萌芽が見られる。それによると、人は死後、目は太陽に、生気は風に帰ると言う。つまり、死後、人のそれぞれの器官は対応する自然界のそれぞれの要素に帰っていくというのである。そこにはまだ人の人為的介在はない。

 ところが、梵書時代のバラモン僧たちは、その特殊な思考方法によって、人間存在を含めての自然界のあらゆる要素同士を同置(関連付け)しようとした。それによって、彼らの祭式と儀礼が神々とその世界(宇宙)に連なっていることを理論的に証明しようとしたのである。同置の基本的な方法は「親縁関係を特定する」ことである。親縁関係を意味する概念には親族・血縁を意味する「バンドゥ」と縁・原因を意味する「ニダーナ」という考え方がある。先の事例で言えば、火神アグニと火壇の火は「バンドゥ」であり、(祭官の)儀礼(行為)を「ニダーナ」として、火壇の火はアグニである。その思考過程を単純化すればこうなる。なお、「ニダーナ」は仏教では「因縁」の意味で用いられている。

森林書(アーラヌヤカ)と哲学思想の深化

 祭式の中で秘儀に関するものは、村落より離れた森林の中で師から弟子へ直接伝えられた。このような目的で作られた教学書を森林書(アーラヌヤカ)と言う。それらは、ブラフーマナと同様に祭式の理論的説明がその主なる目的であった。しかし、一方では、祭式のより深い意味付けを思索する過程で精神的内面化もより深まっていった。その結果として、哲学的思考の深化もより進んだ。

 リグ・ヴェーダ所属のアイタレーヤ梵書中の“人間と動物の差異”に関する一見解にはより深化した哲学的思考の一例がみられる。それによると、人間とは「叡智」であると言う。彼は認識されたものを語り、認識されたものを見る。明日(未来)を知り、この世とかの世を知る。死すべきことを知り、それ故に、不死を願う。一方、動物は飢餓と喉の渇きのみが認識の元である。彼らは認識したことを語らないし、それらを見ることもない。明日(未来)を知ることもなく、この世とかの世を知ることもない。ここでは不死を願う人間の宗教性の源が「叡智」とされている。宗教学者針貝邦生先生によると、ここで言う「叡智」とはサンスクリット語の“prajna”であり、仏教の「般若」にあたると言う。

 森林書は梵書からウパニシャッドへの過渡的存在である。針貝先生によると、それらの中には、事実上梵書の一部分でありながら、しかも、ウパニシャッドを含むものもあると言う。このような事実は、祭式の密意の説明という当初の目的が、時の経過とともに、森林書本来の目的を超えて、哲学的な内容におのずと変化せざるを得なかったことを示している、と先生は指摘されている。  

 次節からは、ウパニシャッドの宗教(哲学)に入る。ここでは、ヴェーダ集の教説をバラモン僧達がどのようにして哲学的に深化させていったか。そして、個の開放の宗教あるいは哲学として確立していったかを学びたい。仏教はウパニシャッドの宗教・哲学を基盤に起こった。ウパニシャッドなくして仏教はない。ここの所はしっかり頭に入れておきたい。

ウパニシャッドの意味

 ウパニシャッドは仏教の土台である。まず、その意味から始めよう。ウパニシャッドという語は、ウパ(upa)“近くに”、ニ(ni)“下に”、シャッド(sad)“座る”から構成され、通常「近座」と訳される。従来の解釈では、弟子が師の下の近くに座って、師から秘密の教説を聞くこととされてきた。しかし、文献を詳細に調べた所そのような用例はなかったそうである。そこで、近年では、“念想”を意味するウパース(upas)との関連が重視されるようになった。この解釈に立てば、ウパニシャッドとは念想(upa)を目的とした(ni)坐法(sad)によって得られた瞑想内容の集成であるということになる。念想を目的として坐るとは坐禅に他ならない。坐禅の目的は“無―無―”と言って、頭を空っぽにすることではない。坐禅の本来の目的はウパース(念想・瞑想)にある。仏教の本来の姿を学ぶ上からもこの事はしっかりと頭に入れて置きたい。

  ウパニシャッドはヴェーダ(本集)、ブラフーマナ(梵書)、アーラヌヤカ(森林書)に続くバラモン教の第四番目の聖典である。ヴェーダの最終の聖典ということから、最終を意味するアンタ(anta)を付してヴェーダンタと呼ばれている。また、ヴェーダの最終、深遠な教義が説かれていることから「奥義書」とも言う。

  また、ウパニシャッドを我々が学ぶ際、どうしても、思想、哲学としてそれらを捉えがちであると思うが、今、学んだように、その内容は念想(瞑想)によって得られたものであるのだから、あくまでも宗教としてそれらを捉えるべきである。ここの所はしっかりと頭に入れて次に進みたい。

ウパニシャッドの成立年代と時代背景

 インドの宗教学者K.C.セーンはその著書の中で“ブッダはウパニシャッドの思想を新たな方向に発展させた”と指摘されている。インドの地ではこう考えるのが常識なのであろう。ウパニシャッドの成立年代とその時代背景を知ることはセーン先生の掲げられたこの命題を解く一つの鍵となるはずである。

 まず、ウパニシャッド文献の成立年代であるが、その主要な部分は仏教以前にほぼ成立したと考えられており、その成立年代はおおよそ西暦紀元前七世紀から五世紀頃であろうとされている。


  次に、ウパニシャッドの諸文献が作成された時代はどのような社会であったのであろか。アーリアの人々の生活地域としては、その範囲がガンジス川を越えてその東側まで広がったということにまず注目したい。アーリアの人々の生活基盤は牧畜から農耕に移っていった。しかし、彼らは遊牧民の心を失ったわけではなかった。牛、特に牝牛は富の象徴であった。開墾によって、方々に村落が成立した。当初は、それらの村々を統合する形で地域的な政治勢力が方々に成立していったであろう。これらの地域勢力を統合する形で、次に、より大きな政治勢力が成立した。これら地域連合的な政治勢力は、さらに、中央集権的な政治統合へと進み、国家と言っても良い政治勢力が生まれた。マガタ国、コーサラ国等の有力国家の誕生である。

 国家規模の政治勢力の成立は都市と商工業を発達させた。国家を超えての諸国間の活発な経済交流は広範囲の人的交流を実現し、他方、思想・宗教等の文化方面の交流も促した。これら政治の優位と経済の発展は階級間の力関係にも変化をもたらした。クシャトリヤ(王族、戦士)とヴァイシャ(商工業者、農民)の社会的地位が向上し、それに伴って、バラモン階級のそれが相対的に低下した。特に、王族と商工業者の社会的影響力が増した。ウパニシャッドの諸文献には、バラモン僧ばかりでなく、王族、そして、女性までもが登場することが知られている。これらの事実はその証左である。また、生産力の増大は人々の間に経済的余裕を生じさせた。知識・学問を求めて旅する人々も現れた。やがて、多くの遊行者を生むこととなる。宗教(思想・哲学)はバラモン階級の独占物ではなくなった。こうして、多くの思想家、宗教家か生まれた。

創造神話の世界・・・人間中心の世界観

 宗教学者の針貝邦生先生はその著書の中でウパニシャッドの思想に関して、“ウパニシャッドの哲人たちの問題意識の中心は「人間」にあり、その人間に関する問題意識は人間の肉体や心理現象という具体的なものから、彼らの哲学の中心課題である人間存在(宇宙)の本質、そして、死と死後の世界へと多岐にわたるものである”と指摘されている。

 インド・アーリアの宗教人たちの、さまざまな「人間」的存在に関する関心は何もウパニシャッドの哲人たちに始まったものではない。そもそも、歴史的にも彼らの共通の関心事であった。創造神話の世界にそれらの事情を探ってみよう。

(プルシャ(原人)賛歌)

  まず、リグ・ヴェーダ本集に属する創造神話「プルシャ(原人)賛歌」から見てみよう。この物語は、人間と世界の創造が祭式の形を借りて描かれている。祭式の始めに、犠牲獣としてプルシャ(原人)が選ばれる。それを選んだのは、サードゥヤと呼ばれる神族であるという。世界が出来る前に神々がいたとは不思議であるが、この物語での創造の対象となる世界は現実に彼らの住むインド亜大陸の土地と社会であることに、注意したい。話を進める。プルシャは千の頭、千の目、千の足を持つと言う。そして、プルシャは大地を覆いつくし、さらに、空間を超えて聳え立ったと言う。どうも、プルシャは人間の姿をしているらしい。

 プルシャは過去と未来、そして、不死なる存在(神々)の支配者であった。プルシャの四分の一は地上の一切生類、四分の三は不死なる存在(神々)であった。プルシャは上昇した。しかし、その四分の一はこの地上に生じた。こうして、プルシャを供物として祭式が始まった。この時、春は溶けたバター(アージュヤ)、夏は薪(イドマ)、秋
は供物(ハヴィス)であった。神々は祭式を続けた。そして、アージュヤ(溶けたバター)が集められ、これらを、空、森、村に棲む動物とした。

 また、これら神々の祭式から賛歌(リチュ)と歌詠(サーマン)及び韻律、そして、祭詞(ヤジュス)が生まれた。続いて、馬と全ての動物、そして、牝牛と山羊が生まれた。プルシャを解体した時、その口からバラモンが、両腕からクシャトリヤが、両腿(もも)からヴァイシャが、両足からシュードラが生まれた。続いて、意(こころ)から月が、目から太陽が、口からインドラとアグニが、呼気から風が生じた。へそから中空が、頭から天神が、二本の足から大地が、耳から諸方角が生じた。こうして、世界は形作られた。数のうち七が火壇の薪となった。その火壇は三度作られた。プルシャを祭獣として神々の祭儀はこうして続けられた。そして、それらが最初の法(ダルマ)となった。


  さて、この物語から読み取れることは何であろうか。この世界の材料はプルシャという人間の姿かたちをしていたと言う。まず、ここに注目したい。当時のインド・アーリア人にとって、目の前の世界(自然)は自らの身体を通して観察されるものであった。人間への飽くなき関心である。彼らはこの世界を自分たちの身体と同じ構造として理解した。プルシャの「口」から「バラモン」が作られたという。口からは「言葉」が、言葉からは「知識」が、そして、知識からは「バラモン」が連想される。こうして、プルシャの「口」はバラモンとなった。腕は最も単純な武器である。だから、武力の象徴としてプルシャの両腕はクシャトリヤとなったのであろう。

 腿は何故ヴァイシャなのか。両腿を働かせることによって人間は移動する。両腿は経済活動を象徴している。だから、社会の生産(農工商業)を担うものとしてのヴァイシャなのである。地面に直接触れる足は汚い。しかし、身体はその両の足によって支えられている。ここでの身体は彼らの社会を指している。だから、社会全体を真下から支えるものとしてのシュードラ(両足)なのである。


  次に注目したいのは、身体の各器官と自然現象との対応(同置)関係である。プルシャには心(意)まである。やはり、人間の原型だ。何故、月が心(意)なのか。暗黒の世界に無数に輝く星々。暗黒の世界はどこまでも深く限りなく尽きることがない。この中にあって、一点の光り輝く満月。神話の詩人たちに無意識の世界が意識されていたとは思えないが、この闇の中の一点の光に、詩人たちは意識の世界(こころ)を感じ取ったのかも知れない。太陽が目であるというのは、光と視覚を同一視したことからの発想であろう。呼気と風は容易に想像できる。耳から方角が作られたというのも面白い。

  その他、「七」と「三」という数字が火壇に関して聖化されていることにも注目した。これは、この物語がバラモン僧たちの祭式の形を借りて構成されていることと関係している。つまり、実際にこのように祭式が執り行われていたことを、この物語は伝えているのである。ヴェーダ聖典に収められることによって、バラモンの祭式そのものが神々の儀式としてこうして権威付けられたのである。この神話の本当の作成目的も実はこんな所にあったのかも知れない。

(非無非有賛歌)

 ここからは、同じく、リグ・ヴェーダ本集から、「非無非有賛歌」と呼ばれている神話について学びたい。この物語では有無を絶した混沌状態からの世界の創造が語られる。有無を絶した世界は、暗黒で、天空も大気もなかった。深い淵があって、それらは大いなる水が生起させたものであった。その世界に「熱力」が生じた。そして、風などないはずの世界に「呼吸」するものがあった。それが、「かの一なるもの」(tad ekam)であった。かの一なるものは「意欲」(kama)を起こした。その意欲から「意(こころ)の種子」が生じた。それらの「種子」は万物のいかなるものかを思考しつつ、この世界の横と上と下方に放出されて広げられた。下方には世界創造の力が、そして、上方には種子放出の力が働いた。こうして、「かの一なるもの」からの「意の種子」の流出は続いた。そして、この世界は形作られた。

  物語の大筋はこんな所である。この世界の源泉は呼吸と意欲である。呼吸は肉体活動の象徴であり、また、意欲は精神活動の象徴である。やはり、この物語でも世界の原型は身体と心に象徴された「人間」的存在である。宗教学者の針貝先生によれば、「かの一なるもの」は中性的原理であり、下方の創造力は女性原理、上方の放出力は男性原理であると考えられるという。やはり、人間的存在を離れて、世界の創造もないのだ。かの一なるものを生命力一般と考えればさらに理解しやすい。また、針貝先生は「流出」という表現に注目されている。先生によれば、ここで言う「流出」という表現は「創造」を意味し、後世の諸哲学において、何らからの原理からの創造を意味する語群の淵源になったということである。さらに、創造ということに関して、こうも指摘されている。この物語での一者は最初の存在者であり、それが、中性的原理であることは、ウパニシャッド哲学の考え方の先蹤(せんしょう)をなすものとしてきわめて重要であると。ここは、ウパニシャッドをこれから学んでいく上でしっかりと頭に入れておきたい。

ブラフマンとアートマン・・・帰一思想(一元論)への道

 前節の非無非有賛歌において語られた「一なるものからの万物の創造」はやがて「ブラフマンとアートマンの合一(梵我一如)」という帰一思想(一元論)へと結実していく。そのような思想はどのようにして成立していったのか。まず、本節では、ブラフマンとアートマンのそれぞれその概念について学びたい。

(ブラフマン)

  まず、「ブラフマン」という語であるが、この語は既にリグ・ヴェーダ文献中で使われていたことが知られている。しかし、当時、その語がどのような意味で使われていたかは、学会でも諸説あり、これと言った定説は今なおないようである。ただ、それが[霊力]「呪力」を意味した語であったことだけははっきりしているようだ。

 先に、進みたい。リグ・ヴェーダは神々への賛歌である。勿論、そのことは神々の実在を前提としている。ところが、その文献中には、その神々の存在に対して懐疑的な見方を示すいくつかの詩編が見られる。例えば、インドラ賛歌はインドラの存在に疑念を示す人々がいたことを伝えている。また、「黄金胎児賛歌」と呼ばれる創造神話では、黄金の胎児から天と地、そして、神々が誕生すことが語られているが、それらの神々ははたして本当に自分たちの祭るべき対象なのか、自分たちの仕えるべき神々なのかと、作者の詩人は繰り返し疑念を投げかけている。

 彼にとって、「神々」とは禅門で言うところの公案だったのではないのだろうか。修行者は大疑団を起こして問題解決に努力する。詩人も大疑団を起こしたのだ。彼は、神々の存在を事実と断定しつつ、疑いの念も捨てていない。彼は神々の存在と働きを疑って、疑って、疑いぬいたけれども、神々を否定はしなかった。こういった作者の心理プロセスが正直に記録され今に伝えられている。道元禅師は発心から修行・涅槃に至る求道のプロセスの一つ一つが「仏」である(即心是仏)と述べられているが、この創造神話の作者の神への取り組み方は禅師のこのような求道に対する考え方に通ずるものである。


  また、ある賛歌ではこのように伝えている。「火」という現象は祭火であったり、かまどの火であったり、稲妻の光であったり、諸々の現れ方をするが、それらの諸々の現象はただ一つの「太陽」がそれらに入り込んだものであると。これは最も素朴な形での一元論である。同じく、別の賛歌は、「一つの存在」が、詩人たちによって、アグニ、ヤマ等多様な神々の名として語られるのだと、歌う。針貝先生は、ここで言う「一つの存在」とは、非有非無賛歌における「一なるもの」と同じと見てよかろうと指摘されている。神々の背後にあり、神々を作り、神々を動かしている何者かが存在する。これが、ヴェーダの詩人たちの神々の存在に対する疑問への一つの回答であった。

  次に、進む。既に学んだように、アタルヴァ・ヴェーダは呪法の集成である。その扱い対象は勿論呪法である。ところが、その中に、いくつかの哲学的詩篇が存在する。それらは、リグ・ヴェーダの創造神話の考え方を受け継ぎ、深化させたものであった。しかし、呪術と哲学、この二つ、どうも相容れないような気がする。この疑問を解く答えの一つが先住民の宗教の一角を形成していた瞑想法にあったのではないだろうか。インド亜大陸に進入したアーリア人達が先住民達の宗教・慣習等を忌み嫌ったことは既に学んだ。坐法による瞑想は先住民独特の宗教習慣であった。だから、正統のヴェーダの祭官達はそれを決して採用しなかったはずである。

 しかし、呪法を扱うアタルヴァ・ヴェーダの祭官たちは、自己の呪術能力を向上させる手段として先住民の瞑想法を採用したのではないか。彼らは「ブラフマン」に参じた。そして、自己の霊力と呪力の向上に努力したのだ。ところが、深い瞑想の中で、彼らの一部の者たちは、この世界の創造者の姿を見た。ある者はそれを「呼吸」(プラーナ)に見た。ある者はそれを「時間」に見た。また、ある者は世界の中心に支柱(スカンバ)を建てる「生類の主」(プラジュパティー)を見た。そして、その世界の創造の姿を見た。「ブラフマン」を念じて、念じて、念じ切った所に、彼らはプラーナやプラジュパティーを、そして、この世界の建設の姿を見たのだ。ブラフマンがなければ、プラーナやプラジュパティーもない。だから、創造者としてのプラーナやプラジュパティーを生んだのは、実は、ブラフマンなのだ。詩篇の作者たちもそう詠っている。


  時代を進める。梵書時代になると、「ブラフマン」は主に祭式と関連させての思索が深まっていった。そして、祭式の権威もあったのであろうか、ほぼ、宇宙の統一原理としての地位が確立した。

  さて、梵書時代の「ブラフマン」について、一点、注意しておきたい。宗教学者の服部正明先生はこう指摘されている。先生によると、この時代、ブラフマンは真実を意味する「サティヤム(satyam)」と同置されたという。シャタハタ梵書には“サティヤムをブラフマンとして念想(ウパース)すべきである”とあるそうである。“satyam”の“sat”は「在るもの」を意味し、“satya”に派生して「真実の」を意味するようになり、さらに “satyam”となって 「真実そのもの」を意味するになったようである。さらに意味が拡大し、ダルマ(法)、リタ(天則)の意味をも付与された。現実に在る世界(サティヤム)が念想(ウパース)を通して、この世界の本源であるブラフマンに連なっていく。ヴェーダの宗教における「知る」つまり「知識」とは本来念想(ウパース)を通しての“知る”であり“知識”であったはずである。ブラフマンを頭で知ることは出来ない。霊性(ウパース)によって始めて知る事が出来る。このことを頭に入れて次に進みたい。

(アートマン)

  「アートマン」という語もブラフマンと同様、既に、リグ・ヴェーダにその用例が見える。その原意については、ブラフマン同様、諸説あるようであるが、呼吸を意味する語を原意とする説が有力のようである。このような用法からも解るように、それが、当時、「生命力」の意味で使われていたことだけは確かなようだ。つまり、我々の宗教伝統における「霊魂(たま)」に近い概念なのではないかと考えられる。

 さて、アタルヴァ・ヴェーダには、人間そのものを称揚する賛歌がみられる。そこでは、人間の身体の各部分とその働きの優秀性が賛美され、人間の肉体の詳細な構造が明らかにされる。さらに、精神の働きもまた詳細に分析されて、さまざま心の働きの不思議が語られる。その上で、作者はそれらを作ったのはどのような神々であったのかと問い、最終的にはその作者はブラフマンであるという。ここでは、既に、人間が物質(肉体)的存在であるとともに、精神的存在であることが理解されている。また、支柱(スカンバ)の賛歌には、「心臓の中にいる霊的存在としてのアートマン」が語られている。それは、欲望なく、賢明で、不死なるものであると言う。アートマンに対するこのような哲学的な考察は先の賛歌におけるような詳細な人間観察があってのことなのである。ここは注目したい。


  時代を進める。梵書時代になると、全てに祭式が優先する。その祭式を支えたのが、「同置」という考え方であった。宇宙の統一原理としてのブラフマンの地位は既に確立していた。アートマンはそのブラフマンの同置の対象として考えられたのではないか。ヤジュル・ヴェーダに属するシャタパタ梵書では、神格と祭式とアートマンの三者が同時並行して考察されている。そこでは、まず、神の本性が考察される。次に、その本性の対象(神)が祭式と同置される。そして、その同置された祭式が人間の身体のある部分と同置される。宗教学者の針貝邦生先生はその著書(ヴェーダからウパニシャッド)の中で、その同置の事例の一端を紹介されている。それによると、神の本性の一つとして、不死が考察される。

  その不死は太陽であるという。次に、その不死に連なるものとしての祭式が考察される。それは、祭火であるという。なぜならば、火は太陽の本性であるからと言う。最後に、人間(自己)が考察される。そこでは、呼吸が不死であるとされる。何故ならば、それは、火の本性であるからと言う。こうして、呼吸(人間)は火(祭式)を媒介として、不死(太陽神)に連なっているというのである。この論法に従えは、人が不死を獲得する為には、バラモン僧の介在(祭式)が必ず必要になってくるということになる。針貝先生は、アートマンを自己と訳されているが、先生によれば、ここでのその用い方は「身体をもつ自己」という程度の意味合いであり、後の宇宙精神・普遍我とは異なると指摘されている。これでは、宇宙の統一原理(ブラフマン)と人間存在とを同置させることは出来ない。一般のバラモン僧はこれで良かったのであろう。自らの執行する祭式によって、自らの権威と大衆への宗教的支配力が維持されれば良かったのであるからだ。

  このように、梵書時代のアートマンは宇宙の統一原理(ブラフマン)に連なるものではなかった。しかし、それでは満足できないバラモン僧もいたはずである。やがて、統一原理としてのブラフマンに連なるアートマンはこのような真摯な求道者の霊的な思索(ウパース)によって明らかにされていった。こうして、ウパニシャッドへの道が開けることとなる。彼らは、その「アートマン」を、どのような手段を用いて宇宙の統一原理まで高めていったのであろうか。アイタレーヤ・ウパニシャッドにはその過程の一端が創造神話の形を借りて説かれている。ここでも、その手段として「同置」という考え方が採用されている。物語はこうである。

  この世界の初めにただ一人のアートマンがあったという。彼は世界を創造しようと考えた。そして、天、空、地、そして、水という世界の諸要素を創造した後、要素の一つ水から世界の守護者としてのプルシャなる存在を創造する。このプルシャはまだ卵のようなものだったという。そこで、アートマンはそれに感覚や行動能力を創造する。そして、この創造されたプルシャの諸能力から人間の身体能力とそれに対応するこの自然界の諸要素が創造される。プルシャの口からは「言葉」が生ずる。その言葉から「火」が生ずる。同じ要領で、鼻孔からは「呼吸」と「風」が、両目からは「視覚」と「太陽が」、両耳からは「聴覚」と「四つの方位が」、皮膚からは「髪」と「植物」が、心臓からは「思惟」と「月」が、へそからは「吸気」と「死」が、男根からは「精液」と「水」が創造される。

 こうして、人間と自然界が創造される。しかし、その創造された人間と自然界はまだ混沌としたものであった。そこで、それらの諸要素を最初の水に戻し、もう一度、人間と自然界は作り直される。火は言葉となって人間の口に入り、風は呼吸となって鼻孔に入り、太陽は視覚となって両目に入る。月は思惟となって心臓に入る。四つの方位は聴覚となって両耳に入り、植物は髪となって皮膚に入り、死は吸気となってへそに入り、そして、水は精液となって男根に入る。先ほどとは、逆の順序で自然界の諸要素が対応する人間の諸要素に投入されて、世界全体が作り直される。


  こうして、作り直された自然界と人間は宇宙的存在のプルシャに連なるものではあったが、「死」から免れる存在ではなかった。プルシャは吸気を通して死に連なっている。ウパニシャッドの宗教者にとって、人間と自然界はあくまでも「死する」存在であった。プルシャは人間と自然界創造の材料ではあっても、宇宙の根本原理ではなかった。そこで、物語は最後にこの新しく創造された「人間」に宇宙の統一原理「アートマン」が入っていくことで終わる。

 「人間」は宇宙の統一(根本)原理「アートマン」に連なる存在となった。人間は大宇宙を写す小宇宙であった。世界(大宇宙)の姿は人間の姿を写すものであった。人間は「内なるアートマン」を通して、宇宙の根本原理に連なった。このことは「不死」への道が開けたことを意味している。

  アートマンによる創造神話の作者は世界(宇宙)の観察を出発点として、世界と人間の同質性を証明しようとした。しかし、反対に人間の観察を出発点として、世界と人間の同質性を証明しようとする考え方もあった。チャンドーグヤ・ウパニシャッドには「真のアートマンについての教示」と題して、一つの物語が伝えられている。話はこうである。インドラ神と阿修羅ヴィロチャーナは創造主プラジャパティーが「真のアートマンについて語っている」ことを聞いて、プラジャパティーに二人して弟子入りする。三十二年後、プラジャパティーは両人に「目の中に見える人間がアートマンである。水や鏡に映るお前たち、それがアートマンである」と教えた。両人はそれに満足し、帰郷する。しかし、プラジャパティーは「彼らは、アートマンを理解していない。いずれ、彼らは滅亡するであろう」と嘆息する。

 ヴィロチャーナはそのまま帰郷したが、インドラは「目に見える人間は姿形に差別があり、身体が消滅すればその姿形(その映像)も消滅してしまう。このような人間の映像がアートマンとは思えない」と思って、プラジャパティーの元に戻って再度修行する。再び、三十二年後、プラジャパティーはインドラに「夢の中の人間がアートマンである」と教えた。しかし、インドラは「夢の中の人間の身体は現実の身体ではない。そのような幻の身体がアートマンとは思えない」と再び疑念を抱いて、再度、プラジャパティーの元で修行する。再び、三十二年が経った。プラジャパティーはインドラに「熟睡時の人間がアートマンである」教えた。しかし、また、インドラは「熟睡時の人間は自己自身を認識できない」とその教えに再び疑念を抱いて、再度、五年間のプラジャパティーの元での修行を決心する。五年後、プラジャパティーは「真のアートマン」についてこう教える。

 「この可死の肉体がアートマンの拠り所である。熟睡時、そのアートマンは身体を離脱して、最高の光輝に達する。そして、真の自由を獲得する。そのアートマンと人間の身体を結びつけるものは気息である。また、アートマンは不死であって、人間の知覚や思考という諸機能の主体であり、しかも、これらの諸機能はアートマンが自由に活動する為のものである。だから、可死である自己の身体に宿る不死のアートマンを思考や知覚の主体として認識した者はこの一切の世界を獲得できるのだ」と。ここで言う最高の光輝とは太陽のことであって、生命の源を意味している。こうして、自己(人間)は、自己の内なるアートマンを介して世界(宇宙)に連なった。


  ところで、上記の物語において、“アートマンは人間の思考や知覚という諸機能の主体である”とされているが、そもそも、この諸機能とは何なのか、確認しておきたい。同じ、チャンドーグヤ・ウパニシャッドに“身体の諸機能間の争い”と称した物語が伝えられている。これによると、ある時、身体の諸機能、すなわち、気息・語・眼・耳・思考力の五つの身体機能が創造主プラジュパティーの前にて、その優劣を競ったという。語、眼、耳、そして、思考力の順に身体から抜け去ったけれども、身体は生きたままであった。ところが、気息が身体から抜け出ると、たちまち、語も、眼、耳、そして、思考力もその機能を失った。これにより、気息の優位が確立した。この物語は気息を生命原理とする思想の一つであるが、服部先生によれば、この思想はその後発展しなかったようである。気息が見たり、聞いたりはしないからである。先の物語では、気息は身体とアートマンを結びつける一つの機能として説かれている。気息を意味する「プラーナ」は、後代、身体の諸機能の意味で使用されるようになる。

  さて、上記のアイタレーヤ及びチャンドーグヤに説かれるアートマンはまだブラフマンに同置されるアートマンではない。ブラフマンの概念は祭式を通して、その権威により誰人にも認められところとなったが、アートマンは個人の身体に関する概念であり、人によりその捉え方は異なった。次節以降では、三人の大哲師の思想を通して、そのアートマンの考え方、および、ブラフマンとアートマンの合一(梵我一如)についての、それぞれのそのものの考え方を学びたい。

一切はこれブラフマンである・・・シャーンディリヤの教説

  シャーンディリヤ師は梵書時代の人である。その教説はシャタハタ梵書に収められており、その思想はチャンドーグヤ・ウパニシャッドにほとんどそのままの形で今に伝えられている。宗教学者の服部先生によると、シャーンディリヤはその教説において、ブラフマンとアートマンの同一性をその感性により直感的に捉えているという。このあたりを踏まえながら、その思想を以下見てみよう。

  シャーンディリヤ師によると、この世界の一切はこれブラフマンであるという。一切はそこから生まれ、そこでしか存在できない。また、人間は「意向」から成るものであり、この世の意向の状況により、死後も彼は存在するという。だから、人はこの世で意向をしっかり定めなくてはならない。

  アートマンとは何か。それは、思考力からなり、諸機能を身体としている。その姿は光輝であり、真実の決意を持ち、虚空を本質としている。あらゆる行為をなし、あらゆる欲望をなし、あらゆる香りと味わいを持っている。このように、それは、この世のあらゆるものを包みこみ、言葉を持たず,関心を持たないものである。

  アートマンとはこのようなものである。それはこの私の心臓の内部にある。それは、米粒、麦粒、芥子(けし)粒、黍(きび)粒、そして、黍粒の核よりもさらに小さく・・・、大地、天空、そして、これら諸世界よりも大きい。

  あらゆる行為をなし、あらゆる欲望をなし、あらゆる香りと味わいを持ち、この世のあらゆるものを包みこみ、言葉を持たず,関心を持たないもの。それは、すなわち、私の心臓の内部にあるアートマンである。それ、すなわち、ブラフマンである。死した後、これに合一しようと「意向」する人には疑惑はない。

 シャーンディリヤ師は、アートマンは我々の心臓の内部にある。しかも、そのアートマンがブラフマンであると言う。「心臓内部のアートマン」とは、思想的には、かのスカンバ(支柱)神話の「心臓内部の霊的存在としてのアートマン」を引き継ぐものであろうとは思うが、しかし、何故、アートマンが心臓にあり、何故、それがブラフマンであるのかの理由は述べていない。服部先生の指摘の通り、直感による感得としか言いようがない。

お前はそれである・・・ウッダラーカの教説

 ウッダラーカ師は、ガンジス川の中流域に位置し、バラモン文化の中心であったクルパンチャラ地方のバラモンの出身である。マドラ国のパタンチャラに師事し、ヴェーダ祭式について学んだ。謙虚で求道心にあふれる人物であり、その人に優れた学識ありと思えば、誰にでも教えを乞うたと伝えられている。このようなその人柄をも頭に入れつつ、その思想に耳を傾けてみよう。

(唯一存在「有」)

 ウッダラーカ師によれば、この世界の始源は「有」であるという。この「有」は存在を意味する“sat”のことである。この“sat”は、真実を意味する“satyam”の語源であり、その“satyam”はブラフマンと同置されたということは既に学んだ。また、ウッダラーカ師は「非有」を批判した。師にとっての「有」とは意志(意欲)を持つ存在であった。無限定で、混沌とした「非有」に意志はないと考えたのであろう。

  さて、ウッダラーカ師の教説は、チャーンドーギヤ・第六篇の中に、その子シュヴェターケートゥへの教えとして伝えられている。ヴェーダを全て学び終わり、十二年間のヴェーダ学習の修行から帰った息子に対し、ウッダラーカ師はこう問いかける。“お前は自分の知識に驕っているようだ。はたして、お前は、それによってまだ聞かれないことが聞かれるようになり、まだ考えられないことが考えられるようになり、まだ認識されないことが認識されるようになる、その何かを師から聞いたか。”しかし、子はそのような知識を得ていなかった。そして、父に教えを請うた。

  父は子にこう語る。“例えば、土塊(粘土)が加工されて皿や壺となる。その皿や壺を前にして我々はそれらを皿や壺と認識できる。しかし、そのような両者の差異は、言葉による把握つまり名称であるに過ぎない。材料の土塊(粘土)こそが「真実」である。”・・・続いて、銅製品や鉄製品等の品々についても同じような例示と説明がなされる。ここで、ウッダラーカ師が問題にしているのは、現象の背後でその現象を現象そのものとしている本質つまり「真実」は何か、ということである。冒頭の質問で、ウッダラーカ師は息子シュヴェターケートゥへ、お前はヴェーダの言葉を師匠から聞き、その意味を考え、そして、その意味を理解したと、思っている。しかし、そのような学修の知的働きの源は何か、お前は知っているのか。お前はただヴェーダの言葉だけを学んできたのではないかと、こう問いかけているのである。そして、本論に入る。

 “この世界の太初、唯一の存在として「有」のみがあった。その「有」は繁殖の「意欲」を起こした。そして、「熱」を生み出した。次に、その熱が繁殖の意欲を起こして「水」を生み出した。最後に、その水が繁殖の意欲を起こして「食物」を生み出した。こうして、現象界の元素(材料)としての三神格が生まれた。”・・・ウッダラーカ師にとっての世界は、目に見え、感じることが出来る目の前の現象界そのものであった。人は暑さによって汗をかくが、これは、熱から水が生じたことの現れである。また、雨は作物を育てるのであるが、これは、水から食物が生じたことの現れである。


(アートマンと三元素)

  “「有」は「生命としてのアートマン」をもって三神格(熱・水・食物)の中に入った。そして、この三元素(材料)を三重に混合して、この世界の現象界(名称と形態)を創造した。例えば、火や太陽、稲妻等はそれぞれ赤色に見えるが、それは熱の色である。しかし、これらは、白色の水、及び、黒色の食物を加えての三元素の集合体なのである。その混合の割合によって、火や太陽、稲妻という差異が生ずる。その差異を我々は言葉によって把握する。”・・・言葉による差異の把握とは、つまり、名称をつけて区別するということである。しかし、ウッダラーカ師は、続けて、こう言う。“それらが三元素の三色の混合であると観ずる時はそれぞれその性質が消失する。この三色こそが真実である。”・・・つまり、この現象界の一切は熱・水・食物の三元素に還元できるということである。だからと、ウッダラーカ師は言う。“古代の大学者たちは、こう教えた。誰人も、まだ聞かれないこと、まだ考えられないこと、まだ認識されないこと、を語ることは出来ない。本当の賢者は、赤いものは「熱」の色(元素)である。白いものは「水」の色(元素)である。黒いものは「食物」の色(元素)である。そして、それらが認識出来ないものは、これら三神格(三元素)の集合体である。こう彼らは知ったのである。”・・・言い回しが、妙に、まだらこいのであるが、要するに、「真実」は言葉では表現できない。不立文字ということを言いたいのである。

  続いて、父は子に、これら現象界を形作っている三神格と人間の関係について、説明する。“まず、食べられた「食物」は、便と肉と意になる。次に、飲まれた「水」は尿と血と気息になる。そして、「熱」は骨と髄と言語になる。“・・・

  続いて、これらの教えをさらに深く理解させる為に、体験学習が試みられる。父は子に、意(意思)は食物よりなり、気息は水よりなり、言語は熱よりなることを、体験を通して認識させようとする。まず、十五日間の断食をさせる。この間、水だけは飲んでよいこととしておく。子の体力が消耗したところで、父は子にヴェーダを唱えさせてみる。しかし、子はそれらを唱えることが出来なかった。そこで、父は子に食事をさせる。子は元気を取り戻した。父は子に再度それらを唱えさせてみる。すると、子は父の質問どおりにそれらを唱えることが出来た。そして、こう語る。“人は水だけで生きられる。しかし、意欲はなえる。食事をしたお前は、思考力(意欲)と活力を取り戻した。だから、意(思考力)は食物からなるのである。言語は熱(活力)からなるのである。そして、気息は水からなるのである。”・・・

(唯一存在「有」から唯一存在「有」への循環)

 次に、ウッダラーカ師は、万物が唯一存在(有)からきて、唯一存在へと還っていくことを、睡眠と飢え、そして、渇きの考察を通してそのことを確認させる。“覚醒時、人の心(意)は、紐に繋がれた鳥が方々に飛びまわるように、あらゆる事柄に関心がいくのであ
るが、睡眠時、その意は気息に同化されて、寂静となる。これは、意(食物元素)が気息(水元素)に帰入したことである。この時、人は「有」と合一しているのである。人が飢えて、食を欲しがる。この時、水が食べたものを導き去っているのである。このように、水は食を生み出す根である。また、人が渇きをおぼえて、水を欲しがる。この時、熱が飲んだもの(水)を導き去っているのである。このように、熱は水を生み出す根である。人が飢えと渇きにあった時、まず、水を欲しがる。これは、熱に象徴される生命が水を欲しがっているのである。

 こうして、熱〜水の相関関係が確認できる。水に満足して、その人は食を欲するに違いない。今度は、水〜食の相関関係が確認できる。”・・・だから、この食〜水〜熱の相関関係を観察せよとウッダラーカ師は言うのである。そして、その子シュヴェターケートゥにこう語りかける。“人が死する時、言語は意(食物元素)に帰入する。意は気息(水元素)に帰入する。気息は熱(熱元素)に帰入する。熱は「有」に帰入する。この微細なるもの(有)。この世界(宇宙)はこれ(有)を本性とするものである。それが「真実」であり。それが「アートマン」(我)である。お前はそれである。”・・・ここで、ウッダラーカは師「食〜水〜熱〜我〜有」の相関関係の観察を通して、真実(有)を知れ、と言っているのであるが、シュヴェターケートゥは良く理解出来なかったのであろうか、さらなる説明を父に求めた。


  “例えば、蜜蜂が方々の花々から蜜を集めて、蜂蜜液とする。しかし、その一つとなった蜂蜜液は、私はどこそこの花の蜜とは主張しない。このように、一切の生類は「有」に帰入した時、自分が有に帰入したことを知らない。この世で、生類は虫や獣、人間とさまざまな形で存在するが、死後は全て唯一存在「有」に帰入するのである。”・・・

  “また、東西南北、色々な方向から河川が海に流れ込んでいるのであるが、それらは、海から海に達しているのである。この時、各河川は何々の川とは主張しない。海に達して、全て、海そのものとなる。”・・・これは、海〜雨〜川〜海の循環を言っているのである。続いて、“このように、一切の生類(各河川)は「有」(海)から来るのであるが、それらは「有」(海)から来たことを知らない。そして、一切の生類(各河川)は、死後、「有」(海)に帰入して、「有」(海)そのものとなる。このように、一切の生類は「有」から来て、「有」に戻っていくのである。”・・・

 “また、ここに一本の樹木があったとする。根っこや幹あるいは枝、この木の方々に傷をつけてみる。傷つけた箇所ごとに樹液が確認できる。このように、樹液はその木全体に充満しているのである。これと同様に、アートマン(命我)は生命体(樹木)全体に充満している。今度は、その樹木のその枝を切ったとする。切られたその枝は枯れ死するが、樹木自体は死なない。しかし、樹木全体を切ってしまえば、その木は枯れ死する。かく、肉体は死するけれども、アートマン(命我)は死なない。”・・・頭のてっぺんから足の爪の先まで、アートマンは我々の身体に充満している。しかし、肉体の死により、アートマンはいかほども損傷されない。今、そのアートマンは唯一存在「有」である。だから、ここでも、こう説かれる。“この微細なるもの(有)。この世界(宇宙)はこれ(有)を本性とするものである。それが「真実」であり。それが「アートマン」(我)である。お前はそれである。”・・・


 これらの例え話でも、息子シュヴェターケートゥの理解はあまり進まなかったのであろうか。そこで、第二の体験学習が試みられる。まず、容樹の実を持ってこさせる。そして、それを割らせてから、そこに、種のあることを確認させる。そして、次に、その種を割らせてみる。父は子に、“何かそこにあるか”と質問した。しかし、子は何も確認できなかった。そこで、父はこう説く。“何も無い、この種の中の微細なるものから、この容樹は生じたのだ。この微細なるもの(有)。この世界(宇宙)はこれ(有)を本性とするものである。それが「真実」であり。それが「アートマン」(我)である。お前はそれである。”・・・ここでは、微細なるもの(有)、つまり、「真実」(唯一存在)とは「目には見えないもの」であることを教えているのである。


  次に、ウッダラーカ師は子シュヴェターケートゥに塩と水をはった器を用意させる。そして、塩を器の水に投げ入れさせておいて、翌朝、彼にその投げ入れた塩を持って来いと命ずる。しかし、彼はその塩を発見することは出来なかった。そこで、父は子に、その器の水を端っこや中央、方々の箇所からすすらせて見る。そして、その器のどこの水も塩辛いことを確認させる。そして、その水を捨てさせてから、こう語りかける。“塩は確かに存在している。しかし、捨てられた水の中にも、お前はその塩を発見出来なかった。このように、「有」はこの身体中に存在している。お前はそれを認めることは出来ないけれども、それは確かにここに存在している。この微細なるもの(有)。この世界(宇宙)はこれ(有)を本性とするものである。それが「真実」であり。それが「アートマン」(我)である。お前はそれである。“・・・

(正師を持て)

  最後に、ウッダラーカ師は、正しい師を持てという。それが、唯一、「有」を知る方法だと言うのだ。“例えば、故郷から目隠しをされて、遠国に連れて来られた人が、目隠しを取られても、そのままでは、故郷に帰り着くことは出来ない。しかし、正しい案内人がいれば、その人の正しい指示を仰いで、ついには、故郷に帰りつけるようなものだ。”・・・

  ウッダラーカ師の教説をざっと見てきた。その思想はシャーンディリヤ師の思想を受け継ぐものである。シャーンディリヤ師においても、万物は唯一存在から来て、唯一存在へ戻っていくのであるが、何故、そうなるのかは説明されていない。この問題をウッダラーカ師は、師独自の創造神話を使って解決した。ウッダラーカ師における「アートマン」は、唯一存在「有」が意志(意欲)をもって、生命の材料(元素)である「熱」と「水」そして「食物」の中に入り込んで、創ったものであった。この世界の万物は、これら三元素を混合して創られた。万物の材料は唯一存在「有」なのだから、万物はそのまま唯一存在「有」である。至って、シンプルな理屈である。

 
それでは、ウッダラーカ師は上記のようなものの考え方を、どのようにして思いついたのであろうか。人間の死の観察から思いついたのではないか、と私は考える。病が進んで瀕死の人がいる。まず、食べられなくなる。しばらくは、水だけて生命が維持されるだろう。しかし、やがて、呼吸も絶えて、その人は死んで、その身体は冷たくなる。この死のプロセスには、師の言う「食物」「水」「熱」の三種が関与している。師はバラモン僧であった。人はどこから来て、どこへ往くのか。宗教家ウッダラーカにとっては、最大の関心事であつたに違いない。

  次に、注意したいのは、ウッダラーカ師が観察の対象としたのは「生命現象」であったということである。師にとってのアートマンは、「生命としてのアートマン」であった。そもそも、アートマンの原意は生命力を意味したものであった。この意味で、ウッダラーカ思想も当時のインドの宗教伝統に従うものであった。アートマンが生命であるが故に、樹木全体に樹液が充満しているように、頭のてっぺんから足の爪の先まで、アートマンである。これは、我々の宗教伝統「霊(たま)」に限りなく近い。また、そのアートマンの材料である「熱」「水」そして「食物」は、生命を維持するためには必要なものである。「食物」というのは何となく理解に苦しむが、身体を作り、維持する栄養素と考えれば納得いくのではないか。

  ウッダラーカ師は真実(唯一存在「有」)を知るには、正しい師匠を持てと、教えている。しかし、一方で、それは、目には見えないものであるとも言っている。目に見えないのであるから、教えようがない。ここで言われる師とは、真実への案内人である。足を運び、そこに至るのは我々自身である。

 
最後に、ウッダラーカ師にとっての悟りとは何かについて、考えてみたい。師は、“それらが、三色(熱・水・食物)の混合であると観ずる時、それらの性質が消滅する。この三色こそが真実(唯一存在「有」)である”と説いている。しかし、一方で、“それらは言葉では、把捉できない”とも述べている。“お前はそれである”ことは理屈では解る。しかし、これだけでは、真実(唯一存在「有」)を知ったことにはならない。自らが、自らの身中の霊性によって知る以外ないのだ。“お前はそれである”という教えの中に、師はこのことを示唆しているのである。

このアートマンはただ「非ず、非ず」と説き得るのみ…ヤージニャヴァルキヤの教説

 ヤージニャヴァルキヤ師はウッダラーカ師の弟子である。師匠のウッダラーカ師とは、対照的に、豪放磊落で、論法鋭く相手を論破することもしばしばであったと伝えられている。また、師は祭祀の権威でもあった。その思想は、師匠のウッダラーカ師同様、シャーンディリヤ師の思想を受け継ぐものであったが、ウッダラーカ師のように、世界の成り立ちと人間との関係にはあまり関心がなく、自己の内なる絶対者(アートマン)についての霊的思索を重視した。

(火の生命原理)

 シャーンディリヤ師は“アートマンは光輝の姿をしている”と説いているが、ヤージニャヴァルキヤ師にとっての「アートマン」も太陽に象徴される「光輝(光明)」であった。宗教学者の服部正明先生は、オーストリアの宗教学者フラウヴァルナーの説を受けて、ヤージニャヴァルキヤの思想は火を生命原理とする思想の発展形態であると述べられている。確かに、そうなのであろう。火の生命原理とは何か。

  服部先生は、火を生命原理とする思想は体温の観察にもとづいて生じたのではないかと、指摘されている。体内にある火は「一切人火」と呼ばれ、人はこの火によって食物を消化すると考えられていた。両耳を手で覆うと聞こえる音は食物が調理される音であると言う。人が死ぬと、この火は体内から抜け出し、太陽に赴く。もともと、この体内の火は太陽から来たものであるからだ。体内の心臓には五本の脈管があり、太陽光線と同じ五色(褐色・白・青・黄・赤)の色で満たされている。この脈管を通して、人は太陽と連結している。その太陽と連結された脈管を通して太陽光線は人の体内に入り込み、食物を消化する熱となる。その熱で消化された食物を、心臓の内部にいるアートマンは、その脈管を通して摂っていると言う。我々現代人にとっての心臓は全身に血液を循環させる器官であるが、当時のインド・アーリア人は、心臓を生命の源である熱を太陽から人体に摂りいれるための器官であると考えていた。

  生きている限り、人間は心臓の五本の脈管を通して太陽から熱(生命)を摂り入れることが出来る。しかし、死ぬとその人を生かしていた熱は太陽に戻っていく。だから、当時の人々は、生と死は太陽と地上との間を循環していると考えた。死人を持ち去るのであるから、太陽は死神であると考えられた。また、一方で、太陽の光の彼方には、不死の世界があるとも考えられた。生あるものは必ず死ぬ。彼方の世界(太陽)と此方の世界(地上)を生(熱)が往ったり来たりするのであれば、地上での死もまた繰り返される。生の循環は死の苦しみの循環でもあった。こうして、死の苦しみからの解放と生と死の連鎖からの解脱が切実に願われるようになった。不死に至るには祭式の執行が必要であったが、後には、知識がその要件とされた。太陽は知識ある者にとっては、不死の世界に至る入り口であると考えられた。このような、火の生命原理を前提としてヤージニャヴァルキヤ師の世界が展開される。

(三つの働きのアートマン・・・光明・認識・内制者)

  ヤージニャヴァルキヤ師の説くアートマンには三つの働きがある。「光明としてのアートマン」と「認識からなるアートマン」そして「内制者としてのアートマン」である。シャーンディリヤ師はアートマンを“思考力より成り、諸機能を身体とし、その姿は光輝である・・・それはこの私の心臓内部にある”と説明しているが、ヤージニャヴァルキヤ師のアートマン論はこのシャーンディリヤ説を受け継ぎ、深化させたものである。

  まず、光明としてのアートマンから見てみよう。ブリハッド・アーラニヤカ第四篇の中に、ヴディーハ王ジャナカとヤージニャヴァルキヤ師の問答が伝えられている。冒頭、王はヤージニャヴァルキヤ師にこう質問する。“人間は何を光明としているのか”・・・。ヤージニャヴァルキヤ師の答えはこうである。“人間は太陽を光明としている。太陽を光明として、座り、歩き回り、帰ってくる”・・・。王はさらに畳み掛けて、質問を浴びせる。“太陽が無いときは、どうするのか”“月を光明とする”・・・“月がないときは、どうするのか”“火を光明とする”・・・“火もないときは、どうするのか”“言語を光明とする”・・・と問答は続く。そして、最後に、“太陽も沈み、月も消え、火も尽き、言語も絶えた時、人間は何を光明とするのか”と王はヤージニャヴァルキヤ師に尋ねるのである。“アートマンこそが人間の光明である。彼は、アートマンを光明として、座り、歩き回り、帰ってくる”。これが、ヤージニャヴァルキヤ師の王への回答であった。

  この教説は何を教えているのであろうか。ヤージニャヴァルキヤ師がここで掲げている「太陽」「月」「火」はその明るさによって、対象の姿形(相)を明らかにする働きをもっている。また、「言語」は諸々の対象のその姿形を区別する働きである。つまり、ここで言う「光明」は人間の知的精神作用を象徴しているのである。

  また、同じ問答の中で、ジャナカ王はこの教説に続けて、“アートマンとは何か”とヤージニャヴァルキヤ師に尋ねている。ヤージニャヴァルキヤ師の答えはこうである。“認識から成り、諸機能の中に在って、心臓の内部において光明を発するこの人我(プルシャ)である”。これが「 認識からなるアートマン」についての教説である。

  シャーンディリヤ師はアートマンを“思考力より成り、諸機能を身体とし、その姿は光輝である・・・これはこの私の心臓の内部にある”と説いている。ヤージニャヴァルキヤ師はこの説を受けて、アートマンを”認識から成り、諸機能の中に在って、心臓の内部において光明を発する人我(プルシャ)である”と説明している。気息の生命原理では「思考力」は諸機能の一つであった。アートマンの本質を思考力としたのでは、アートマンも諸機能の一つとなってしまう。そこで、ヤージニャヴァルキヤ師は「思考力」を「認識」と言い換えたのである。人間の知的行為は対象を識別し、認識することだからである。また、シャーンディリヤ師はアートマンの身体は諸機能であるとしているが、これでは、諸機能がアートマンであるということになってしまう。そこで、ヤージニャヴァルキヤ師は、諸機能をアートマンの宿る場所としたのである。また、ヤージニャヴァルキヤ師におけるアートマンは「認識の働き」と解釈できるから、ここでのアートマンはその本質において、その宿所としての諸機能を、各それぞれの身体機能として働かせる主体なのである。

 また、シャーンディリヤ師はアートマンの姿を光輝としている。未だ、光輝への賛辞の域を出ていない言い方である。対し、ヤージニャヴァルキヤ師は、アートマン(人我)を「光明を発するもの」として捉えることによって、アートマンを、諸機能の背後にあって、諸機能をして諸機能そのものとさせている主体として捉えることに成功した。呼吸する背後にある呼吸する(嗅ぐ)主体、語る背後にある語る主体、見る背後にある見る主体、聞く背後にある聞く主体、考える背後にある考える主体がアートマンなのである。それは認識よりなっている。アートマンは、嗅ぎ分ける、語り分ける、見分ける、聞き分ける、考え分ける認識能力の当体なのである。アートマンの光明は諸機能に入り込み、それぞれの機能の認識能力となる。それは、生命の本源である太陽から来たものであり、世界の根本原理(ブラフマン)に連なるものである。


  この「認識からなるアートマン」とはいったい何者なのか。ヤージニャヴァルキヤ師はこれを「内制者」と呼ぶ。ブリハッド・アーラニヤカ第三篇には、ヴディーハ王ジャナカの前でのヤージニャヴァルキヤ師と八人の論師との公開討論の模様が伝えられている。その内の一つ、ウッダラーカ師との討論の場でのことである。ウッダラーカ師は、冒頭、ヤージニャヴァルキヤ師に“内制者と何か”と質問した。これは、相手を論破する為であった。ところが、ヤージニャヴァルキヤ師の説くところは、反論の余地の無いほど優れた論旨であった。ヤージニャヴァルキヤ師は神と被造物、そして、個体(人間)にアートマンが普く浸透していることを証明しようとした。

  まず、神(神格)とアートマンに関してこう説く。“地、水、火、空、風、天、太陽、方位、月、星、虚空、光・・・これら神格。それは神格内部にはあるが、神格とは異なるものである。神格はそのことを知らない。しかし、それは神格の身体そのものなのだ。それは神格の内部にあって、その神格を制御している。それがあなたのアートマン、不死の内制者である。”

  被造物に関しては・・・。“それは万物の内部にあるが、万物とは異なるものである。万物はそのことを知らない。しかし、それは万物の身体そのものなのだ。それは万物の内部にあって、万物を制御している。それがあなたのアートマン、不死の内制者である。”

  最後に、個体つまり人間について、その諸機能とアートマンの関係はこうである。諸機能として、ヤージニャヴァルキヤ師は、気息、語、眼、耳、思考力、皮膚、認識力、精液を挙げている。“それは人間の諸機能の内部にあるが、諸機能とは異なるものである。諸機能はそれを知らない。しかし、それは諸機能の身体そのものなのだ。それは人間の諸機能の内部にあって、諸機能を制御している。それがあなたのアートマン、不死の内制者である。”

  自然界を代表する神々と全ての被造物(万物)、そして、人間。これらを内から制御しているもの、言い換えれば、それらを成りたさせている共通のものがアートマンである。服部先生によれば、アートマンとは個体に内在して、その内的本質をなすとともに、個体を超えて万物に浸透している普遍者なのだという。また、先生によれば、アートマンは諸機能を通して、全てのものを認識するが、アートマンは決して対象化されないものであるという。そして、ヤージニャヴァルキヤ師はこう結論づける。“それは眼に見えない視覚の主体であって、それ以外に見るものはいない。それは耳に聞こえない聴覚の主体であって、それ以外に聞くものはいない。それは認識されない認識の主体であって、それ以外に思考し認識するものはいない。それがあなたアートマン、不死の内制者である。”

 
我々は直接自分の顔を見ることは出来ない。そのように、我々は直接アートマンを見ることは出来ない。アートマンを見ることが出来るのは、アートマン自身であるのだ。

(睡眠と諸悪の身体)

  ヤージニャヴァルキヤ師は、光明及び認識のアートマン(人我)の説明に続いて、ジャナカ王に対しこう説いている。 “この人我(アートマン)は一なるもの(ブラフマン)と同一であり、両方の世界(一なる世界とこの世)を往ったり来たり(往還)する。目が覚めている時、及び、夢を見ている時、彼は、時に躍動し、時に思念する。しかし、夢も見ない熟睡の時、彼は、この世における死(憂苦)を超越している。この人我、身体(肉身)を得るや、諸悪と結合する。身体(肉身)が死んで、彼がその身体(肉身)を去るや、諸悪は捨離される。このように、この人我(アートマン)は一なる世界とこの世の二つの状態を有している。睡眠は第三の状態であって、両者の中間の状態を有している。すなわち、睡眠中、彼は両方の世界(一なる世界とこの世)を見るのである。”

  睡眠中、夢の中であれ、熟睡中であれ、我々は外界を知覚できない。睡眠中のアートマンはどこに行ったのか。当時の人々はここに注目した。ヤージニャヴァルキヤ師とて、例外ではなかった。上記の教説は、睡眠の観察により導きだされたものである。まず、“この人我は一なる世界とこの世の二つの状態を有している”と説かれているが、これは、この人我(アートマン)、つまり、人間存在はブラフマン(一なる世界)と人間(この世)の二つの意識状態を持っているということである.目覚めている時、我々は人間としての意識状態しか体験出来ない。しかし、睡眠中、我々(人我)は夢の中で、ブラフマンの世界と人間の世界の両世界を体験することが出来ると、ヤージニャヴァルキヤ師は説く。さらに、熟睡に至れば、あるのは、ただ、気息のみである。この時、人我(アートマン)はブラフマンに帰一し、人間存在としての諸々の憂苦・諸悪を離脱すると言う。だから、睡眠を「第三の状態」と名づけるのである。ブラフマンには憂苦も諸悪もない。しかし、現実の我々人間には諸々の憂い、苦しみ、悪徳が存在する。これら人間的苦しみからの解放は万人の願いである。

 “この人我、身体(肉身)を得るや、諸悪と結合する”と説かれる時、その解決方法が明らかとなる。“身体(肉身)が死んで、彼がその身体(肉身)を去るや、諸悪は捨離される”と・・・つまり、人間としての身体(肉体と心)が諸悪の源泉なのだから、その身体を離脱すれば、諸悪や憂苦からも離脱出来るということである。アートマン(人我)は、覚醒と夢眠と熟睡という意識状態を自由に移動する。我々が悪意を認識(意識)する時、アートマンは身体(肉体)の諸悪に汚染されているのであろうか。それは、アートマン(人我)が悪意を認識していることなのであろうか。しかし、たとえそうであろうとも、熟睡に至れば、もはや、アートマン(人我)が、悪意を認識するということもない。彼(アートマン)は、その時、諸悪の身体(肉体)を離脱しているからである。


(覚醒と夢眠の往還・・・悲喜善悪の世界)

 ヤージニャヴァルキヤ師は、人は夢の中でブラフマンの世界と人間の世界の両方を体験できると、説いている。“この人我、夢の中にあっては、自らが光明となって、車両や車馬、道路も無いところに車両や車馬、道路を創る。歓喜や愉悦、享楽の無いところに歓喜や愉悦、享楽を創る。何故なら、彼は創造者であるからだ。気息により身体(肉体)を守りつつ、それらから解き放たれ、無垢にして、不死のこの人我は欲するままに世界を周遊する。夢の内に、あるいは上方、あるいは下方に飛遊し、創造者として諸々の情景を創る。人はそれを見るも、誰人も彼(人我)を見ない。かの人我、夢の中に、享楽し、周遊し、善と悪とを見終わって、再び、意識世界(覚醒位)に戻る。彼(人我)は何ものを見ようとも、それに惑わされない。何故なら、この人我は無染着だから・・・。この人我、覚醒位にあって、享楽し、周遊し、善と悪とを見終わって、再び、夢の世界(夢眠位)に馳せ戻る。このように、この人我は夢の世界(夢眠位)と意識世界(覚醒位)を往ったり来たり(往還)する。”


  覚醒時であれ、夢の中であれ、人我(アートマン)は何ものにも染まらないという。しかし、覚醒時であれ、夢の中であれ、我々は、悦びや悲しみ、善も悪も感ずる。その背後には、認識の主体としてのアートマン(人我)が存在するというが、我々には、どう考えても、これらの知覚・認識作用もアートマン(人我)の働きとしか、理解出来ない。夢の中の認識も、覚醒中の認識もアートマンの同じ認識なのであろうか。それは、共に、諸悪の身体(肉体)に支配された世界である。悲喜善悪からの開放は熟睡の時を待たねばならない。

(熟睡と諸悪からの開放)

 
ヤージニャヴァルキヤ師は、熟睡時の状況をこう述べている。“恐怖の夢の世界を抜け出し、一なる世界へ熟睡の時至れば、それは、欲望を絶し、諸悪を滅し、恐怖を離れたかの人我(アートマン)の真相である。この時、彼は身体の外にも内にも何ものも感知しない。実に、それこそ、アートマンのみを願い、欲望なく、憂いを離れた彼(人我)の真相である。そこでは、父と母、諸世界や神々、ヴェーダの聖典類、盗賊や殺人者、諸階級の人々、遊行者と苦行者等々・・・この世界の存在物はその存在の根拠を失ってしまう。何故なら、そこには、善も悪もなく、あらゆる心の憂いを超越しているからである。その時、彼(人我)は何も見ていないようであって、実は、何もかも見ていて、しかも、何もかも見ていないのである。見ることの主体は不滅であって、それこそ、かの人我である。その時、見る主体は彼(人我)以外、第二のものはないのである。聴覚、臭覚、味覚、触覚、言語も思考も同様に・・・何も認識していないようであって、実は、何もかも認識していて、しかも、何もかも認識していない。認識の主体は不滅であって、それこそ、かの人我である。その時、認識する主体は彼以外、第二のものはないのである。たとえ、第二のものが存在し得ても、それを見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったり、語ったり、思考したり、認識出来るのは一なるもの(ブラフマン)のみである。彼(アートマン)こそがこの世界の唯一不二の観察(認識)者であって、これこそがブラフマンの世界である。これこそ、最上の世界であり、最上の歓喜である。”

  以上が、ヤージニャヴァルキヤ師のブラフマンとアートマンの合一(梵我一如)論の帰結である。ブラフマンだけがこの世界(宇宙)の唯一の認識主体であって、唯一の観察者である。ヤージニャヴァルキヤ師は、ブラフマンがどのようにして人間を含む諸存在の認識主体となったかは説いていない。シャーンディリヤ説やウッダラーカ説、あるいは、火の生命原理の諸説を通して、ヤージニャヴァルキヤ師にあっては、世界(宇宙)の本質(ブラフマン)と人間の本質(アートマン)の同質性は、自明の理として前提されているのである。

(このアートマンはただ「非ず、非ず」と説き得るのみ)

  我々の内なるアートマンは知覚や思考の認識主体であって、その働きを内から操る内制者であるとするならば、我々が現実に感じている知覚作用や個々人の行う思考とは、その内制者で認識主体であるアートマンのものであるということになる。この論立てに従えば、感じていて、実は、感じていない。思考していて、実は、思考していない。確かに、ヤージニャヴァルキヤ師の説く通りである。人間の認識レベルではどうしても対象化されないそのアートマンをどう捉えたらよいのか。

  人智によっては、決して捉えることの出来ない「アートマン」を捉える方法はあるのであろうか。世俗の生活をしていたのでは到底それは不可能である。当時の人々もそう考えていた。出家(遊行)は、その選択肢の一つであった。ヤージニャヴァルキヤ師もその例に漏れず出家(遊行)生活を選択した。出家に際し、その妻マイトレーイーに説きおいた教説が、ブリハッド・アーラニヤカの第四篇に伝えられている。

  ヤージニャヴァルキヤ師には、二人の妻がいたようである。マイトレーイーはその内の一人である。彼女はブラフマンについての知識が豊かであった。財産分与が完了したところで、マイトレーイーはヤージニャヴァルキヤ師にこう質問した。“財宝によって、不死が得られるのでしょうか”・・・。 師の答えは勿論“否”であった。そこで、マイトレーイーは改めて夫ヤージニャヴァルキヤに“不死に至る道”を問うた。

  “ああ、実に、夫を愛しているから、夫が愛しいのではない。アートマンを愛するが故に、夫が愛しいのである。妻や子、財産、バラモンやクシャトリヤ、諸世界、神々、ヴェーダの聖典類等、この世界の一切皆同様に、それを愛しているから、それらが愛しいのではない。アートマンを愛するが故に、それらが愛しいのである。ああ、このように、アートマンを見たいものだ。アートマンを聞きたいものだ。アートマンを思考し、瞑想したいものだ。マイトレーイーよ。ああ、アートマンが見られ、聞かれ、考えられ、認識されれば、この世界の一切は知られるのだ。”

  アートマンは万物に普く浸透している絶対者(ブラフマン)であった。万物に普く浸透しているからこそ、個々の内なるアートマンへの愛は普遍(絶対)愛である。“今、私は出家し、お前と別れるけれども、アートマンを通してお前を愛している。だから、お前も、アートマンを愛せよ。”と、夫ヤージニャヴァルキヤはこう妻マイトレーイーにまず初めに言いたかったのである。続けて、自らの出家の目的を語る。“アートマンが見られ、聞かれ、考えられ、認識されれば、この一切の世界は知られるのだ。” だから、出家が必要なのだと、ヤージニャヴァルキヤ師は言いたかったのである。師は「アートマン」に参じたのだ。出家はその為の手段であった。

  アートマンの普遍愛、そして、自らの出家目的に続けて、この世界の一切がアートマンであることが説かれる。“アートマンの外に、バラモンやクシャトリヤ、諸世界、神々、ヴェーダの聖典類等があると考えてはならない。アートマンこそが、バラモンであり、クシャトリヤであり、諸世界、神々であり、ヴェーダの聖典等々、この世界の一切であるのだ。”・・・神々の世界、自然界、そして、人間社会の全て一切この世界の「本質」はアートマンであるということである。

 次には、アートマンの背後にあるこの世界の根本原理「ブラフマン」とは何かが説かれる。“太鼓や法螺貝、琵琶、それぞれその音色を直接に捉えることは出来ないけれど、その楽器や演奏者を捉えることによってそれぞれの音色を捉えることが出来るがごとく、あるいは、湿った薪を燃やしてその煙を四方八方に立ち上らせるがごとく、この一切世界の偉大なるもの(ブラフマン)はこの世のあらゆるものを生み出す。四つのヴェーダ、歴史、諸々の学問、ウパニシャッド、教学書、注釈書等々、人間とこの世界のあらゆる存在物はかの偉大なるもの(ブラフマン)の生み出したところのものである。”・・・演奏者はブラフマンである。この偉大な演奏者は色々の楽器を使用して、諸々の音色を作り出す。ヴェーダ、歴史、諸々の学問等々。これらは、ブラフマンの作り出したものである。だから、演奏者のブラフマンを知れば、その音色であるヴェーダ、歴史、諸々の学問等々を知ることが出来ると言うのである。一方、煙の例えは、その生み出したものが世界の隅々まで行き渡って行くことを象徴している。また、この教説では、その生み出したものは「知識」であるということに注意しておきたい。


  続けて、アートマンの消滅について、こう説かれる。“塩の塊りがある。その内側も、その外側も塩辛い。それは、一つの塩辛い塊りに過ぎない。このように、アートマンには内も外もなく、それは認識の塊りである。それは、この身体(物質的要素)より出でて、身体の滅亡(死)に従って消滅する。だから、死後、意識(認識)のあることはない。以上がお前に説きおきたいことだ。”ウッダラーカ師にあっては、我々の身体(肉体)は世界の根本原理である「有」(ブラフマン)から作られた三要素(熱・水・食物)が生命力アートマンとして混合されて、創られたものであって、頭のてっぺんから足の爪先まで、身体(肉体)も心もアートマンなのである。だから、死は、食物、水、熱の生命体の三要素が順に根本原理「有」に帰入していく過程として説明されている。ヤージニャヴァルキヤ師にあっては、アートマンは心臓の内部で光明を発する認識の主体であり、その光明は太陽から来たったものであった。ここで、太陽は生命の源、この世界の根源(ブラフマン)を象徴している。その上で、それは諸器官に浸透しつつ、その背後にあって、それらの働きを内から統制する内制者であった。つまり、ヤージニャヴァルキヤ師のアートマン論はウッダラーカ説のように、身体(肉体)は考慮されていない。心臓も諸器官もアートマンの宿所に過ぎない。だから、その宿所である心臓及び諸器官が滅すれば、アートマンはその宿所を失ってしまう。人が死ぬと、アートマンは元の宿所のブラフマンに帰入していかざるを得ないのである。そのアートマンは「認識」よりなっている。しかし、その時、意識(認識)のあることはないと言う。

  いったい、「アートマン」の「認識」はどこへ往ってしまったのであろうか。マイトレーイーが同じ疑問をもったかどうかは定かではない。“あなたは私を困惑させるのでしょうか。私はあなたの言われることが理解出来ません。”・・・妻は夫の説くところが理解できないようであった。“私はお前を困惑させようとしたのではない。実に、このアートマンは不滅である。不壊を本性としている。”・・・この説明では、さらに、困惑を深めたような気がしないでもない。そう思ったのであろうか、さらに、ヤージニャヴァルキヤ師は説明を続ける。

  “人間界とはいわば相対の世界である。そこには、個(個人)に対する他(他人・対象)がある。そこでは、個が他を見たり、聞いたり、思ったり、認識したりする。しかし、その人にとって、一切がアートマンとなった時、彼(アートマン)は、何によって、見たり、聞いたり、思ったり、認識したりするのであろうか。認識の主体(アートマン)がどうやってその認識の主体(一切世界・ブラフマン)を認識出来るのであろうか。このアートマンはただ「非(あら)ず、非ず」と、説き得るのみである。それを捉えることは不可能である。それを破壊することも不可能である。それは何ものにも染まらず、何ものにも束縛されず、何ものにも動揺されず、何ものにも傷つけられない。ああ、この認識の主体をどうやって認識しようと言うのか。マイトレーイーよ、不死とはこのようなものである。”

  アートマンは相対の世界を超えている。そこでは、自己に対する他個がない。つまり、認識の対象がない。だから、認識そのものをする必要がないのである。しかし、マイトレーイーはアートマン(不死)を知的に理解しようとしていた。“そうではない。そうではないのだ。マイトレーイーよ。アートマン(不死)は議論の対象とはならないのだ。出家しか、方法はないのだ。” 夫ヤージニャヴァルキヤは、今別れようとしている妻にそう言いたかったのだ。

  ヤージニャヴァルキヤ師の思想をざっと見てきた。アートマンは「光明」である。その光明は太陽から来たものであった。ここで、太陽の光は、生命(熱)と知的作用(知性)を象徴している。アートマンは「認識からなるもの」とされ、人間の知的(認識)作用を統御するもの(認識の主体)として、「内制者」と呼ばれた。アートマンは、「不死」であり、世界の根本原理「ブラフマン」そのものであり、死後、人のアートマンはブラフマンに帰入する。アートマンは対立(相対)概念を超越した存在であり、人知による把捉が不可能である。だから、「非ず、非ず」としか言いようがない。ヤージニャヴァルキヤ師のアートマン論はおおよそこんな風にまとめられるであろう。

インド人の死生観・・・ウパニシャッド以前

(ヴェーダ時代)

 「業と輪廻」は現代に至るまでインド人の死生観の中心をなしている。しかし、その考え方は一朝一夕でなったわけではない。どのような過程を経て、かの地の人々がそのようなものの考え方に至ったのか。


  ヴェーダ時代のインド・アーリア人の死生観は、我々日本人の伝統的な死生観にはなはだ近い。我々の先祖たちが考えたように、当時のインド・アーリアの人々も、人間は肉体と霊魂よりなるものと考えていた。霊魂は「アス(asu)」と呼ばれ、呼吸ないし生気、つまり、生命現象を意味した。生命現象を意味する語としては、「マナス(manas)」や「アートマン(atman)」も用いられた。この時代、マナスは「意(こころ)」、アートマンは「気息」をもっぱら意味した。

  さて、人の死後、その身体と霊魂はどうなるのであろうか。我々の先祖たちは腐敗する身体が霊魂を穢すと考えた。死後間もない霊魂は荒魂(あらみたま)と呼ばれ、人々はその祟りを怖れた。死体は時には遺棄され、顧みられることはなかった。不浄の霊魂を浄化する為には、長い期間にわたり、慰霊鎮魂を絶やさぬことが必要とされた。三三回忌で弔い明けとなり霊魂は祖霊となった。つまり、我々の先祖たちにとって、死者の肉体は腐敗して自然に同化するものの、その霊魂は長い時間をかけて祖霊に祭り上げねばならない存在であった。

  一方、インド・アーリア人は、人の死後、その身体の諸要素はそれぞれ決められた自然界の諸要素に帰入していくと考えた。葬送の歌には「目は太陽に行け。気息は風に。規範に随って天に、もしくは、水に。そこがお前にとっての決められた場所ならば・・・」とある。死体は原則として火葬された。死体を焼く火は不浄の火とされ、祭式の聖火アグニとは区別はされたが、それでも、それは死者の身体を自然界に送り返す為の清めの火(アグニ)であったのであろう。

  身体の行き場所は決まった。霊魂はどうだろうか。死者の霊魂の往き場所として、善人の往く人類の祖ヤマ神の天界と、悪人の往く地下の暗黒の世界とがイメージされていた。ヤマは後世地獄の主宰者となった閻魔である。善人の霊魂(アス)は、死後、火神アグニに乗って、天界のヤマ神の楽土へと至るという。そこで、完全な身体を再び得て、神々や祖霊たちと会し、新酒ソーマや歌舞婉曲を楽しみながら不死の生活を過ごすと考えられていた。また、悪人の霊魂は、死後、暗黒の地下に続く深淵に堕とされ、二度と、地上に上がってこられないと考えられていた。

  悪人の堕ちる暗黒の深淵は後世の地獄に繋がるイメージであるが、この当時は、後世の地獄ほどの深刻さはなかったようである。むしろ、ヤマ神の楽土にイメージされているような楽天的な考え方が支配的であった。神々への敬虔な奉仕者、多額の布施者、苦行者、聖仙、勇敢に戦い戦死した者等が、死後、ヤマ神の楽土に逝く者とされた。

  因果応報の考え方はどうであろうか。宗教学者の針貝邦生先生は、葬送の歌の中の「そこがお前にとっての決められた場所」の箇所を「そこがお前の行為の果報として定められた場所」と解釈した註釈家サーヤの説を引いて、この賛歌には輪廻思想はまだ存在しないまでも、基本的な業報思想の萌芽は既に見られると指摘されている。また、ヤマ神の楽土と暗黒の深淵は、後世の極楽・地獄のイメージに連なってゆく概念であり、善因善果、悪因悪果という考え方の存在を暗示するものである。

(梵書時代)

  梵書時代になると、ヴェーダ時代のような善人の霊魂(アス)はヤマ神の楽土で再び完全な身体を得て、神々や祖霊と不死の生活を永遠に送るのだというような楽天的な考え方は見られないようになる。何が、当時の人々を不安にしたのであろうか。それは、「再死」への不安であった。善人の霊魂が往くというヤマ神の楽土は不死の世界であるというが、本当であろうか。もし、そこにも「死」というものがあるとしたら、そこでの死後、霊魂はどこに往くのか。

  太陽は死神でもあった。地上の生き物の生命は太陽(死神)がその運命を握っている。彼に引き上げられた者はかの国で何回も死ぬ。しかし、朝夕の火神アグニへの奉仕をおこたらない者は再死から開放されるという。

  一方で、不死なるものは何か。それは息(プラーナ)である。プラーナを崇めるべきである。しかし、息は不確実なものという。そう考えるべきではない。不死なるものとして「プラーナ」を崇拝すべきなのだと。不死は、祭式によるか、とりあえず何か(例えば、プラーナ)を不死なるものとして崇拝せよという。考え方に確信がない。甚だ、あいまいである。不死の完全なる克服は、ウパニシャッドを待たねばならない。

インド人の死生観・・・ウパニシャッド時代(1)

(五火説)

 輪廻説がいつ頃生まれたかははっきりしないが、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王よりウッダラーカ師が教示されたという「五火二道説」がその最初だろうと言われている。チャーンドーギヤ・第五編にその内容が伝えられている。

  伝えられる所によると、ウッダラーカ師の息子シュヴェータケートゥはプラヴァーハナ・ジャイヴァリ王のもとに在った時、このような質問をされたという。“お前は、父親から次のようなことを聞いているか。生類は死後何処に逝くのか。彼らはどのようにして再びこの世に戻ってくるのか。神道と祖道との差異を知っているか。あの世が死者で一杯にならないのは何故か。第五の献供で祭火に奉げられた水がどのようにして人の言葉を発するようになるのか知っているか。”・・・しかし、シュヴェータケートゥはどれも知らなかった。彼は意気消沈して帰宅した。そして、父ウッダラーカに同じ質問をした。しかし、父もまたそれらを知る所ではなかった。そこで、二人してプラヴァーハナ王のもとに教えを請う為に赴いた。

  さて、五火説は水の生命原理を祭式を通して表現しなおしたものである。水の生命原理とは次のようなものである。人の生命は水である。死後、その水は火葬の煙に乗って(1)月に達する。月はこの生命の水を満たす容器で、満杯になると、(2)雨となって地上に降り注ぐ。月が満ち欠けするのはこういうわけである。地上に降った水は作物の養分となって、(3)食物となる。その食物は食べられて、(4)精子となる。精子は母胎に入って、(5)胎児となり、この世に誕生する。誕生したその人は、一生を終えて、火葬されて煙となり、月に達する。月、雨、食物、精子、胎児、この五つの生命の要素が五種の祭儀を通してもたらされる。これが、五火説である。

  まず、プラヴァーハナ王は“この教説がクシャトリヤ階級にのみ伝えられてきた。”と前置きして、本論に入る。“ガウタマ(ウッダラーカ師の姓)よ。実に、かの世界は祭火である。太陽は薪で、その光線は煙、昼は炎で、月は燃え立つ炭、星々は火花である。この祭火の中に、神々は信仰を供物として捧げる。この献供よりソーマ王(月・神酒)は生ずる。次に、雨神を祭火、ソーマ王(月)を供物として、雨が生ずる。次に、大地を祭火、雨を供物として、食物が生ずる。次に、男を祭火、食物を供物として、精子が生ずる。最後に、女を祭火、精子を供物として、胎児が生ずる。”・・・こう説き終わって、プラヴァーハナ王は「生命の循環」について、こう結論する。“このようにして、第五の献供において、水は言葉を発すると云われるのだ。この胎児は十ヶ月の間母体にあって出生する。生まれた彼は寿命のある間生存し、死するや、定めに随って、火葬の火に運ばれる。彼は元々その火から来たのだから。”・・・

  水を循環させるのは熱(火)である。科学的にも、そう言える。古代インド・アーリアの人々は既にそのことを知っていた。インドにおける神々は自然の要素の働きであった。五火説における祭火(アグニ神)は生命(水)循環の働きを象徴しているのである。こうして、人の生命は天(月)と地(雨・食物・精子・胎児)の間を循環する。

  ここでは、明らかに、生類の輪廻が説かれている。プラヴァーハナ王はシュヴェータケートゥに、“生類は死後何処に逝くのか。彼らはどのようにして再びこの世に戻ってくるのか。”と問うたが、以上が、その問いの王自身の回答である。

  また、プラヴァーハナ王は“第五の献供で祭火に奉げられた水がどのようにして人の言葉を発するようになるのか”とシュヴェータケートゥに問うている。五段階の祭儀を明らかにした後、王はこう説いた。“このようにして、第五の献供において、水は言葉を発すると云われるのだ”と。五番目の献供は、人間誕生のプロセス(男女の交合〜卵子〜精子〜受精〜胎児〜誕生)を象徴的に言い表しているのであると思うが、ここで、プラヴァーハナ王が言いたかったことは、人間の生命も結局のところ、「水」からもたらされたものであるということである。“言葉を発する”とは産声であろうか。月の水が廻り廻って生命(人間)誕生の産声となるのである。

(二道説)

  五火説では、死後の人の往き場所は説かれていない。五火説に続いて、プラヴァーハナ王は人の死後の往き場所として、三箇所を説き明かしている。聖者の往く神道の世界、篤信者の往く祖道の世界、そして、悪人の往く第三処(悪趣)である。

  まず、神道の世界についてである。“五火の祭儀に関する正しい知識のある聖職者、及び、森林で苦行を信行する出家の修行者は、死後、火葬の炎の中に入る。炎より一日(昼)に、一日(昼)より半月に、半月より半年に、半年より一年に、一年より太陽に、太陽より月に、そして、月より稲妻に至る。この時、梵天の使者が現れて、彼をブラフマンの世界へと導く。この道が神道である。”・・・一日、半月、半年、一年から、天界(太陽、月、稲妻)に至って、ブラフマンの世界に導かれるという。一年から天界に入ったとは、時間を超越したことを意味している。すなわち、ブラフマンの世界(梵界)は時間を超越した世界であるということである。

  次に、祖道の世界である。“祭祀と浄行への布施を怠らず、村々にて日々家業に勤める在家の篤信者は、死後、火葬の煙に入る。煙より夜に、夜より半月に、半月より半年に、半年より祖霊の世界に、祖霊の世界より虚空に、虚空より月に至る。彼らは、生前の善行の徳が尽きるまで、ここに留まる。善行の徳が尽きるや、彼らは再びもと来た道を戻る。月より虚空に帰り、虚空より風となる。風から煙となり、後、霧となる。霧から雲となり、後、雨となってこの地上に降り注ぐ。こうして、彼らは、この地上で、米や麦、あるいは、草木、豆類として生ずる。何人もこの運命から逃れることは甚だ難しい。何故ならば、これらは生類に食べられて精子となり、母胎に注がれてようやく胎児となるからである。精子が注がれる母胎は一様ではない。生前に好ましい行為を為した者は、バラモンや王族、そして、庶民の母胎に宿るであろうことが予想される。しかし、生前に汚(けがら)わしい行為を為した者は、犬や豚、あるいは、賤民の母胎に宿ることが予想されるのである。”・・・

  祖道の辿る通過点には、「一日」と「一年」がない。これは、未だ、時間を超越していないことを意味している。だから、再び、この世(地上)に戻ってくるのである。この教説では、この世への戻り方の善し悪しを決める生前の行為が論じられている。しかし、「好ましい行為」、あるいは、「汚らわしい行為」とあるだけで、具体的な記述はない。また、宿る母胎は「予想される」とされている。確かに、業と輪廻について説かれている。その教説は未成熟であるが、ここを出発点として、その後の幾世代にもわたる「業と輪廻」の思索が始まったのであろうことは確かである。

  最後は、悪人の第三処(悪処)である。これは、“あの世が死者で一杯にならないのは何故か”との問いに関する回答である。“しかしながら、繰り返して、湧いては、消え、消えては、沸いてくるように見える微小な生類の世界は第三処であって、先の二つの道の者の再生する処とはならない。だから、あの世は死者で一杯にならないのである。そこは、悪人の堕ちる悪処である。金銭を盗む者。スラー酒を飲む者。師を冒涜(ぼうとく)する者。バラモン僧を殺す者。及び、これら四種の者と交わる者の堕ちる処である。”・・・

  今でも、ボーフラが沸く、あるいは、虫が湧くと言う。微小な生類とはこのようなイメージなのであろうか。我々がこう言う時、確かに、それらは無限に湧いてくるような気がする。死んでは、生まれ、生まれては、死ぬ。後世の地獄では、亡者は獄卒の鬼に八つ裂きにされては、また、元通りに再生して、また、八つ裂きにされる。ごれが、永遠に続くとされている。こういうことからすれば、この教説の第三処は地獄の原型であると思うが、未だ、イメージがはっきりしない。また、そこに堕ちるとされる悪人の定義も物足りない。スラー酒というのは何なのか分からないが、いずれにせよ、ここに掲げる悪人達だけでは、常識的には、ほとんどの人が祖道の候補生となってしまって、月の天界はすぐに満杯になってしまうのでないか。確かに、その教説は未成熟であるが、後世の地獄論の出発点となった考え方(思想)であることは間違いないであろう。

(カウシータキの二道説)

  二道説は、カウシータキ・第一章にもやや異なった表現で説かれている。説いたのは、プラヴァーハナ・ジャイヴァリ王ではなく、チトラ・ガーングヤーヤニ王である。ここでは、「業と輪廻」ということがはっきりと説かれている。

  チトラ王は、死後の人の運命について、こう説いている。“何人も、この世を去った者は、すべて、月の世界に至る。その者たちの生気によって、月は前半月には増大し、後半月には、減少して、彼らをこの世に再生させる。月は天界の門で、それを通過しようとする者は月の発する問いに答えなければならない。答え得た者は門を通過できるが、答え得なかった者は、雨としてこの世に降りおりなければならない。彼らは、虫や蛾、魚や鳥、あるいは、ライオン、猪、犀、虎、あるいは、人や他のものとして、色々な場所に、各自の業、各自の知識に従って再生する。”

 ・・・この教説では、第三処つまり悪処は前提されていないようだ。月の発する問いに答え得ない者は全て雨としてこの地上に降りおりて、種々の生き物として再生する。月の世界の在留期間は半月であるという。


  さて、月の発する問いとはどのようなものなのか。“お前は何者か。”・・・ただ、これだけだと言う。月の門を通過し、ブラフマンの世界(梵界)に至りたい者はこう答えよ、とチトラ王は説く。“私は父である年(十二ヶ月)より、余分の子(閏年)として生まれた。私は、このことを確信し、疑うことはない。父(年)よ。私を不死に導け。”・・・プラヴァーハナ説では、神道に入った者は、一年から天界に入った。これは、時間を超越したことを意味していた。今、チトラ説では、時間の超越の象徴として、通常年の番外である閏年が用いられたのである。

  こうして、門を通過した者は神道に達し、やがて、ブラフマン(梵天)の世界に至る。梵天は通過者を讃えてこう言う。“この者は不老のヴィジャラー川に達するであろう。彼はもはや老いることはない。”・・・やがて、母精の精女アプサラスが現れて、通過者の全身を梵天の荘厳をもって飾り立てるという。通過者はブラフマンを知る者となって、さらに進む。ここで、ようやっと、業についての決着が図られることとなる。チトラ王は説く。“彼はアーラ湖に至り、意によってこれを越える。しかし、確信のない者は、ここまで至っていても、その底に沈む。湖を越えた者はやがてヴィジャラー(不老)川に達して、意によってこれを越える。その時、彼はその善業と悪業をともに振るい落とす。振るい落とされた善業は彼の愛する親族が受け取る。一方、悪業は彼の憎む親族が受け取る。御者がその眼下に両輪を見るように、彼は昼夜を眼下に見、善と悪の両業および一切の相対世界を眼下に見る。こうして、彼は善業と悪業をともに離脱し、ブラフマンに向かってさらに進む。”・・・

  アーラ湖がどんな湖なのかははっきりしないが、これを越えられない者はその底に沈むとあるから、再び、時間の世界、つまり、再生の運命(輪廻)に引き戻るということであろう。ここを越えられた者は、不老の象徴であるヴィジャラー川に至るという。ブラフマンを知る者は「不老」となって、こうして自らのその「業と輪廻」の世界を超越する。眼下の昼夜とは、時間の超越を意味している。眼下の相対世界とは、善悪の超越を意味している。不老〜業と輪廻の超越〜時間の超越〜善悪の超越。この教説からはこういった流れが確認できるであろう。

  通過者はやがてブラフマンの居城に至る。そこでは、梵天が真理の玉座に座して、通過者を待ち受けていた。そして、こう語りかけた。

 “お前は何者か。”・・・彼は答えた。
“私は年である。年の子である。虚空を母胎として生まれた。妻女の為の精液である。私はあらゆる生類のアートマンである。あなた(ブラフマン)はあらゆる生類のアートマンである。私は即ちあなた(ブラフマン)である。”・・・梵天は再度問うた。“お前は何者か。”・・・彼は答えた。“私はsatyam(真実)である。”・・・梵天は再度問うた。“satyamとはそもそも何者であるか。”・・・彼は答えた。“諸々の神々でもない。諸々の感覚器官でもない。これがsat(実在)である。諸々の神々と諸々の感覚器官、これはtyamである。これsatyamなる語の表すところの意味である。この一切の世界はこれsatyamに尽きる。あなた(ブラフマン)はこの一切の世界である。”・・・こうして、彼、通過者は梵天により、ブラフマンとして認められる所となるのである。

  以上、カウシータキの教説を見てきたが、その教説のポイントをまとめてみたい。第一には、業と輪廻(再生)の思想が明確に説かれているということである。輪廻(再生)の条件として、業に加えて、知識があげられていることにも注目したい。ヴェーダ(知識)の宗教の宗教たる所以である。第二には、アートマンないしブラフマンという概念は、時間を超越した存在であるということである。だから、アートマンもブラフマンも視覚や聴覚、臭覚等の感覚器官の対象とはなり得ない。それは、絶対存在としか言いようがない。第三には、アートマンとブラフマンが、satyam(真実)として捉えられていることである。sat(実在)はウッダラーカ説における「有」であった。現象界はこの本源「有」から展開したものであった。カウシータキの説き方の特徴は、本源と現象界をひっくるめて、satyam(真実)と捉えている所にある。そして、そのsatyam(真実)がブラフマンであり、アートマンなのである。第四には、徹底した個人主義をあげたい。月も梵天もともに、その通過者に発した質問は“お前は何者か”であった。また、通過者をして、時間?のアーラ湖、不老のヴィジャラー川を越えさせるものはその意(おもい)であった。ブラフマンを目指す者は自分自身に徹底的に参ずる以外ないのである。

インド人の死生観・・・ウパニシャッド時代(2)

 ブリハッド・アーラニヤカ、第四篇、第四章には、ヤージニャヴァルキヤ師の業と輪廻説が伝えられている。それは、前章の睡眠の考察に続いて、説かれる。

(死とアートマンの離脱)

  人が、人事不省に陥って、もはや、意識も朦朧となった時の状況を、ヤージニャヴァルキヤ師はこう説明している。“このアートマンが無力に陥り、意識も朦朧となると、諸機能はその周囲に集まってくる。アートマンはこれら諸機能の光明の微粒子を摂取しながら、心臓へ向かって降下していく。まず、眼のプルシャ(人我)が、外界に背を向けて、心臓の方向に向かう。そうすると、その人は眼が見えなくなる。この時、眼のプルシャ(人我)はアートマンと一体となっている。彼は目が見えないと人は言う。彼は臭いがわからない。味がわからない。喋れない。聞こえない。思考できない。触感がない。認識できない。人々はそう言う。この時、それぞれの機能のプルシャ(人我)がアートマンと一体となっているのである。彼のその心臓の先端は光り輝き、その光明の微粒子とともに、そのアートマンは眼から頭から、そして、他の身体の各部分から出てゆく。”・・・

  人の臨終の状況を良く観察している。聴覚と触覚は最後まで残っているようである。認識できないとは、意識がない状態であろう。アートマンが身体から出てゆくとは、今風には、脳死の状態である。恐らく、自然死においては、脳死後、まだ、一瞬、肉体は生きているのであろうことが予想できるからである。これは第一の死。第二の死が次に説かれる。

(業と輪廻転生)

  “アートマンが身体から出て行ってしまうと、生気もそれに従って身体から出てゆく。生気が身体から出て行ってしまうと、諸機能もそれに従って身体から出てゆく。その諸機能はその人が生前に体験した認識を持ったまま降下する。生前の知識と業と意識とはこうしてアートマンの後に従って離れることはない。”・・・

  生気とは生命である。だから、生気が身体から出て行くとは肉体の死を意味している。アートマンは認識主体であり、諸機能を通して外界から取り入れられた情報を制御する内制者であった。肉体の諸機能は肉体の死と共に無くなるけれども、生前にそれらを通して認識された知識と業と意識は肉体の死後も残存し、アートマンの後に従って離れることはないのだと言う。生前の意識とは、それぞれその人の個人性であろうか。日本人流に解釈すれば、誰それさんの霊魂というような感じかも知れない。続けて・・・

  “あたかも草の葉の上の山蛭(やまびる)が、身体をひねらせて葉の先端に達して、別の葉に移ろうとして、再び身体をひねらせて別の葉に歩を進めるように、このアートマンも肉体を棄て、いったん無知になって、別の肉体に移ろうとして、その歩を進めるのである。あるいは、刺繍をする女性が刺繍の一部を取り去って、別に新しく綺麗な文様を刺繍しなおすように、このアートマンも、この肉身を棄て、いったん無知になって、別の新しく綺麗な形、例えば、祖霊、あるいは、乾闊婆(けんだっぱ)、あるいは、神々、プラジャパティー、梵天、あるいは、他の生類の形をとるのである。”・・・

  この教説には、明らかに、輪廻転生が説かれている。しかし、生前の業や知識、記憶が転生にどう関わるのかはまだ説かれていない。また、肉体から抜け出たアートマンはいったん無知になると言っている。これはどういうことであろうか。生前のアートマンは、その人の知識や業、そして、それぞれの個別意識に染まった認識主体であった。しかし、肉体が死んで、アートマンがそこから抜け出し始めると、アートマンはリセットされて、本来の純粋の認識主体に戻るのである。これを、無知にすると言っているのである。一方、その人が生存中に体験した知識や業、個別意識はリセットされない。それらは、そのまま残存し、元のアートマンに付いてゆく。「アートマン+業」が輪廻転生の主体である。

  業と何か。“人は行為と行為のあり方に従って、様々な人となる。善業者は善人となり、悪業者は悪人となる。福業により幸福人となり、悪業により悪人となる。”・・・ここでは、善因善果、悪因悪果が説かれている。

  人の欲望には際限が無い。ヤージニャヴァルキヤ師も既にこのことに気づいていた。“人間はただ欲望よりなっている。人はその欲望のままに意向を起す。その意向のままに様々な行為をする。いかなる行為をしようとも、結果はその人のものである。執着のある人は業に伴われて、ここかしこに、その性向(このみ)と意(おもい)の固着する所にゆく。この世で、彼がどのような行為をなそうとも、その業の生涯が終わりを迎えた時、さらに新しい業を積む為に、あの世からこの世へと、彼は再び帰り来る。”・・・欲望が業の原因であり、その業が輪廻転生の原因である。一言で言えば、こういうことである。また、“執着のある人は業に伴われて”とあるが、その意味するところは、輪廻転生の原因となる業とは欲望に対する執着であるということである。

(不死)

  不死に至るにはどうしたら良いか。“欲望なく、欲望を離れ、欲望を満たし終わり、アートマンのみを希求する者の諸機能は死に際しても身体より離脱しない。彼はブラフマンとなり、ブラフマンに帰入する。心の中に宿るあらゆる欲望が除き去られた時、死すべき者も不死となり、この世においてブラフマンに達する。あたかも脱皮した蛇の皮が脱ぎ捨てられて、蟻塚の上に横たわるように、この肉身は横たわっている。しかし、肉身を持たない不死の生気(アートマン)こそブラフマンであり、光輝そのものである。”・・・

  欲望を滅せよ、とはヤージニャヴァルキヤ師は説いていない。“欲望を満たし終わり”とあるが、これは足るを知って、分に安んじる(知足安分)と言うことであろう。除き去るべき欲望とは、欲望の執着である。アートマンのみを希求する者は、肉体の死とともに、アートマンはその肉体を離脱するけれども、生前に為された業は諸機能の中に残存し、肉体の滅亡とともに、その業も滅亡するというのである。肉体より離脱したアートマンは、リセットされて、本来の純粋の認識主体となるのであるから、それは即ちブラフマンである。

(悪処)

  ヤージニャヴァルキヤ師は悪処については、あまり関心がなかったようである。さらっと、触れるのみである。“謬まった学識に満足する者が、さらなる知識の迷路に入り込むように、無知の者は漆黒の闇の世界に堕ちる。それらの世界は無歓喜と呼ばれ、漆黒の闇で覆われている。真知なく、アートマンを自己の内に見出せなかった者は、死後、これらの世界に赴く。”・・・

  ヤージニャヴァルキヤ師は悪処を説明するのに、悪しき学問のあり方を例示している。師の関心は、あくまでも、知識および梵我の世界であって、輪廻転生あるいは悪処の世界ではなかった。続いて、アートマンを認識することの重要性を強調した後、自らの教説をまとめてこう説く。

(不生のアートマン)

  “諸機能の中において、認識よりなるもの、これこそ、偉大にして不生のアートマンである。それは、一切の支配者として、一切の主催者として、一切の君主として、心臓内の虚空に安らっている。彼は善業によってさらに増大せず、また、不善によってさらに減少しない。彼は、一切の主権者、有類の君主、有類の保護者である。彼はこれらの諸世界を混乱と壊滅から守護する防波堤である。バラモンは、ヴェーダの学習や祭祀、布施、苦行、断食によって、アートマンを知ろうと願う。これらを為し終えた者はムニ(聖者)となる。遊行者はただこれを願いつつ遊行する。古人はこのことを知っていたから、子孫を願わなかったのである。アートマンは即ちこの世界(ブラフマン)である。何故に、子孫をもって何をかする必要があろうか。それ故、遊行者は世間的な全ての欲求から離脱して、行乞するのである。何故ならば、子への思い(欲求)は財産への思いであり、財産への思いは世間への思いであるからである。このアートマンは、ただ、「非ず、非ず」としか、説きようがない。何者にも、彼は捉えられない。彼は破壊されない。彼は染まらない。彼は束縛されない。彼は動揺されない。彼は善悪を超越し、為そうが、為すまいが、それらに悩ませられない。”・・・

  アートマンは不生であるという。「不生」とは「生まれず」ということである。生まれなければ、死なないのだから、「不生」は「不死」ということでもある。生まれた限り、生き続ける為、人は、対象を自己との関係において価値判断し、そして、為すべき行為を決定しなければならない。しかし、不生のアートマンは、そんなことをする必要は無い。アートマンはそもそも価値判断の対象ではないのである。だから、生あるものは、決して、不生のアートマンを見ることは出来ない。また、この説法では、出家遊行が称揚されている。人の欲望には際限がない。在家の生活では子孫、財産、権力、名誉等々、欲しい対象に限りは無い。出家遊行の生活は、このような欲望の生活を最小化しようとする試みである。「不生のアートマン」は出家者の解くべき公案である。どうしたら、一歩でも、不生のアートマンに近づくことが出来るのか。それは欲望を整理することである。その究極に苦行があるのである。

(真のバラモン)

  最後に、ヤージニャヴァルキヤ師は真のバラモンについて述べて、この説法を終えている。

  “これらが、偉大なバラモンのあるべき姿である。それは、業によって増大することもなければ、減少することもない。その足跡を学べば、悪業に染まることもない。だから、このように知る者は、寂静にして制御があり、安祥にして忍耐がある。心が統一されて、自己の内にアートマンを見、この世界の一切をアートマンと見る。悪は彼を克服できない。彼はあらゆる悪を克服できる。悪は彼を焼き尽くせない。彼はあらゆる悪を焼き尽くす。こうして、彼は、悪と汚(けが)れと疑惑を去って、真のバラモンとなる。これ、即ち、ブラフマンの世界である。”・・・

  ヤージニャヴァルキヤ師にあっては、輪廻転生の原因は、欲望とそれへの執着であった。今、悪が語られるとき、悪とは欲望とそれへの執着である。在家ではこれらを克服できない。だから、出家が薦められているのである。真のバラモンとなる為の要件は、出家と遊行、そして、苦行である。宗教家ヤージニャヴァルキヤは最後にこう言いたかったのである。

  教説の最後は、次のような一文で締めくくられている。 “これ、実に、偉大にして不生のアートマンである。不老、不滅、不死であって、無畏、それブラフマンである。ブラフマンは実に無畏。このように知る者は無畏なるブラフマンとなる。”・・・アートマンの本質を言いえて、これ以上のものはあるまい。

(悪意のアートマンについて・・・欲望の認識と業)

  最後に、「悪意」について一考したい。妻マイトレーイーへの説法で、ヤージニャヴァルキヤ師は、“アートマンは認識の塊りであり肉体の死とともに消滅する”と説いている。確かに、死人には何の意識も無い。彼は何も認識出来ない。生存中に認識された彼の「悪意」は、彼の死とともにブラフマンに帰入してしまったのであろうか。そうであるのであれば、アートマンにも「悪意」があるということになる。しかし、アートマンは何ものにも染まらないのであるから、悪意にも染まらないはずである。

  ヤージニャヴァルキヤ説におけるアートマンは認識からなるものであった。そのアートマンは我々の諸機能に入り込み、認識の主体として、我々の諸機能の認識作用を内から統御する内制者であった。だから、悪意もまたアートマンの認識ということになってしったのであるが、ヤージニャヴァルキヤ思想を一通り学んだ今、こう考えることは出来ないであろうか。見たり、聞いたり、嗅いだり、味わったり、触ったり、そして、考えたりする背後にある認識作用は確かにアートマンのものである。しかし、ここで言うアートマンの認識は純粋の認識主体が行う認識作用であって、対象をsatyam(真実)として認識するものである。しかし、我々は対象をsatyam(真実)として認識することが出来ない。何がそうさせるのかと言えば、それは我々の欲望である。欲望はアートマンの認識作用の前に架けられたフィルターである。その人その人によって、フィルターの色は異なる。だから、その人その人ごとに物事の見え方が違うのだ。赤ければ赤く、青ければ青く見えるわけだ。悪意は、例えば、あいつを殺したいという欲望のフィルターを介して認識されたそのフィルターの持ち主の認識なのである。その悪意はその人のものである。決して、アートマンのものではない。

  ヤージニャヴァルキヤ師は臨終時のアートマンの状況をこう説いている。人が死ぬと、アートマンは諸機能から引き上げられ、心臓に集められて、次々と身体から出てゆく。そして、リセットされて、純粋の認識主体となる。一方、諸機能も身体から次々と出て行くのであるが、それは生前にその人が行なった「欲望の認識」つまり「業」として出て行くのであって、純粋の認識主体となったアートマンに付き従う。一方、身体に残った肉体の一部としての諸機能はやがて朽ち果てて、自然界のそれぞれに帰入してゆく。

  確かに、悪意はアートマンの認識力があって、生ずるのであるが、それはその人の欲望のフィルターを通した認識であり、「業」として各諸機能の中に蓄えられ、その人の死後も、生前の業として残存し、輪廻転生の原因となる。悪意はその人の「欲望の認識」であり、アートマンの認識ではない。

  欲望の人生はリセット出来ない。それは業の塊りとなって、欲望の生涯を繰り返す元となる。人は何故にこう愚かなのであろうか。速やかに、出家して、愚かな人生に決着をつけるべきである。ヤージニャヴァルキヤ師はこう訴えたかったのである。仏教に繋がる何かが師の意(おもい)の中にはありそうである。

ウパニシャッドと仏教・・・思想の加上

  宗教学者の中村元先生はその著作の中で“初期の仏教とウパニシャッドや当時の諸文献との関係”について、こう述べられている。

  ゴータマ・ブッダ以前の時代、或いは同時にインドで多くの文献がつくられていた。具体的にいうと、ヴェーダ聖典(ウパニシャッドを含む)はほぼ仏教以前に成立したものである。ジャイナ教聖典、叙事詩マハーバラタや諸法典などは、原型の成立はかなり新しいけれども、その内容には極めて古い要素を含んでいる。これらの典籍と一般の仏典とを比べると、あまりにも相違がいちじるしいが、しかし仏典の最古層とジャイナ聖典や叙事詩の最古層或いは古ウパニシャッドを対比すると、今度は、反対に、あまりにも類似のいちじるしいのに驚いてしまう。それらは直ちに接続してしまい、ほとんど区別がないといっても過言ではない。この事実は従来殆ど学会では問題とされないが、しかし重要である。ところでそのほとんど区別のつかぬ仏教外の諸資料を最古の仏典と比較して、しかもそこに何らかの区別ないし相違を見出し得るならば、それこそまさに人間としての釈尊の有する歴史的意義を明らかにし得るのではなかろうか。

(ゴータマ・ブッダ−釈尊伝−)

 中村先生がここで言うジャイナ聖典や叙事詩の最古層或いは古ウパニシャッドの思想的ルーツはヴェーダ聖典類(リグ・ヴェーダ、サーマ・ヴェーダ、ヤジュル・ヴェーダ、アタルヴァ・ヴェーダ)である。換言すれば、これらの諸思想はヴェーダ思想を紐帯として繋がっているということである。こうして、ヴェーダ〜ウパニシャッド〜仏教という思想の発展過程が確認出来ることとなるであろう。

  さて、このような思想の発展過程を「加上(かじょう)」というキーワードで説明した一町人学者が江戸時代末に現れた。富永仲基(とみながなかもと・1715-1746)である。仲基によれば、どんな思想であれ、思想というものはそれ以前の思想の上に自分たちの思想を加えて、しかも、正統を装って形成されるというのである。仲基はこの思想の形成過程を「加上」と呼んだのである。

  こうした考え方に立てば、ウパニシャッドはヴェーダの思想を深化させたものであり、仲基流に言えば、この深化の過程で、新しい考え方(思想)が加上されて、ウパニシャッドになったわけである。そうすると、釈尊が説かれた教え(法・ダルマ)もまたウパニシャッドの思想に釈尊ご自身が覚られた思想を加上したものであると考えることもできる。中村先生が指摘されているように、仏教や諸思想(外道)の最古層と古ウパニシャッドは直ちに接続してしまい、区別するのも難しいという事実はその「加上」の何よりの証拠である。

釈尊の生い立ちとその時代状況

 釈尊は姓をゴータマ、名をシッダッタといい、現在のネパール南部、インドとの国境近くにあったシャーキャ(釈迦)族の居城カピラヴァットウにスッドーダナ王の長子として今から二千五百年ほど前(中村説・紀元前四六三年頃)に誕生された。母の名をマーヤー妃と言い、釈尊ご誕生の七日後に亡くなられた。その為、父王の後妻に入った叔母のマハーパジャーパティー妃に幼少年期は養育された。王族の生まれであるから、身分はクシャトリヤ(武人)階級である。その民族を蒙古系であるとする説もあるようだが、それは疑問である。アーリア人至上主義の当時のインド社会にあって、有色人種の上位カーストなどは考えられないからである。勿論、蒙古系や先住民の血が婚姻により入っていたであろう事は容易に想像できる。王国では稲作が既に行われていたようで、国はかなり豊かであった。また、スッドーダナ王は絶対君主ではなく、政治制度的には貴族による集団指導が行われていたようである。

  当時の政治情勢はどうであったろう。紀元前千年ごろ、インド亜大陸のパンジャブ地方に進入したアーリア人たちはその後ガンジス川に沿って先住民を征服しながら東進し、ガンジス川中流の肥沃な地帯に定住した。人々は村々を形成し、農耕と牧畜に従事した。これら農村を基盤として、各地にさまざまな政治勢力が成立した。それらの政治勢力は対立と共存、征服と連合を経ながら、有力な国家群に収斂していった。釈尊が誕生された紀元前五百年頃は、有力国家として、王政のコーサラ、マガタ、アヴァンティ、ヴァンサーの四国が数えられ、これら四大国に周囲の弱小諸国が併合されつつある状況であった。一方で、共和制のヴァッジ国も商業都市ヴァイシャリーを中心になお有力であった。このことは、当時の国家独立の条件が強力な軍事力と豊かな経済力にあったことを示している。釈尊は後に自らをコーサラ国の住人と称されている。このことから類推すると、シャーキャ族の国は経済的には独立していたけれども、政治的にはコーサラ国に従属していたと言えよう。

  軍事的な対立と抗争の一方で、国境を越えた広範囲な経済交流は進んだ。軍事的な優位は一に経済力にあった。経済力こそ軍事力の基礎であった。それぞれの王権は経済力の充実に努めたに違いない。農業が主要産業であった当時にあって、農業の生産力は国力を左右しただろうし、また、新しい田畑の開発の為にはより高度な土木技術が求められたかも知れない。だから、国境を越えての人(人材)の移動と物資の流通は各国共通の利益であった。仏典中にみえる長者と呼ばれる商人たちは各国間をつなぐ物資流通の担い手であった。鍛冶工は工業の担い手であって、農機具や武器の生産者であった。その他、大工、織物工、陶工、石工等々、多くの手工業者・職人が存在した。彼らは、組合を結成し、それはセーニと呼ばれた。有力な商人の中にはこれら手工業者たちを統括する者もいたはずである。各地の産品は彼らによって、パンジャブ地方からガンジス川中流までのインド亜大陸の中北部一帯に広く流通した。彼ら商人たちの拠点となったのは都市であった。それらはナガラと呼ばれ、釈尊当時、マガタ国の都ラージャガハ、コーサラ国の都サーヴァッティー、ヴァッジ国の中心都市ヴェーサーリー、ヴァンサー国の都コーンサービー等が今に知られる。また、バーラナーシー(ベナレス)は文化の中心地として、多くの宗教家が集まったことで有名である。初転法輪の地・鹿野苑はこの町の郊外にある。

  ところで、アーリア人の東進はその社会にどのような変化をもたらしたのであろうか。まず、先住民との混血が進んだことを挙げることが出来る。これは先住民に対する征服戦争の一つの結果であるが、中村元先生によれば、それは新しい民族の誕生といってもよい状況であったという。第二に、このような社会状況は、アーリア人が東進を始めて三百年か四百年かこの間ガンジス川中流域のインド亜大陸の中北部一帯は持続的な戦乱状態にあったということである。このような戦乱を勝ち抜いたのが上記の有力な四大国であったわけである。やがて、マガダにマウリヤ王朝が興ってこの地域を統一するのであるが、これは後のことである。とにかく、釈尊当時、この地域は政治的な統一に向け、四大国が周囲の弱小国を併合しつつ、微妙な政治的・軍事的な均衡状態にあったと言えよう。だから、人と物の移動が比較的容易であったと考えられる。第三の変化は身分(カースト)間の力関係に変化が生じたことである。中村先生は先住民との混血化もそのような変化の一要因であると指摘されている。とにかく、武力と経済力がものを言った時代である。クシャトリヤ(武人)階級とヴァイシャ(庶民)階級の社会的影響力が上昇するにつれて、バラモン(司祭)階級のそれは相対的に低下した。もはや、王族や武人たち、あるいは、商人の有力者たちは、バラモン僧の儀式一辺倒の形式主義を信用しなくなった。護持者(スポンサー)たちのバラモン離れが加速した。時代が新しい思想を必要としていた。ウパニシャッドはそのような時代の要請に応えるものであった。ウッダラーカ師やヤージニァヴァルキヤ師はその代表者である。また、王族の中にも哲学を語る者が現れる。これも事実であったのであろう。

  インド人にとってのダルマ(法)とは、宇宙(天)、自然、社会、個人、この一切世界の秩序を含む概念である。バラモンとはこのダルマ(宇宙秩序)を司る存在である。社会の変化にともなって、ダルマの概念も変化したのである。しかし、旧来のバラモン僧はこの変化についていけなかった。こうして、新しい宗教家(バラモン)が求められた。新しいダルマを求めて数多くの修行者が国境を越えて遊行した。釈尊もその中の一人であった。時代と社会が彼らを養ったのである。宗教家は国々を超えての当時の人々にとっての共有の知的財産であったと言うことも出来よう。時代と社会が彼らを必要としていた。仏教を含めての七つの新しい思想(宗教)がほぼ同時代に生まれた理由がここにある。第四の社会的変化とは新しい思想(宗教)の登場である。

  このような時代と社会状況を背景として、仏教は誕生した。その誕生は勿論釈尊ご自身の真摯な求道の結果であるけれども、それを誕生させた社会的背景も重要である。新思想(宗教)はその時代と社会状況の上に旧来の思想と新しい考え方が加上されて作り出される。だから、それぞれの思想(宗教)の基底にはそれが生み出された時代と社会状況が隠されているのである。

釈尊ご出家の動機

 釈尊ご出家の動機を二つの方面から考えてみたい。

(人は何故、老い、病み、死ななければならないのか)

  出家とは書いて字のごとく“家を出る”ことである。この場合の「家」とは在家の生活のことである。釈尊は若き日の生活を回想してこう述べられている。

  私は、いとも快く、無常に快く、極めて快くあった。我が父の邸には蓮池が設けられてあった。そこには、ある処には青蓮華が植えられ、ある処には紅蓮華が植えられ、ある処には白蓮華が植えられてあったが、それらはただ私のために為されたのであった。私はカーシー(バーラナーシー)産の栴檀香以外には決して用いなかった。私の被服はカーシー産のものであった。下着はカーシー産のものであった。

  上着はカーシー産のものであった。寒、暑、塵、草、露が私に触れることがないように、実に、私の為に昼夜ともに白い傘蓋がたもたれていた。その私には三つの宮殿があった。一つは冬のため、一つは夏のため、一つは雨期のためのものであった。そうして、私は雨期の四ヶ月は雨期に適した宮殿において、女だけの伎楽に取り囲まれていて、決して宮殿から下りたことはかった。例えば、他の人の邸では、奴僕、召使、使用人には米飯に酸い粥がそえられて与えられるが、私の父の邸では奴僕、召使、使用人に米飯と肉とが与えられていた。

  まことに、羨ましい限りの日常生活である。しかし、この恵まれすぎた日々に、釈尊は虚しさ、違和感を覚えられたようである。回想は続く・・・

  私はこのように裕福で、このように極めて快くあったけれども、このような思いが起こった。無学なる凡夫は、自ら老いゆくもので、同様に老いるのを免れないのに老衰した他人を見て、考え込んでは悩み、恥じ、嫌悪している。自らもまた老いゆくもので、老いるのを免れない。自分こそ老いゆくもので、同様に老いるのを免れないのに、老衰した他人を見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう・・・

  このことは私にはふさわしくない、と言って。私がこのように観察した時、青年時における青年の意気は全く消え失せてしまった。無学な凡夫は、自ら病むもので、同様に病いを免れず、病んでいる他人を見て、考え込んでは悩み、恥じ、嫌悪している。自らもまた病むもので、病いを免れない。自分こそ病むもので、同様に病いを免れていないのに、病人である他人を見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう・・・このことは私にはふさわしくない、と言って。私がこのように観察した時、健康時における健康の意気は全く消え失せてしまった。

  無学な凡夫は、自ら死ぬもので、同様に死を免れず、死んだ他人を見て、考え込んでは悩み、恥じ、嫌悪している。自らもまた死ぬもので、死を免れない。自分こそ死ぬもので、同様に死を免れないのに、他人が死んだのを見ては、悩み、恥じ、嫌悪するであろう・・・このことは私にはふさわしくない、と言って。私がこのように観察した時、生存時における生存の意気は全く消え失せてしまった。

(増支部経典)

 釈尊はここで“このように観察した”と述べられているが、これはどういうことであろうか。考えるに、釈尊は生後まもなく生母を失い、実母の顔を知らない。それでも、継母のマハーパジャーパティー妃は釈尊を実子と同じように愛情こめて養育したに違いない。しかし、本当の母親の顔を知らない寂しさ、悲しさを少年シッダッタはどうすることも出来なかったのであろう。釈尊は感受性の強い、神経質な、やや夢想癖のある子供であったのであろう。釈尊は少年時代を回想されてこう述べられている。

 
また、私は父シュッドダーナ王が務めを行っている時に、畦道のジャンプー樹の陰に坐って、欲望を離れ、不善のことがらを離れて、粗なる思慮あり微細なる思慮ある、厭離から生じた喜楽である初禅を成就したのをよく覚えている・・・これが実に覚りに至る道であろうと思って。

(長部経典)

 ここで父王が行っている務めは春の初めの農耕初めの儀式であろう。王子は儀式の席をはずして、樹下で瞑想していたという。老いと病いと死はこのような瞑想の下で観察されたものであったのであろうか。少年が樹下で瞑想するとは驚きであるが、“初禅を成就した”とあるから、正式のヨーガ(坐禅)を行じたのであろう。釈尊はその瞑想法を誰かからか習ったはずである。釈尊は王族(クシャトリヤ)であるから、武芸一般、政治、軍学などとともに、王族の素養としてヴェーダやウパニシャッドも学ばれたはずである。この時、恐らく、瞑想法も学ばれたのであろう。

  さて、釈尊ご出家の動機は後世「四門出遊」の説話としてまとめられたものが有名である。話はこうである。ある時、シッダッタ太子は遊園に出かけようとして、城の東門から出られると、老人に会われた。また、ある時、同じく、南門から出られると、病人に会われた。また、ある時、同じく、西門から出られると、死人とその葬列に会われた。次々と、太子は人間の老病死の現実に直面されて、落胆し、意気消沈し、深く悩まれて、その解決法を願われた。そして、ある時、同じく遊園に出かけようとして、北門から出られると、出家者に会われた。太子はその凛々しい立派な姿に感銘し、出家を決意されたと言う。この説話は、恐らく、先の釈尊の回想を土台に作られたものであると思うが、出家者の話は余分である。先の話をされた釈尊のご真意がぼかされてしまっている。

 釈尊出家のそのご真意はご自身の肉体にも必然的に運命付けられている老病死という非情な現実とそこから生じてくる苦しみの解決にあったはずである。しかも、この話を聞いている修行者達もまた釈尊同様の運命にある。だから、釈尊は自らの体験を話されたのだ。真の仏教徒であれば、こう理解せねばならない。人間は、何故に、老い、病み、そして、死ななければならないのか。老病死の実態とその事実から必然的に生じてくる苦しみからの解放(解脱)が釈尊ご出家の第一の目的であった。これは間違いないことであろう。


(わたしは二十九歳で、善を求めて出家した)

 ところが、釈尊は最後の仏弟子スパッダに対し、自らの出家の目的をこう述べておられる。


スパッダよ。わたしは二十九歳で、善を求めて出家した。
スパッダよ。わたしは出家してから五十年余となった。
正理と法の領域のみを歩んで来た。
これ以外には道の人なるものも存在しない。

(大パリニッバーナ経)

 ここでは、釈尊はご自身の出家の目的を“善の追求”としている。ことの真相を知るためには話の前後の事情を知る必要がある。最後の旅の途上にあった釈尊はクシナーラの地にあった。たまたま、その地にあった遊行者スパッダはそのことを知り、釈尊との面会を願った。従者のアーナンダは師の身体を気遣ってそれを断ったのだが、釈尊はアーナンダを諌めて面会をお許しになった。その冒頭の話である。スパッダは釈尊に冒頭このような質問を投げかけたという。“ゴータマさん。世の中には、プーラナ・カッサパ、マッカリ・ゴーサーラ、アジタ・ケーサンカンバリン、パクダ・カッチャーヤナ、サンジャヤ・ペーラティプッダ、ニガンタ・ナータプッタ...これらの著名な宗教家がいますが、彼らはその説くところを自分の智をもって知ったのでしょうか、あるいは、すべて何も知らないのでしょうか。また、彼らの内、ある者は知っていて、ある者は知らないのでしょうか。”・・・釈尊はスパッダの質問には直接答えられず、こう話されたという。“どのような宗教(教えと戒律)であれ、尊い八支よりなる道が存在しない宗教には真の修行者(道の人)はいない。逆に、どのような宗教(教えと戒律)であれ、尊い八支よりなる道が存在する宗教には真の修行者が存在する。

 我が教えと戒律には尊い八支よりなる道が存在する。宗教の優劣を議論することは虚しい。スパッダよ。この八支よりなる道に正しく住しなさい。”・・・尊い八支よりなる道とは八正道のことである。ここでは、それが宗教のあり方を見極める為の方法・手段として説かれている。その宗教は正しいものの見方・考え方(正見・正思
惟)をしているか。そのものの見方・考え方に基づいて、正しい言葉遣い・行い・生活(正語・正業・正命)が為されているか。そのような行いと生活の実現の為に正しい努力(正精進)がなされているか。このような日々の努力の行いと生活とによってその教え(宗教)とその教えの説くものの見方と考え方に対する正しい確信(正念)が持てているか。結果、正しい心の安らぎ(正定)が実現しているか。

  質問者のスパッダが冒頭に掲げた宗教家たちは、六師外道と呼ばれている人々である。ここは、まず、彼らのその考え方を一瞥しておこう。プーラナ・カッサパ道徳否定論を主張し、善悪による業報を否定した。マッカリ・ゴーサーラは宿命論者である。輪廻転生の期間は予定されており、自己の意思ではどうすることも出来ない。苦楽も解脱も偶然であり、従って、業による因果応報はないと主張した。アジタ・ケーサンカンバリンは唯物論者である。人間の身体は物質(地・水・火・風)よりなっている。死後、身体を構成していた各要素は自然界に帰入し、無に帰するのであり、霊魂や来世なるものはない。善悪の業による因果応報はないのだから、道徳や宗教は必要がないと主張した。パクダ・カッチャーヤナも唯物論者である。

 パクダはアジタの四元素説に霊魂・苦・楽の三元素を加え、人間の身体は七元素により構成されていると考えた。しかも、この七元素は創造されたものではなく,元々この世界に存在するものであり、不変である。他の元素を害することもなく、また、他の元素から害されることもない。だから、殺す者もなく、また、殺される者もいない。剣がただこれら七要素の間を通過するのみであると主張した。サンジャヤ・ペーラティプッダは懐疑論者である。彼は形而上学的な質問、例えば、来世の有無、因果応報の有る無し等の事柄に対し、確定的な回答を与えず、判断中止の立場を取った。これらは、不可知論と呼ばれている。


  ニガンタ・ナータプッタはジャイナ教の開祖である。ニガンタは諸思想対立の時代状況の中にあって、思想的には相対主義の立場を取った。また、ヴェーダの権威とバラモン僧の祭祀を否定し、階級制度にも反対した。そして、何人においても尊崇すべき法(ダルマ)があると考えた。この世界(宇宙)は五つの実在体より構成されている。霊魂と運動の条件・静止の条件・虚空・物質の五つである。霊魂以外の四つを非霊魂と言う。虚空の中に他の四つの実在体が存在してこの世界(宇宙)を形作っている。人間が身・口・意の三業の行為を為すと、その業によって霊魂に微細な物質が付着し、業身が形成される。この付着を流入といい、霊魂を束縛し、その本性を覆い隠している。この束縛を繋縛といい、この繋縛の為に人間(霊魂)は輪廻転生の生涯を繰り返し、苦しみの止むことはない。かかる輪廻転生の苦しみから解脱するにはどうしたら良いか。第一には、苦行によって過去の業を滅ぼす。第二には、新しい業の流入を防止して、霊魂を浄化し、霊魂の本性を発現させる。これらを制御という。修行を徹底し、解脱を実現する為には出家遊行しかない。出家者の戒律厳守は徹底されており、特に、不殺生と無所有が重視された。一方で、断食による死が賞賛された。こうした修行の結果、業の繋縛が解かれて、霊魂はその本性を回復する。これを止滅といい、修行者はジナ(勝者)となる。その霊魂はもはや輪廻することはない。

  六人の宗教家の思想をざっと見てきた。サンジャヤの懐疑論を含めて、初めの五人は明らかに善悪の業と因果応報を否定している。ジャイナ教のニガンタは善悪の業と因果応報は認めているようではあるけれども、霊魂と物質等から構成される実在体論を立てて、ブラフマンとアートマンを否定している。道徳否定論のプーラナを含めての三人の唯物論者たちが梵我を否定していることは明らかである。

  このような六人の宗教家のものの見方・考え方を念頭に、釈尊は冒頭に引用した発言をされているのである。そして、宗教のあり方を見極める手段としての八正道を説かれた上で、正しいものの見方・考え方の基準として「善」を説いておられるのである。そして、次に、善の基準としての「正理と法の領域」を示されたのである。正理と法の領域とは社会的合意として当時の人々に広く認められていた宗教観、人間観等を指している。基本的な考え方としては二点ある。一つは、世界(宇宙)と個人の関係に関する事柄である。世界の本質であるブラフマンと個人の本質であるアートマンは本源においては同一のものである。いわゆる「梵我一如」という考え方である。もう一つは業と輪廻に関する事柄である。善き行為(業)は善き結果を生み、悪しき行為(業)は悪しき結果を生む。人は自ら積んだ業によって輪廻転生の生涯を繰り返す。いわゆる「因果応報・輪廻転生」という考え方である。

  若き日の釈尊がヴェーダ聖典やウパニシャッドを学ばれたであろうことは既に述べた。形式化し、祭式(儀礼)第一主義に陥ってしまっていた当時のバラモン僧たち、そして、インド・アーリア人の宗教伝統や社会常識に反する教えを説き広める新興宗教家たち。若き日の釈尊は彼らの行為を見ておられたはずである。かかる世の宗教家たちの堕落と悪徳を見るにつけ、釈尊は自らのアイデンティティーとしてのインド・アーリア民族の宗教伝統、つまり、「ヴェーダのダルマ(法)」を再自覚されたはずである。だから、今釈尊が説かれる「善」とは広く「ヴェーダのダルマ(法)」ということである。特に、伝統の死生観(業と輪廻転生)に反する考え方が、社会の一部とは言え、人々に受け入れられていることに、釈尊は危機感を持たれたのではなかろうか。そうすると、ここで、釈尊がスパッダに対して説かれている「善」は、因果応報説における“善因善果・悪因悪果の「善」”ではなかろうか。我々を輪廻転生の苦しみから解脱させる「善」である。かかる輪廻転生の苦しみからの解脱こそ釈尊ご出家の第二の動機である。これは第一のご出家の動機である“老病死の苦しみの解決”と密接に関係している。

仏教以前・・・その先行思想

 仏教はウパニシャッド思想に釈尊の考え方が加上されたものである。仏教の基本となったウパニシャッド思想とは如何なるものであったのであろうか。ウパニシャッドの二大論師はウッダラーカ師とヤージニァヴァルキヤ師であるが、両師の論点は対照的である。「存在(宇宙)論」のウッダラーカ。「人間論」のヤージニァヴァルキヤ。一言で言えばこう言えよう。ウッダラーカ師は出家にはあまり関心がなかったようである。一方、ヤージニァヴァルキヤ師の出家願望はかなりのものであったようだ。だから、出家前の釈尊もこのようなヤージニァヴァルキヤ師の考え方にかなり影響されたのではないか。もしかしたら、二人の思想は根っこでは繋がっているのではないか。こうした観点からも、もう一度、ヤージニァヴァルキヤ師の思想を確認しておきたい。

  まず、ヤージニァヴァルキヤ師の説く人間観である。人間存在をどう見るか。これは宗教なるものの基礎である。師は人間存在についてこう説いている。

  この人我(アートマン)身体(肉体)を得るや、諸悪と結合する。身体(肉体)が死んで、彼がその身体(肉体)を去るや、諸悪は捨離される。

(ブリハッド・アーラニヤカ・第四編、第三章)

 これは、睡眠の考察の中で述べられた見解である。それによると、認識の主体であるアートマン(人我)はあの世(一なる世界・ブラフマン)とこの世(覚醒時および睡眠時)を往還するものであり、睡眠は第三の状態である。しかも、熟睡の時は最も一なる世界(ブラフマン)に近いのであって、その時、人は憂苦を超越している。上の一文はかかる説明の直後に説かれたものである。人間の身体(肉体)こそが諸悪の源泉だと言うのだ。これは明らかに「性悪説」である。アートマンと結合した諸悪は身体の死とともにアートマンから分離される。分離された諸悪はどうなるのであろうか。師はその行く末をこう説いている。

  アートマンが身体から出ていってしまうと、生気もそれに従って身体から出てゆく。生気が身体から出て行ってしまうと、諸機能もそれに従って身体から出てゆく。その諸機能はその人が生前に体験した認識をもったまま降下する。生前の知識と業と意識とはこうしてアートマンの後に従って離れることはない。

  あたかも草の上のヤマビルが、身体をひねらせて葉の先端に達して、別の葉に移ろうとして、再び身体をひねらせて別の葉に歩を進めるように、このアートマンも肉体を棄て、いったん無知になって、別の肉体に移ろうとして、その歩を進めるのである。

  あるいは、刺繍をする女性が刺繍の一部を取り去って、別に新しく綺麗な文様を刺繍しなおすように、このアートマンも、この肉身を棄て、いったん無知になって、別の綺麗な形、あるいは、祖霊、ケンダッパ、神々、プラジャパティー、梵天、あるいは、他の生類の形をとるのである。

(ブリハッド・アーラニヤカ・第四編、第四章)

 ここでは、輪廻転生のことが説かれている。業は諸機能(気息・語・眼・耳・思考力)の中に蓄えられていて、人が死ぬとそれらは身体から出て行って、先に出て行ったアートマンに付き従う。この文章からはアートマンが輪廻転生の主体であるかのような印象を受けるが、アートマンは無知すなわち元の純粋の認識に戻るというのであるから、アートマンがはたして輪廻転生の主体となりうるのであろうか。続けて、師はこう説いている。

  人は行為と行為のあり方に従って、様々な人となる。善業者は善人となり、悪業者は悪人となる。福業により幸福人となり、悪業により悪人となる。

 
ここでは、業というものの働きが明らかにされている。業の主体は「人間」である。人間の身体(肉体)が業の生み手なのである。しかも、この人間の身体は諸悪の源泉である。この上で、善業は善を生み、悪業は悪を生むと師は教える。いわゆる、善因善果、悪因悪果が説かれている。しかし、まだ、輪廻転生の主体は明かされていない。続けて、師はこう説き続ける。

  人間はただ欲望よりなっている。人はその欲望のままに意向を起す。その意向のままに様々な行為をする。いかなる行為をしようとも、結果はその人のものである。執着のある人は業に伴われて、ここかしこに、その性向と意の固着する所にゆく。この世で彼がどのような行為を為そうとも、その業の生涯が終わりを迎えた時、さらに新しい業を積む為にあの世からこの世へと、彼は再び帰り来る。

  ようやっと、輪廻転生の主体が明らかになった。それは、欲望の趣くままに、ここかしこに、執着してやむことのない人間の作る「業」である。ここで、師が説いている「欲望」とは業の原因としての欲望であり、しかも、業を実際に作るのはその欲望に対する「執着」である。輪廻転生の主体はこれで業ということになった。一方、アートマンの方はどうであろうか。人が死んでその肉体からアートマンが離脱すると、それは純粋の認識主体にリセット(無知)される。その人が生前に積んだ業はそのアートマンに付き従うと言うが、今、業が輪廻転生の主体であることになったのだから、理屈上は「業」に「アートマン」が付き従うということになるのではないか。業は新しい身体を得て、認識主体であるアートマンを通して再び業を作り続ける。これでは、永遠に、輪廻転生を続けることになる。輪廻転生の悪循環を断ち切り、不死を実現するにはどうしたら良いのか。師は続ける。

  欲望無く、欲望を離れ、欲望を満たし終わり、アートマンのみを希求する者の諸機能は死に際しても身体より離脱しない。彼は、ブラフマンとなり、ブラフマンに帰入する。心の中に宿るあらゆる欲望が除き去られた時、死すべき者も不死となり、この世において、ブラフマンに達する。あたかも脱皮した蛇の皮が脱ぎ捨てられて、蟻塚の上に横たわるように、この肉身は横たわっている。しかし、肉身を持たない不死の生気(アートマン)こそブラフマンであり、光輝そのものである。

  ここでは、梵我一如のことが説かれている。欲望無く、欲望を離れ、欲望を満たし終わりとは、もはや何の欲望も生じない状態を言っている。これはアートマンのみを希求する者の到達する心境である。こうして、アートマンのみを希求する者の諸機能は死に際しても身体より離脱しない。これはどういうことであろうか。諸機能は業の蓄積場所であった。何の欲望も生じなくなった時、その人の業はことごとく滅せられたのであろうか。業がことごとく滅せられたのだから、諸機能は全くの空っぽになってしまったのであろうか。空っぽの諸機能が死に際して身体より離脱しないのであれば理屈に合う。続いて、心の中に宿るあらゆる欲望が除き去られたとあるから、ヤージニァヴァルキヤ師の中にあっては、過去に蓄積されたあらゆる業(欲望)が除き去られたという認識であったのであろう。この時、その人は不死となる。そうであろう。彼はもはや輪廻転生しないのだから。

  アートマンのみを希求し、心の中のあらゆる欲望が取り除かれた時、その人はアートマンとなる。死すべき人も不死となり、この世でブラフマンに帰入する。そう、ヤージニァヴァルキヤ師は説くが、その方法や如何。師は続けてこう説いている。

  微かだが、太古よりの道は私まで伸びていて、わたしはそれを見出した。賢明にしてブラフマンを知る者はこの道を踏みつつ、解脱してこの世より上って、天界に達する。白・青・黄・緑・赤の五色のこの道は、実に、ブラフマンにおいて見出される。ブラフマンを知る者。善を行う者。光明と一体化した者。これらの者はこの道を辿って天界に向かう。人もしアートマンを認識し、自分はアートマンなりと知れば、何を望み、何の為に肉身に従って苦しむ必要があろう。

  この肉身の深淵に沈むアートマンを見出し、これを悟証した人あらば、その人こそ造一切である。彼は一切の創造者であって、世界は彼に属する。彼こそが世界そのものである。  我らは現世にあって、しかも、このことを知ることが出来る。そうでなければ、無知と大いなる破壊があるのみである。それを知る者は不死となる。しかし、その他の者たちはただ苦しみの世界に至るだけである。

  アートマンを神として、過去および未来の主催者としてそれらを認識すれば、何ゆえ、過去や未来から逃げる必要があろう。年月の重なりは時間とともに変化する。その前に伏して、神々はそれアートマンを光明の中の光明として、不死の生命として信奉する。その中において万物と空間とが安立するもの。これこそがアートマンである。知者として自ら不死となり、これこそ不死のブラフマンであれと。

  気息の真髄、また眼の真髄、はたまた耳の真髄、意の真髄、これらを知る者。これ太古のブラフマンを覚れる者である。意によってのみ観察されなければならない。この世には何らの差異もないのだ。あたかも差異あるがごときに観察する者。彼は実に死より死へ移り往くのみである。

  この不滅・常住なるものはただ統一的にのみ観察されなければならない。このアートマンは無垢であって、虚空を超越し、不生にして、偉大であり、常住である。賢明なるバラモンはアートマンを認識し、自ら智慧を勝ち摂るべきである。多くの言葉と論理を弄して思念してはならない。それはただ言語を疲労させるだけである。

  アートマンへの道を知ったヤージニァヴァルキヤ師の感嘆の声が行間から聞こえてくるようだ。その道はかぼそい。しかし、私にも繋がっているのだ。ブラフマンを知る賢者達は、解脱してこの道を辿り、この世より上昇してブラフマンの世界に達する。その道は五色である。それはブラフマンでのみしか見出せない。ブラフマンを知る者。善を行う者。そして、アートマン(光明)と一体化した者。彼らはこの道を辿って天界に向かう。アートマンを認識し、自らアートマンなりと知れば、何ゆえに、この肉体に執着して苦しむ必要があろうか。この肉身の深奥に潜むアートマンを見出し、悟証する人があれば、その人はこの世界の創造者(造一切)である。神々をも支配するアートマン。だから、神々さえそれを光明の中の光明として、不死の生命として信奉するのだ。神々と我らと万物すべてをこの空間に安立させているもの。それこそ、アートマンである。知者となり、自ら不死となる。そして、ブラフマンとなれ。気息の中の、眼・耳・意の中のアートマンを知る者は、即ち、ブラフマンを覚った者である。

  ブラフマンとアートマン、そして、この世界の成り立ち(構造)をまず知れ。ヤージニァヴァルキヤ師はこう言いたいのである。ここまでは、“知識による観察”の勧めである。次に、師はさらに一歩を進めて、知識を超える方法を説く。「意」によって観察せよと言う。意とは意志のことである。アートマンをどうしても知りたいという強い意志である。仏教の言う発心に当たる概念に近いかも知れぬ。アートマンとは、神々と人間、そして、万物に普く浸透していて、内制者として、それぞれの存在を内から統御している普遍者であった。だから、師の説くように、この世界は本質(アートマン)においては平等であって、何らの差異はない。これがこの世界の実相である。自らの意志によってこう観察せよとヤージニァヴァルキヤ師は教えている。差異を観察する者たちの行く末についてはどうか。師は断言する。彼らは輪廻転生を繰り返すのみと。

  次に、「統一的」に観察せよと言う。これはどういうことを言っているのであろうか。アートマンは無垢(純粋)であって、虚空を超越し、不生にして、不滅・常住である。それは差異相を超越している。差異相は人知(知識)による観察の結果である。このように、人知に頼っていては、到底、アートマンを知ることは出来ない。だから、ここでヤージニァヴァルキヤ師の言う“統一的な観察”とは人知を超えた観察ということである。それは“霊性による観察”としか言いようがない。その証拠に、続いて、師はこうといている。賢明なバラモンはアートマンを認識し、自ら智慧を勝ち取らなければならないが、言葉と論理を弄してはならない。何故なら、アートマンは言葉と論理を超越しているのであり、いかほど、努力したにせよ、言語化・理論化することは出来ない。ただ、言葉がくたびれるだけである。霊性によるしかないのである。解決は出家しかない。

  諸機能の中において、認識よりなるもの、これこそ、偉大にして不生のアートマンである。それは、一切の支配者として、一切の主催者として、一切の君主として、心臓内の虚空に安らっている。彼は善業によってさらに増大せず、また、不善によってさらに減少しない。彼は、一切の主権者、有類の君主、有類の保護者である。彼はこれらの諸世界を混乱と壊滅から守護する防波堤である。バラモンは、ヴェーダの学習や祭祀、布施、苦行、断食によって、アートマンを知ろうと願う。これらを為し終えた者はムニ(聖者)となる。

  遊行者はただこれを願いつつ遊行する。古人はこのことを知っていたから、子孫を願わなかったのである。アートマンは即ちこの世界(ブラフマン)である。何ゆえに、子孫を持って何をかする必要があろうか。それ故、遊行者は世間的な全ての欲求から離脱して、行乞するのである。何故ならば、子への思い(欲求)は財産への思いであり、財産への思いは世間への思いであるからである。このアートマンは、だだ、「非ず、非ず」としか、説きようがない。何者にも、彼は捉えられない。彼は破壊されない。彼は染まらない。彼は束縛されない。彼は動揺されない。彼は善悪を超越し、為そうが、為すまいが、それらに悩ませられない。

  アートマンは不可捉である。捉えられない対象をどう捉えようというのか。アートマンは、唯、「非ず、非ず」としか、表現のしようがない。だから、世間的な全ての欲求を否定するしかない。世間的な欲望。それは、子孫を残したいという願望である。子と財産への執着である。出家しかこの思いを断つことは出来ない。人間としての身体(肉身)がそう願いそう執着するのである。苦行や断食しかその執着を絶つことは出来ない。世俗生活の否定(出家)と身体の否定(苦行・断食)、二つの否定のその否定しきった先にアートマンは見えてくるとヤージニァヴァルキヤ師は考えたのではなかろうか。しかし、師は苦行、断食の前に、ヴェーダの学習や祭祀、布施、を取り上げている。これはどういうことであろうか。この世界(宇宙)と人間、および、社会に関する知識、つまりは、宗教家(バラモン)としての常識あっての出家であると師は言いたいのである。

  そして、ヤージニァヴァルキヤ師はあるべき修行者(バラモン)の姿をこう述べて、ブリハッド・アーラニヤカ・第四編、第四章の説法を終えている。これらが、偉大なバラモンのあるべき姿である。それは、業によって増大することもなければ、減少することもない。その足跡を学べは、悪業に染まることもない。だから、このように知る者は、寂静にして制御あり、安祥にして忍耐がある。心が統一されて、自己の内にアートマンを見、この世界の一切をアートマンと見る。悪は彼を克服できない。彼はあらゆる悪を克服できる。悪は彼を焼き尽くせない。彼は悪を焼き尽くす。こうして、彼は、悪と汚れと疑惑を去って、真のバラモンとなる。これ、即ち、ブラフマンの世界である。

  ヤージニァヴァルキヤ師の主張する所は、あくまでも、知識による学習である。出家遊行の生活にあっても、知識による学習を棄ててはならぬと師は説いているのである。その出家者の学習とは、霊性を通しての知識の学習でなければならない。ヤージニァヴァルキヤ師は直接そう説いてはいないが、そうでなければ辻褄が合わない。それぞれの出家修行者は「アートマンとは何ぞや」という公案(命題)をヤージニァヴァルキヤ師よりもらったのである。修行者ゴータマも例外ではなかったはずである。

釈尊の出家と修行

 ここでは、修行者ゴータマがヤージニァヴァルキヤ師より与えられた「アートマンとは何ぞや」という公案にどう取り組み、どう解決したかを取り上げる。但し、他の修行者とゴータマの違うところはアートマンを“究極の善”と捉えていたことである。アートマンとの合一は究極の善の実現であり、同時に、それは輪廻転生の輪からの解脱であり、不死の実現である。

(二人の師・・・瞑想の修行)

  出家間もない頃の釈尊が二人の著名な瞑想家を尋ねられたことが経典には伝えられている。一人目はアーラーラ仙である。経文は釈尊の回想としてこう伝えている。

  私はかくのごとく出家して、善なるものを求め、絶妙なる寂静の境地を求めつつ、アーラーラ・カーラーマのいるところに往った。そこに往ってアーラーラ・カーラーマにこのように語った。「アーラーラ・カーラーマよ、私はあなたのこの法と律とにおいて清浄行を行おうと願うのです」と。こう言った時に、アーラーラ・カーラーマは私にこのように言った。「賢者よ、ここにいなさい。この法は、そこに留まるならば、知者は久しからずして自ら師と等しいものを自ら知り、証し、体現し得るほどのものである」と。かくて、私は、ただ唇を打つ程度、ただおしゃべりする程度には知識の言葉を語り、長老の言葉を語ることが出来、「われは知る」「われは見る」と自他ともに認めるほどになった。

  その時、私は次のように思った。「実に、アーラーラ・カーラーマはこの法をただ信ずるだけで“われ自ら知り、証し、体現しているのである“と告げているのではない。実に、アーラーラ・カーラーマはこの法を知り見ているのである」と。そこで私はアーラーラ・カーラーマのいるところへ往った。そこへ往ってアーラーラ・カーラーマにこのように訊ねた。「尊者カーラーマよ。あなたはどの程度までこの法を自ら知り証し体現してわれわれに告げておられるのですか」と。こう言われた時にアーラーラ・カーラーマは無所有処を宣説した。その時、私はこのように思った。

  「アーラーラ・カーラーマにのみ信仰があるのではない。私にもまた信仰がある。アーラーラ・カーラーマにのみ精進があるのではない。私にもまた精進がある。アーラーラ・カーラーマのみに念があるのではない。私にもまた念がある。アーラーラ・カーラーマにのみ精神統一があるのではない。私にもまた精神統一がある。アーラーラ・カーラーマにのみ智慧があるのではない。私にもまた智慧がある。さあ、私はアーラーラ・カーラーマが“自ら知り証し体現している”と称しているその法を証することに努めよう」と。そこで私は久しからずして速やかにその法を知り証し体現することとなった。

  そこで、私はアーラーラ・カーラーマのいるところへ往った。そこへ往って、アーラーラ・カーラーマに言った。「尊者アーラーラ・カーラーマよ。あなたはこの法をこの程度にまで自ら知り証し体現して告げられるのですか」と。カーラーマは答えた。「尊者よ。私はこの程度にまでこの法を自ら知り証し体現して告げているのです」と。私は言った。「尊者よ。私もまたこの程度にまでこの法を自ら知り証し体現しているのです」と。

  カーラーマは言った。「尊者よ。かくのごとき尊者を、修行を共にする人とみなすことが出来る我々は幸せであり、まことに幸福です。このように、私が自ら知り証し体現して告げるその法を、あなたも自ら知り証し体現しておられる。あなたが自ら知り証し体現しておられるその法を、私も自ら知り証し体現して告げるのです。このように、私が知っている法を、あなたも知っておられる。あなたが知っておられる法を、私も知っている。かくのごとく、あなたは私のごとくであり、私はあなたのごとくである。尊者よ。さあ、来たれ。われら二人でこの衆を統率しましょう」と。

  このように、アーラーラ・カーラーマは、私の師でありながら、弟子である私を自分と同等に置いて、大げさな尊敬供養によって私を尊敬供養した。その時、私はこのように思った。「この法は厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、知に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ無所有処を獲得し得るのみ」と。そこで、私はその法に飽き足らず、出で去った。

(中阿含経)

 無所有処とはヤージニァヴァルキヤ師の説く“欲望無く、欲望を離れ、欲望を満たし終わった心境なのであろうか。それは何らの欲望も生じなくなった心の状態であるはずである。何故ならば、所有欲は人間の欲望の根っこに共通にあるものだからである。無所有処が仮にヤージニァヴァルキヤ師の説く“欲望無く、欲望を離れ、欲望を満たし終わった”心的状況“であるとしよう。師によれば、それは“アートマンのみを希求する者”の至る心境である。その時、その人の諸機能は“死に際しても身体より離脱しない。彼は、ブラフマンとなり、ブラフマンに帰入する”のだと師は言う。

  修行者ゴータマはヤージニァヴァルキヤ師の教説の忠実な実践者として、“アートマンのみを希求する者”であった。カーラーマ師の下にあって、師匠が自ら知り証し体現したその法を、ゴータマもまた、自ら知り証し体現した。しかし、至り得た禅定(瞑想)の心中にあっても、探し求めたアートマンには出会えなかった。だから、“この法は厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、知に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ無所有処を獲得し得るのみ”として、師の下を去ったのである。

  二人目の瞑想家はウッダカ仙である。この師の至った境地は非想非非想処と経文は伝えている。非想とは想いがないということである。非非想で想いがないことをさらに否定している。何ともややこしい説明だが、要は、想うでもなし、想わないでもなしということである。シャーンディリヤ師はアートマンを思考力よりなるとしたが、ヤージニァヴァルキヤ師はそれを認識よりなるものとした。思考力は諸機能の一つであるからだ。今、想いがないという。想いとは思考力であるから、非想非非想処とは諸機能としての思考力が空っぽになった状態である。ヤージニァヴァルキヤ師の説くアートマンとは諸機能(ここでは思考力)の背後にあって、それを内から制御している認識作用の主体であった。理屈としては、諸機能としての思考力が空っぽになったのだから、純粋認識に至ったような気がしないでもないが,事はそう単純なものでもない。師と同じように、その法を自ら知り証し体現した修行者ゴータマであったが、今度もまた、アートマン(純粋の認識主体)にはめぐり合えなかった。だから、“この法は厭離に赴かず、離欲に赴かず、止滅に赴かず、平安に赴かず、知に赴かず、正覚に赴かず、安らぎに赴かない。ただ非想非非想処を獲得し得るのみ”として、この師の下もまた去ったのである。

(苦行とその放棄)

  当時としては究極の瞑想(禅定)段階と考えられていた無所有処、あるいは、非想非非想処の瞑想段階をもってしても、当時の釈尊はアートマンに出会うことはできなかった。後は、苦行しかない。こう、釈尊は思い定めたに違いない。ヤージニァヴァルキヤ師は“この人我(アートマン)身体(肉体)を得るや、諸悪と結合する。身体(肉体)が死んで、彼がその身体(肉体)を去るや、諸悪は捨離される”と説いている。苦行の理論的な根拠はこのヤージニァヴァルキヤ師のこの教えにある。つまり、苦行とはその身体(肉体)故に生ずる欲望を生命保持が可能な限界まで捨て去り取り除くことによって、アートマンを見出そうとするものである。死の一歩手前。生きながら、臨死体験することである。それは孤独の道でもあった。

  二人の師の下を去った釈尊は修行の場を求めて、マガダ国のウルヴェーラー村に向かわれた。釈尊の回想に言う。

  かくて、私は善なるものを求め、無常の絶妙なる静寂の境地を求めて、マガタ国の中を遊歩しつつ、ウルヴェーラーのセーナー集落に入った。そこに愛(め)ずべき地域、麗しの森林、流れゆくネーランジャラー河、よく設けられた美しい堤、四囲豊かな村落を見た。その時、私はこう考えた。「実にこの地域は愛すべく、森林は麗しく、河は流れ行き、堤はよく設けられ美しい。実に、これは務め励もうと欲する良家の子が修行するのに適している」と。そこで、私はそこに坐した。「ここは修学に適する」と考えて。

(中部経典)

 そこで、静かに坐して、釈尊は自問自答したと経文は伝えている。・・・身と口と心の行い、そして、生活が未だ清浄となっていないのに、辺鄙な村落の森林で一人苦行すれば、どのような修行者でも不善の恐怖と驚きを招くであろう。しかし、私の身と口と心の行い、そして、生活は既に完全に清浄となっている。また、貪欲で愛欲に耽り、瞋恚心があり、悪意と睡眠を貪り、心がざわついて落ち着きがなく、惑い疑い、自己を誉め、他人を謗り、驚愕し恐れおののき、自己の利益や世間の尊敬・評判を得たいと欲し、怠惰で努力せず、失念し、不注意で心が統一せず、散乱していて、愚鈍曖昧なのにもかかわらず、辺鄙な村落の森林で一人苦行すれば、どのような修行者でも不善の恐怖と驚きを招くであろう。しかし、私はそうではない。森林に住まう聖者は貪欲ならず、慈しみの心あり、睡眠の貪りを離れ、心静まり、疑いを超え、自己を誉めることもなく、他人を謗ることもなく、恐れおののくこともなく、小欲であり、努め励み、専念し、精神を統一し、智慧をそなえている。私もまたそうだと確信した。だから、この森林に住まおう。・・・

  そして、釈尊は苦行の実践に入られた。続けて、経文はこう伝えている。

  かくて、私はこのように思った。「さあ、私は特定の夜、即ち、半月の十四日、十五日、及び、八日の夜に、園林の霊域、森林の霊域、樹下の霊域など、恐ろしくて、身の毛もよだつ所に床や坐を設けて留まろう。そうして、確かに、恐怖とおののきを見るであろう。」そこにいる私に対して、獣は近づき、孔雀は樹の枝を落とし、落ち葉を吹き動かした。その時、私は次のように考えた。「これは実にかの恐怖とおののきが来るのだ」と。かくして、私は次のように考えた。「そもそも、私は何故に恐怖を待ち受けているのか。私はむしろ如実に恐怖やおののきが迫って来るがままに、その恐怖やおののきを排除すべきではないか」と。かくて、私がそぞろ歩きし、立ち止まり、坐し、横臥している時に、その恐怖とおののきとが迫って来た。そこで、私はそぞろ歩きし、立ち止まり、坐し、横臥している時に、その恐怖とおののきとを除去した。

  人里離れた林間での修行は孤独感と恐怖との闘いである。釈尊ですらその事を体験されたことを上の経文は伝えている。しかし、こんな事はたいしたことではないのかも知れない。本当の闘いは消しても消しても燃え上がらんとする自己の内なる欲望との闘いである。その欲望を悪魔ナムチに例えて、釈尊はこう回想されている。

  ネーランジャラー河の畔にあって、安穏を得る為に、努め励み、専心し、努力して瞑想していた私に、悪魔ナムチはいたわりの言葉を発しつつ近づいて来て、言った。「あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた。あなたが死なないで生きられる見込みは、千に一つの割合だ。君よ。生きよ。生きたほうがよい。命があってこそ、もろもろの善行を為すことも出来るのだ。あなたがヴェーダ学生として清らかな行いをなし、聖火に供物を捧げてこそ、多くの功徳を積むことが出来る。苦行に努め励んだところで何になろう。努め励む道は、行き難く、行い難く、達し難い」。この詩句を唱えて、悪魔は覚れる人の側に立った。かの悪魔がこのように語った時に、尊師は次のように告げた。

 「怠け者の親族よ。悪しき者よ。汝は世間の善業を求めてここに来たのだが、私には世間の善業を求める必要は微塵もない。悪魔は善業の功徳を求める人々にこそ語るがよい。私には信念があり、努力があり、また、智慧がある。このように専心している私に、汝はどうして生命を保つことを尋ねるのか。励みから起こるこの風は、河水の流れをも涸らすであろう。ひたすら専心せるわが身の血がどうして涸渇しないであろうか。身体の血が涸れたならば、胆汁も痰も涸れるであろう。肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心(禅定)とはますます安立するに至る。


  私はこのように安住し、最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望に引かれることがない。見よ。心身の清らかなことを。汝の第一の軍隊は欲望であり、第二の軍隊は嫌悪であり、第三の軍隊は飢渇であり、第四の軍隊は妄執と言われる。汝の第五の軍隊はものうさ、睡眠であり、第六の軍隊は恐怖と言われる。汝の第七の軍隊は疑惑であり、汝の第八の軍隊は見せかけ(偽善)と強情(頑迷)と、誤って得られた利得と名声と尊敬と名誉と、また、自己を誉めたたえて他人を軽蔑することである。ナムチよ。これらは汝の軍勢である。黒き魔の攻撃軍である。勇者でなければ彼に打ち勝つことができない。勇者は打ち勝って楽しみを得る。

  この私がムンジャ草を口にくわえるだろうか。敵に降参してしまうだろうか。この場合、命はどうでもよい。私は敗れて生きながらえるよりは、戦って死ぬ方がましだ。或る修行者たち・バラモンどもは汝の軍隊の内に沈没してしまって姿が見えない。そうして、徳行ある人々の行く道をも知っていない。軍勢が四方を包囲し、悪魔が象に乗ったのを見たからには、私は立ち迎えて彼らと戦おう。私をこの場所から退けることなかれ。神々も世間の人々もその軍勢を破り得ないが、私は智慧の力で汝の軍勢を打ち破る。あたかも、焼いてない土鉢を石で砕くように」。

  悪魔は言った。「われは七年間も尊師に一歩一歩ごとに付きまとうていた。しかも、よく気を付けている正覚者には、つけこむ隙を見つけることが出来なかった。烏が脂肪の色をした岩石の周囲を廻って、“ここに柔らかいもの見つかるだろうか。味の良いものがあるだろうか“と言って、飛び廻ったようなものである。そこに美味が見つからなかったので、烏はそこから飛び去った。岩石に近づいたその烏のように、われらは厭いてゴータマを捨て去る」。悲しみに打ちしおれた悪魔の脇から、琵琶がパタッと落ちた。ついで、かの夜叉は意気消沈してそこに消え失せた。

(スッタニパータ)

 悪魔ナムチのことばとして、“あなたは痩せていて、顔色も悪い。あなたの死が近づいた”とあるから、この場の釈尊は断食を修されていたのであろう。また、釈尊のことばとして、“肉が落ちると、心はますます澄んでくる。わが念いと智慧と統一した心(禅定)とはますます安立するに至る”とある。我々凡人は、腹が減ればますます心は散乱する。しかし、釈尊にあっては、肉体を削いで削いでいって、心はいよいよ澄み切って、安定してくるという。これは、釈尊には、“この人我(アートマン)身体(肉体)を得るや、諸悪と結合する”というヤージニァヴァルキヤ師の教えに確信があったからであろう。そうであっても、断食すれば、体力は落ちる。思考力もなえてくる。また、“最大の苦痛を受けているのであるから、わが心は諸々の欲望に引かれることがない”ともある。今、断食中の修行者ゴータマは瀕死の状態にある。我々凡夫は、瀕死の状態にあっては、何かしたい(欲望)どころではない。しかし、この偉大な修行者はこのような状況下にあっても、冷静に、自己の内を観察している。

 欲望、嫌悪、飢渇、妄執、睡眠、恐怖、疑惑、偽善、頑迷、利得と名誉心、自賛と侮蔑心等々。肉身を持つ限り、釈尊ほどの人であっても、諸々の悪心から逃れることは出来ない。物と社会を絶ったのであるから、比例して、それへの欲望(執着)は激しくなる。苦行は辛い。もう嫌だ。何か食べたい。水が飲みたい。眠りたい。怖い。このままで覚れるのだろうか。止めたら、世間体が悪い。このまま続けよう。そうすれば、利得と名誉が得られるかも知れない。私は偉いのだ。それに比べて、世間の奴らの馬鹿なことよ。釈尊がこう思ったかどうかは分からない。釈尊はこれらの諸悪ナムチの軍勢を智慧によって打ち破ったと言う。


  激しい苦行は七年間続いた。しかし、解決には至らなかった。当時を回想して、釈尊はこう述べられている。

  その行動、その実践、その難行(苦行)によっても、私は人間の性質を超えた特別完全なる知見に到達しなかった。それは何故であるか。この聖なる智慧が未だ達せられていなかったからである。この聖なる智慧が達せられたならば、それは出離に導くものであり、それを行う人を正しく苦の消滅に導いてゆく。

(中部経典)

 ここで、釈尊は“人間の性質を超えた特別完全なる知見”ということを述べられている。これこそが「アートマン」である。つまり、自己の内にアートマンを見いだそうとして、七年間も激しい修行(苦行)を実践してきたけれども、それでも、アートマンには出会うことは出来なかったと言うのである。どうしたら、この聖なる智慧(アートマンの智慧)を達せられるのか。釈尊はまず体力の回復をしようと考えられた。経典はその事情をこう伝えている。

  その時、私はこう考えた。「このように極度に痩せた身体では、かの安楽は得難い。さあ、私は実質的な食物である乳粥を摂ろう」。そこで、私は実質的な食物である乳粥を摂った。  その時、私には五人の修行者が近づいていて、「修行者ゴータマがもしも法を得るならば、それらを我々に語るであろう」と語り合っていた。しかし、私が実質的な食物である乳粥を摂ったので、その五人の修行者は私を嫌って、「修行者ゴータマは貪る性質で、勤め励むのを棄てて、贅沢になった」と言って、去って行った。私は実質的な食物を摂って、力を得て、諸々の欲望を離れて、不善なることを離れ、粗なる思慮あり、微細な思慮あり、厭離から生じた初禅を成就していた。

(中部経典)

 この時、釈尊に乳粥を供養したのがウルヴェーラー村の資産家の娘スジャータであった。また、五人の修行者とはウッダカ仙の元弟子たちで、釈尊がこの師の下を去った時、釈尊の人徳を慕って共にウッダカ仙の下を去って、この七年間釈尊と修行を共にしてきた者達であった。彼らはその後最初の仏弟子となる。さて、食事を摂って、体力を回復された釈尊は不退転の覚悟をもって、一本の樹下で瞑想に入られた。この樹は後に「菩提樹」と呼ばれる霊樹ピッパラである。

ブッダ誕生(1)・・・覚りを開く

 かくて、瞑想に入られた釈尊は四禅定を達せられたと経文にはある。

  私は実に勤め励み、確乎たる努力をした。念いは確立していて失われることなく、身体は軽やかで激することなく、心は統一されていた。私は欲望を離れ、不善のことがらを離れ、粗なる思慮あり、微細な思慮があったが、遠離から生じた喜楽である初禅を成就していた。

 
次に、粗なる思慮と微細な思慮との止滅のゆえに内心が静安となり、心が統一し、粗なる思慮なく微細な思慮なく、定から生じた喜楽である第二禅を成就していた。次に、喜に染まらないがゆえに、平静であり、念い、正しく気遣い、身体で安楽を感受していた。すなわち、聖者が「平静であり、念あり、安楽に住していると説くところの第三禅を成就していた。次いで、楽を棄て苦を棄てるが故に、先に喜びと憂いとを滅したので不苦不楽であり、平静と念とによって清められている第四禅を成就していた。

(中部経典)

 四禅定のそれぞれの段階の禅定のありさまが詳しく説かれている。ここで、重要なのは釈尊が「霊性の眼」を持たれたということである。いわゆる、天眼通である。続いて、経文は過去世を想い起こしたとある。これはどういう事であろうか。当時のインド・アーリア人の宗教観からすれば、今、自分がこうしてここに在るのは数々の過去の生涯の積み重ねの結果である。つまり、業と輪廻転生の結果である。その上での、今生における自己の存在がある。こうした「業と輪廻」の思想はヴェーダ以来インド・アーリア人社会において人々の間で広く認められた民族伝統の宗教観であった。苦行を棄てられた釈尊は民族の宗教伝統と自らの出家の原点に今一度立ち戻ってみようと決心されたのである。輪廻転生の苦しみからの解脱は釈尊ご出家の動機の一つでもあった。

 
かくの如く、心が統一され、清浄で、清らかで、汚れなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となった時に、過去の生涯を想い起す知に心を向けた。かくして、私は種々の過去の生涯を想い起こした。即ち、一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯、幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期を。私はそこにおいて、これこれの名であり、これこれの姓であり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死に方をした。ここで死んでから、かしこに生まれた。

  かくの如く、私はその一々の相及び詳細の状況とともに幾多の過去の生涯を想い起こした。これが初更において達せられた第一の明知である。ここに無明が滅びて明知が生じたのである。暗黒は消滅して、光明が生じた。それが努め励み努力精励しつつある者に現れるが如く。

 
以上は、釈尊ご自身の過去の生涯の観察である。また、経文には“幾多の宇宙成立期、幾多の宇宙破壊期、幾多の宇宙成立破壊期”を思い起こしたとあるが、これは宇宙(世界)もまた生まれ壊れ滅するということである。続いて、経文は諸々の生存者(衆生)の生死の有り様を天眼をもって、観察されたとある。

 かくの如く、心が統一され、清浄で、清らかで、汚れなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となった時に、諸々の生存者の死生を知ることに、私は心を向けた。即ち、私は清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た。即ち、卑賤なる者と高貴なる者、美しい者と醜い者、幸福な者と不幸な者としての諸々の生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。

 実に、これらの生存者は身に悪行を為し、言葉に悪行を為し、心に悪行を為し、諸々の聖者を謗り、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解に基づく行為をなす。彼らは身体が破壊して、死んだ後で、悪しき処、堕ちた処、地獄に生まれる。また、他のこれらの生存者は、身に善行を為し、言葉に善行を為し、心に善行を為し、諸々の聖者を謗らず、正しい見解をいだき、正しい見解に基づく行為をなす。彼らは身体が破壊して死んだ後で、善い処、天の世界に生まれる。


 私はかくの如く清浄で超人的な天眼をもって、諸々の生存者が死にまた生まれるのを見た。即ち、卑賤なる者と高貴なる者、美しい者と醜い者、幸福な者と不幸な者としての諸々の生存者がそれぞれの業に従っているのを見た。これは私が夜の中更に達した第二の明知である。ここに、無明が滅して光明が生じたのである。暗黒は消滅して光明が生じた。それが努め励み努力精励しつつある者に現れるが如く。


 かくの如く心が統一され、清浄で、清らかで、汚れなく、穢れなく、柔らかで、巧みで、確立し不動となった時に、諸々の汚れを滅する知(漏尽知)に心を向けた。そこで、この一切は苦であると如実に知った。私がかくの如く知り、かくの如く見た時に、心は欲の汚れから解脱し、心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した。解脱し終わった時に、“解脱した”という知が起こった。“生は尽きはてた。清浄行が完成した。為すべきことは既に為された。もはやかかる生存の状態に達することはない“と知り終わった。これが夜の最後の更において達せられた第三の明知である。暗黒は消滅して、光明が生じた。それが努め励み努力精励しつつある者に現れるが如く。


 経文には“かくの如く知り、かくの如く見た”とある。何をかくの如く知り、かくの如く見たのであろうか。釈尊が天眼をもって世の人々(衆生)の有り様を観察すると、彼らは生まれては死に、また、生まれては死する幾多の生涯を繰り返している。彼らは、それぞれの業に従ってこのように無限の生涯を繰り返している。悪因悪果。善因善果。地獄に堕ちる者、天の世界に生まれる者が見える。一時は幸福かも知れない。しかし、無限に生き死にする生涯を繰り返す限り、このような生き方は苦しみでしかない。人間の往く末はこうである。世の多くの人々も分かっている。だから、出家遊行して、真理(アートマン)を求めるのだ。しかし、釈尊は気がつかれた。因果に引かれて業を作っては、輪廻転生を繰り返す人間存在というものの事実。これ以外に人間性の本質(アートマン)はない。遂に、釈尊はアートマンの実相を見たのである。

 それは世界の本源ブラフマン(サティヤム)に繋がっている。釈尊は「サティヤム(真実)」を見たのだ。釈尊は人間存在の真実を知った。釈尊は人間存在の真実を見た。“かくの如く知り、かくの如く見た”とはこのことを言っている。そして、“欲の汚れ”“生存の汚れ”“無明の汚れ”から心は解脱したという。欲とは業を作るもの、生存とは業の集合体、そして、それらの心の汚れがすっかりなくなったと言うのだ。業はもはや作られることはない。謬れる眼(無明)は消滅し、真実の眼(光明)が生じた。「アートマン」の公案はついに解けた。そして、“生は尽きはてた。清浄行が完成した。為すべきことは既に為された。もはやかかる生存の状態に達することはない“との確信は修行者ゴータマの心中で揺るぎないものとなった。不死は実現され、ここに、ブッダ・ゴータマが誕生した。


 覚りを得られた釈尊は暫くの間、解脱の喜びに浸っておられたと言う。しかし、釈尊は解脱の喜びを自分のものだけにしておけなかった。どうしたら人々に理解してもらえるのだろうか。自分が得た解脱は未だ万人の為のものとなっていない。釈尊はもう一度自分の覚りのプロセスを整理してみようと思い立たれた。その間の事情を「律蔵・大品」はこう伝えている。

 
その時、ブッダなる世尊は初めて悟りを開いて、ウルヴェーラー村、ネーランジャラー河の岸辺に、菩提樹の下において七日の間ずっと足を組んだままで、解脱の楽しみを享けつつ坐しておられた。時に、世尊はその夜の初更において、縁起の理法を順逆の順序に従ってよく考えられた。無明によって生活作用(行)があり、生活作用によって識別作用(識)があり、識別作用によって名称と形態(名色)があり、名称と形態によって六つの感覚機能(六入・眼耳鼻舌身意)があり、六つの感覚機能によって対象との接触(触)があり、対象との接触によって感受作用(受)があり、感受作用によって愛執(愛)があり、愛執によって執着(取)があり、執着によって生存(有)があり、生存によって出生(生)があり、出生によって老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みが生ずる。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て生起する。しかし、貪欲を無くすることによって無明を残りなく止滅すれば、生活作用も止滅する。

 生活作用が止滅するならば、識別作用も止滅する。識別作用が止滅するならば、名称と形態とが止滅する。名称と形態とが止滅するならば、六つの感覚機能が止滅する。六つの感覚機能が止滅するならば、対象との接触も止滅する。対象との接触が止滅するならば、感受作用も止滅する。感受作用が止滅するならば、愛執も止滅する。愛執が止滅するならば、執着も止滅する。執着が止滅するならば、生存も止滅する。生存が止滅するならば、出生も止滅する。出生が止滅するならば、老いと死、憂い・悲しみ・苦しみ・愁い・悩みも止滅する。このようにして、この苦しみのわだかまりが全て止滅する。


 そこで、世尊はこの意義を知って、その時、次の詠嘆の詩を唱えられた。

 
努力して思念しているバラモンに、諸々の理法が現れるならば、彼の疑惑は全て消滅する。“原因の理法”をはっきりと知っているのだから。

 
続いて、経文には更にその夜の中更に“縁の理法”が思念され、そして、後更には悪魔の軍勢を粉砕したとある。七日間をかけて、釈尊は人間存在(業と輪廻)の真実の姿(実相)と苦しみからの解脱へ至るプロセスを“縁起の理法”として万人の為の法(ダルマ)にまで昇華させたのである。釈尊の目の前には、世界(宇宙)の根本原理としての“縁起の理法”がはっきりと現れた。そして、人間存在の根本原理もまた“縁起の理法”であることをはっきり知った。捜し求めていたアートマンの実相が再び明らかになった。“縁起の理法”はまたアートマンの実相でもあるからだ。成道は七日前であった。“解脱した”という釈尊の一言にはアートマンの実相を知った釈尊の感慨が込められている。“人間の性質を超えた特別完全なる知見”を釈尊は遂に獲得されたのである。

 引用した律蔵の記事では十二因縁説が説かれている。この形は後世になって成立したものである。実際に、釈尊は縁起をどう思索・思念されたのであろうか。先の経文には“私がかくの如く知り、かくの如く見た時に、心は欲の汚れから解脱し、心は生存の汚れから解脱し、心は無明の汚れから解脱した“とあり、欲望〜生存〜無明の方向へ、それぞれの解脱を踏んで、“解脱した”という心的段階に進んだとある。この解脱のプロセスを手がかりとして、釈尊の縁起説の原始型を考えてみよう。

 
無明によって欲望があり、欲望によって執着があり、執着によって生存があり、生存によって誕生があり,誕生によって老死と苦がある。反対に、無明が止滅すれば欲望が止滅し、欲望が止滅すれば執着が止滅し、執着が止滅すれば生存が止滅し、生存が止滅すれば誕生が止滅し、誕生が止滅すれば老死と苦が止滅する。六縁起が出来た。ここでは、「無明〜欲望〜執着〜生存〜誕生〜老死と苦」という縁起のプロセスが確認できよう。

 縁起説では「無明」が全ての出発点になっているが、そもそも、「無明」とは何であろうか。それは、しばしば、“根源的無知”と説明されるが、これでは何のことかよく解らない。ヴェーダからウパニシャッドに至る思想的経緯を踏まえれば、「無明」とは光明に対する“光明が無い”ことを言っていることは明らかである。「光明」とはアートマンの象徴であり、認識力および知識のことであった。換言すれば、“真実(サティヤム)を見る眼”ということである。そうすると、「無明」とは、“真実を見る眼が無い状態”であると説明されよう。つまり、縁起説における無明とは“人間存在の真実(サティヤム)に無知な状態”を言っている。

 
それでは、人間存在の真実とは何か。無知(「無明」)な人は「欲望」と「執着」によって、一生涯“業”を作り続ける。この状態が「生存」である。この業を抱えたまま、その人は老いと死を迎える。そして、その業によって、その人は次の生涯に「誕生」し、再び老死と苦を受ける。無知な人は永遠にこの状態を繰り返す。いわゆる、“業と輪廻”の思想である。“かくの如く知り、かくの如く見た”とはこのことである。これを第一の真実と名づけよう。

 ここまでは、世の人々も理解できることがらである。しかし、釈尊はさらに一歩を進めて、輪廻の輪を断ち切る方法を思念された。現世において、悪の連鎖を絶つ方法を工夫された。無知(「無明」)が絶たれれば「欲望」が絶たれる。欲望が絶たれれば「執着」が絶たれる。執着が絶たれれば業(「生存」)を作ることもない。業を作ることがなければ次の生涯に「誕生」することもない。誕生しなければ老いや死、苦しみもない。“欲の汚れ”“生存の汚れ”“無明の汚れから心は解脱した”とはこのことである。これは第二の真実である。


 第一の真実は病状の診断である。次は、治療。これは第二の真実である。輪廻の連鎖の悪循環を断ち切る方法である。欲望と執着が絶たれれば業の造作も絶たれる。業の造作が絶たれれば、次の生涯に誕生することもない。つまり、欲望と執着を絶つことが治療である。良い患者の条件の第一は自己の病状を自覚していること、そして、第二の条件は医者を信頼していることである。

 
今、“自己の病状の自覚”ということを言った。ヤージニァヴァルキヤ師は“アートマン(認識力)は肉身を得るや諸悪と結合する”と説いた。しかし、今、アートマンの実相は“縁起の理法”ということが明らかになったのだから、人は人間として誕生し、生存し続ける限り“縁起の理法”の支配から逃れることは出来ない。つまり、“人間存在そのものが病態である”と言わざるを得ない。なのに、人は欲望のままにあちらこちらに執着しては、業を積み重ねて輪廻転生の原因を作っている。そして、自分が病人であることに気がついていない。病人の自覚がなければ、治療は始まらない。開教にあたって、釈尊もまたこの問題に悩まれた。次項では、説法すべきか否か、成道から開教の決心に至るまで揺れ動く釈尊の心の内を見てみよう。

ブッダ誕生(2)・・・説法の躊躇と開教の決心

 律蔵・大品には説法を躊躇された釈尊が梵天の度重なる説法の勧めによって、遂に開教の決心をされた模様が伝えられている。

 
時に、世尊は独り隠れて想いに耽っておられたが、心の中に次のような思いが生じた。「私の覚ったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみ良く知る所である。ところが、この世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。

 さて、執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人には、“これに依ってあること”、即ち、縁起という道理は見難い。また、一切の形成作用(行)の寂(しず)まること、一切の執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、ニルヴァーナ(寂静)というこの道理もまた見難い。だから、私が理法を説いたとしても、もしも、他の人々が私を理解してくれなければ、私には疲労があるだけだ。」 実に、次の未だかって聞かれたことのないすばらしい詩句が現れた。困苦して私が覚り得たことを、今またどうして説くことが出来ようか。


 貪りと瞋(いか)りに悩まされた人々が、この真理を覚ることは容易ではない。これは世の流れに逆らい、微妙であり、深遠で見難く、微細であるから欲を貪り、暗黒に覆われた人々は見ることが出来ない。世尊がこのように省察しておられる時に、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思われなかった。ここで釈尊は自らの覚りを“縁起の道理”といい、“これに依ってあること”と説明されている。

 
“縁起”は後世しばしば定型句としてこう説かれる。“これあるに依りて、これあり。これ生ずるに依りて、これ生ず。これなきに依りて、これなし。これ滅するに依りて、これ滅す。”・・・縁起は理屈ではない。今、釈尊は世の人々を評して“執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている“と語っている。はたまた、”貪りと瞋りに悩まされた人々“とも”欲を貪り、暗黒に覆われた人々“とも評している。このような人々には縁起の理法は理解し難いというのである。縁起説では”欲望によって執着があり、執着によって生存(業)がある“のであった。つまり、欲望があっても、執着がなければ、業の形成には繋がらない。しかし、世の人々は欲望を貪り、思いどおりにいかなくなっては瞋り、真実を見る眼を失っている。これは彼らが欲望のままにあちらこちらに執着した結果である。人間の飽くなき「執着」は厄介である。釈尊もすでに気が付かれていた。しかし、執着の問題を解決しなければ、生存(業)を止滅することは出来ない。また、釈尊は“これは世の流れに逆らい”とも語っている。これはどういうことであろうか。一方では、古いバラモン僧の下にあって、現世利益と来世の幸福な再生を願う人々がおり、一方では、新興宗教家に師事し、唯物論や宿命論、不可知論、あるいは、極端な苦行に人生問題の解決をゆだねる人々がいる。これが当時の社会の宗教状況であった。

 
世の人々は到底自分の覚り(縁起の理法)を理解できそうにない。ここは止めておいた方が良い。こう釈尊が思われたのも当然であろう。翻って、二十一世紀の人間世界を見るに、釈尊当時と似通った時代状況にある。仏縁を感じる他ない。真理が出現したのだ。どうしても世に問わねばならない。釈尊の心は揺れ動いた。続いて、経文はこの釈尊の心を梵天に託してこう伝えている。

 その時、世界の主・梵天は世尊の心の中の思いを心によって知って、次のように考えた。「ああ、この世は滅びる。ああ、この世は消滅する。実に、修行を完成した人・尊敬さるべき人・正しく覚った人の心が、何もしたくないという気持ち傾いて、説法しようとは思われないのだ」時に、世界の主・梵天は、あたかも力ある男が曲げた臂(ひじ)を伸ばし、伸ばした臂を 曲げるように、梵天界において姿を消して、世尊の前に現れた。その時、世界の主・梵天は上衣を一つの肩にかけて、右の膝を地に着け、世尊のおられる所に合掌・敬礼して、世尊にこのように言った。


 「尊き方よ。尊師は教えをお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。彼らは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を覚る者となりましょう。」世界の主・梵天はこのように述べ、このように言い終わってから、次のことを説いた。汚れある者の考えた不浄な教えがかってマガダ国に出現しました。願わくは、この甘露の門を開き、無垢なる者の覚った法を聞かせてください。


 例えば、山の頂の巌に立って普く諸人を見るように、智慧の優れた普く見る眼ある人よ、自らは既に憂いを超えておられるのですから、願わくは、あなたは法よりなる高楼に上り、憂いに沈み生と老いに襲われている諸人を見そなわせたまえ。起て、英雄よ、戦勝者よ、隊商の主よ、負債なき人よ、世間を歩みたまえ。世尊よ、法を説きたまえ。覚る者もいるでしょう。このように言われたので、世尊は世界の主・梵天に告げられた。

 
「梵天よ。私はこのように考えた。“私の覚ったこの真理は深遠で、見難く、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみ良く知る所である。ところが、この世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている。執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている人には、“これに依ってあること”、即ち、縁起という道理は見難い。また、一切の形成作用(行)の寂(しず)まること、一切の執着を捨て去ること、妄執の消滅、貪欲を離れること、止滅、ニルヴァーナ(寂静)というこの道理もまた見難い。だから、私が理法を説いたとしても、もしも、他の人々が私を理解してくれなければ、私には疲労があるだけだ“と。梵天よ、私はこのように省察しているので、何もしたくないという気持ちに心が傾いて、説法しようとは思わないのだ。」

 三度、梵天は釈尊に説法を懇請したと、経文にはある。三度、世界の主・梵天は世尊にこのように言った。「尊き方よ。尊師は教えをお説きください。幸ある人は教えをお説きください。この世には生まれつき汚れの少ない人々がおります。彼らは教えを聞かなければ退歩しますが、聞けば真理を覚る者となりましょう。」

  文中の梵天のことばは釈尊の心中のもう一つの声である。今、梵天は釈尊に説法の開始を三度要請している。三顧の礼のインド版である。実際には、三度と言わず、繰り返し何度も熟考されたはずである。さて、口頭、梵天は“汚れある者の考えた不浄な教えがかつてマガダ国に出現しました”と発言している。不浄な教えとは六人に代表される新興宗教家の思想のことを指している。既に考察したように、仏教の目的の一つは世にはびこる謬れる思想(宗教)を正すことにあった。釈尊の心の中には最初からきっちりとかかる目的意識があったことに注目したい。三度にわたる度重なる梵天の説教開始の要請に対し、釈尊はどう応えられたのであろうか。経文はこう伝えている。

  その時、世尊は梵天の懇請を知り、生きとし生ける者への憐れみによって、覚った人の眼によって世の中を観察された。世尊は覚った人の眼によって世の中を見そなわして、世の中には、汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の者、鈍根の者、性質の善い者、性質の悪い者、教えやすい者、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。あたかも、青蓮の池・赤蓮の池・白蓮の池において、若干の青蓮・赤蓮・白蓮は水中に生じ、水中に成長し、水面に達するし、また、若干の青蓮・赤蓮・白蓮は、水中に生じ、水中に成長し、水面から上に出て立ち、水によって汚されない。まさに、そのように、世尊は覚った人の眼をもって世の中を見そなわして、世の中には汚れの少ない者、汚れの多い者、利根の者、鈍根の者、性質の善い者、性質の悪い者、教えやすい者、教えにくい者どもがいて、ある人々は来世と罪過への怖れを知って暮らしていることを見られた。見終わってから、世界の主・梵天に詩句をもって呼びかけられた。耳ある者どもに甘露(不死)の門は開かれた。

 己が信仰を棄てよ。梵天よ。人を害するかと思って、私は微妙な巧みな法を人々に説かなかったのだ。そこで、世界の主・梵天は「私は世尊が教えを説かれるための機会を作るが出来た」ことと考えて、世尊に敬礼して、右回りして、その場で姿を消した。今、説法の相手のことが考察されている。釈尊が言う“耳ある者ども”とは、“汚れの少ない者、利根の者、性質の善い者、教えやすい者、来世と罪過への怖れを知っている者たち”である。彼らは“池の青蓮や赤蓮や白蓮の何本かは、濁水の中に生じて、濁水の中で成長し、その水面から上に出て立ち、しかも、濁水によって汚されない”、このように、汚濁の世の中にあって、その汚濁に汚されない人たちである。彼らには、向上心があり、努力家で自立している。

 また、釈尊は人間を蓮華に喩えて、青蓮・赤蓮・白蓮の三種類をあげている。これは、バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャの三カーストを指している。最下位カーストのシュードラは対象とされていない。何故ならば、ヴェーダ・ウパニシャッドの学習が許されていたのは上位三カーストの人たちのみであったからである。現代人としては、仏の前の平等を歌い上げたいところだが、釈尊の頭の中では最初からシュードラは対象から抜け落ちていた。これが現実であったはすだ。初期の仏教はあくまでもインド・アーリア人の民族宗教であった。ここは、注意したい所だ。

仏教誕生(1)・・・説法へ向けて

  説法を決心された釈尊は最初に誰に説くべきか考えられた。そして、かっての師アーラーラ一仙に白羽の矢を立てられた。しかし、師はすでに亡くなっていた。次に、頭に浮かんだのはウッダカ仙であったが、この師もすでに亡くなっていた。

 釈尊は何故に瞑想(禅定)法の師であった両師に法を説こうとしたのであろうか。当時の修行者たちの多くは瞑想(禅定)を深めて深めていって、最終的にはアートマンに達することを目的としていた。釈尊とて例外ではなかった。しかし、今、釈尊はそのアートマンの実相を“縁起の理法”として覚られたのである。釈尊はそのことをかっての師匠に伝えたかったのである。

 
次に、釈尊の頭に浮かんだのはかって七年間行動を共にした五人の修行仲間であった。これは当然であろう。彼らは今何処にいるのだろう。やがて、彼らがバーラーナシー(ベナレス)の鹿野苑にいることが判明する。そして、釈尊は法輪を転ぜんが為バーラーナシーに向かってその一歩を進められたのである。

 
バーラーナシーに向かわれる途中で釈尊はアージーヴィカ教徒のウパカに出会われた。ウパカは釈尊に出会って、その清らかな姿と威厳に圧倒された。そして、“あなたの出家の目的は何か。あなたの師は誰で、誰の法を信受しているのか”と釈尊に尋ねた。釈尊は詩句をもってこう答えられたという。


われは一切に打ち勝った者、一切を知る者である。
一切のものごとに汚されない。
全てを棄てて、愛執がなくなった時には解脱している。
自ら知ったならば、誰を師とめざすであろうか。
われに師は存在しない。われに似た者は存在しない。
神々を含めた世界の内に、われに比較し得る者は存在しない。
われこそは世間において尊敬さるべき人である。われは無上の師である。
われは唯一なる正覚者である。われは清浄となり、やすらいに帰している。
法輪を転ぜんが為に、私はカーシー(ベナレス)の町に往く。
盲闇の世界において不死の鼓を打つ。

(律蔵・大品)

 ウパカは結局釈尊の教えを受け入れることなく去っていった。この話で重要なのは、“師は誰で、誰の法を継いだのか”というウパかの問いに釈尊ははっきりと“自ら私は知ったのであるから、私には師はいない”と回答していることである。いわゆる“無師独悟”ということである。確かに、縁起の理法を覚ったのは釈尊が最初であるから、“独悟”であり、どこかの師の法(教え)を継いだのでもないから“無師”である。我々仏教徒はこの“無師独悟”ということに捉われてしまいがちであるが、今まで検証してきたように、釈尊の覚りもヴェーダ・ウパニシャッドあっての事だし、また、最終的に釈尊が修得された禅定力も修行時代の二人の師アーラーラ一仙とウッダカ仙から学んだ禅定地の上にあることもまた事実と認めざるを得ない。

 
ところで、ウパカは何故釈尊の教えを受け入れることが出来なかったのであろうか。ウパカはアージーヴィカ教徒であった。アージーヴィカ教は宿命論を説いた。輪廻転生は永遠に続き、今生で何を為そうとその輪環を断ち切ることは出来ない。つまり、輪廻からの解脱を否定した。だから、解脱の道を説かれた釈尊を理解出来なかったのは当然と言えよう。

仏教誕生(2)・・・中道・四諦・八正道

 釈尊はバーラーナシー(ベナレス)の鹿野苑に着かれた。そして、遠く五人の旧友の姿を眼にされた。五人の旧友たちは釈尊が自分達の所へ来られるのを見て、こうお互いに言い合った。「修行者ゴータマがやって来る。彼は勤め励むのを止めて贅沢になった。無視しよう。」・・・ところが、釈尊が彼らに近づかれると、彼らはその清らかさと威厳に圧倒された。そして、先ほどの約束も忘れて、衣鉢を受け取り、座を設け、水を用意した。そして、「ゴータマよ」あるいは「友よ」と釈尊に呼びかけた。釈尊は彼らを制してこう述べられた。「名をもって、あるいは、“友よ”と如来に呼びかけてはならない。如来は尊敬されるべき人、正覚者である。修行者達よ。耳を傾けよ。不死が得られた。私は法を説くであろう。お前たちは教えられたとおりに行うならば、久しからずして良家の子らが出家の目的とする無上の清浄行の究極をこの世で自ら知り証し体現するであろう。」

 彼らは釈尊に反論した。「尊者ゴータマよ。あなたはあれほどの行いと苦行によっても、人間の性質を超えた、完成せる聖なる知見に達しなかった。なのに、今、あなたは勤め励むのを止め、贅沢で奢侈になった。どうして、そのような知見に達したと言えるのでしょうか。」仏伝はこのような押し問答が三回繰り返されたと伝えている。そして、最後に、釈尊は彼らにこう語りかけた。「修行者達よ。今まで、このように光輝に満ちた姿の私を、お前たちは今より以前に見たことがあるか。」・・・五人の修行者はかってこのような光輝に満ちた修行者の姿を見たことはなかった。「いいえ、尊者よ」、こう彼らは言わざるを得なかった。再び、釈尊は語りかけた。「修行者達よ。耳を傾けよ。不死が得られた。私は法を説くであろう。お前たちは教えられたとおりに行うならば、久しからずして良家の子らが出家の目的とする無上の清浄行の究極をこの世で自ら知り証し体現するであろう。」・・・五人の修行者は釈尊の話に耳を傾ける決心をした。遂に、説法の時は熟したのである。いよいよ、仏教誕生のその時である。


 そこで、世尊は五人の修行者の群れに告げた。「修行者らよ。出家者が実践してはならない二つの極端がある。その二つとは何であるか。一つは諸々の欲望において欲楽に耽ることであって、下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、為にならぬものであり、他の一つは自ら苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、為にならぬものである。真理の体現者はこの両極端に近づかないで、中道を覚ったのである。それは眼を生じ、平安・超人知、正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向かうものである。修行者らよ。真理の体現者の覚った中道・・・それは眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向かうものである・・・とは何であるか。それは実に、聖なる八支よりなる道である。即ち、正しい見解、正しい思惟、正しい言葉、正しい行い、正しい生活、正しい努力、正しい念い、正しい瞑想である。これが実に真理の体現者が覚った中道であり、眼を生じ、平安・超人知・正しい覚り・安らぎ(ニルヴァーナ)に向かうものである。

(律蔵・大品)

 ところで、これらの教説はどのような背景の下に説かれたのであろうか。釈尊の覚りの内容は「縁起の理法」であった。しかし、その法に対する釈尊の認識は“深遠で、見難く、難解であり、静まり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみ良く知る所”のものであり、また、“執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、執着のこだわりを嬉しがっている“世の人々には“これに依ってあること、即ち、縁起という道理は見難い”というものであった。その上で、釈尊は敢えて法を説こうというのである。増谷文雄先生は“四諦は実践の体系である”と指摘されている。これはどういうことであろうか。「縁起の理法」は“深遠で、見難く、思考の域を超えている”のだから、言葉で説明して人に理解させることは容易ではない。“賢者”のみが理解可能な領域である。だから、今、増谷先生が言われる実践の体系とは真理(縁起の理法)に至る“方法・手段の体系”ということである。実践の方法・手段ならば、言葉で説明できる。そうであれば、その実践の道を辿って真理に至る人々も出てくるかも知れないと釈尊は考えられたのである。また、説法相手は出家者であるということにも注意したい。しかも、彼らは七年間釈尊と修行を共にされた求道仲間であった。要するに、釈尊が説かれたことは出家生活にあって、実践可能で、その実践によって真理に至る手段・方法であったということが出来る。

 
以下、三つのキーワードを手がかりとして、中道・八正道の教えを学んでいきたい。一つ目は「極端」ということである。釈尊はこの説法の冒頭“出家者が実践してはならない二つの「極端」”として、快楽主義と苦行主義をあげている。しばしば、中道における快楽主義は釈尊ご自身の出家前の欲楽に満ちた宮廷生活の体験であると説明される。しかし、今、教えを聞いている五人の旧友は王族の出身者ではない。だから、ここで釈尊が指摘されている快楽主義は明らかに宮廷生活のそれではない。しかも、説法相手はついこの間まで修行を共にしていた出家者仲間である。前述したように、釈尊の出家修行の目的の一つはヴェーダの宗教伝統の再生にあった。当時、インド・アーリア人の社会には明らかに民族の宗教伝統に反する宗教家、思想家が人々から一定の支持を得ていた。

 彼ら新興勢力の内、アジタや、カッサパ、パクタ等の唯物主義者や快楽主義者は伝統の宗教観を否定し、中には、公然と道徳を否定する者もいた。こういう輩に対し、釈尊は彼らの行為は“下劣・野卑で凡愚の行いであり、高尚ならず、為にならぬもの“として、排除されたのだ。つまり、今言う一つ目の「極端」とは当時の社会に流行していた唯物主義や快楽主義である。出家者はそのような宗教・思想に近づいてはならないと言うのだ。もう一つの極端は苦行主義である。これは釈尊ご自身及び説法相手の五人もこの七年間修してきたものであった。また、ジャイナ教の修行者はさらに極端な苦行を修していた。彼らの行為も釈尊の眼中にはあったはずである。釈尊は自らの体験を通して、そのような行為は”自ら苦しめることであって、苦しみであり、高尚ならず、為にならぬものである“と覚られたのだ。


 二つ目は「中」ということである。これは“ほどほど”ということではない。“止揚”ということでもなさそうだ。「中」について、釈尊は後にこう教えられている。ソーナという修行者がいた。彼は、出家前、琴の名手であった。出家して、激しい修行を実践していたが、一向に、平安の境地に達しないことに悩んでいた。その姿を見られて、彼のなじんだ琴に託して、釈尊はこう説かれたという。“琴を弾ずる時、その弦はきつすぎても、ゆるすぎても良い音は出ない。それと同じように、修行もきつすぎても、ゆるすぎてもうまくいかない。お前はその「中」をとらねばならない”・・・「中」を言葉で表現することは出来ない。だから、釈尊も例え話でしか説けなかったのだ。

 
三つ目は「正」ということである。「正」は「真実」つまり「サティヤム」である。このことはインド・アーリア人の宗教伝統でもある。だから、「極端」を排して、「中」に立つとは“真実”に立つということである。後世、“実相”あるいは“如実”と表現された概念である。「中」に立つには八つの「正」(真実)なる方法を採れ。これが八正道である。八正道は「正しい見解」(正見)から始まる。“真実を見る眼”(正見)をまず養えというのだ。その上での、日常の修行であり、日々の生活である。真実を見る眼がない限り、正しい日常も修行もない。従って、覚りも平安もないということだ。まず、苦諦である。

 実に、苦しみという聖なる真理は次の如くである。生まれも苦しみであり、老いも苦しみであり、病いも苦しみであり、死も苦しみであり、憎い人に会うのも苦しみであり、愛する人と別れるのも苦しみであり、欲するものを得ないことも苦しみである。要約して言うならば、五つの執着の素因としてのわだかまり(五取薀)は苦しみである。


 ヤージニァヴァルキヤ師は“人間はただ欲望よりなっている”と説いた。この考え方を釈尊は踏襲している。その上で、釈尊は今“人間は苦しみよりなっている”と説いているのである。人生は苦であり、そもそも、人間存在そのものが苦しみである。ヤージニァヴァルキヤ師は諸悪(苦しみ)からの解脱を“アートマンとの合一”に求めた。しかし、アートマンは存在しなかった。世界と人間を支配するのは“縁起の理法”であった。そう覚った瞬間から、釈尊にとっての観察の対象はご自身を含めての人間存在そのものとなった。欲望と苦しみは人間存在の表と裏である。その人間存在を、釈尊は“五つの執着の素因としてのわだかまり”であると説く。中国の訳経者はそれを「五取薀」と訳した。「取」は執着、「薀」は蓄えられていく様(さま)である。人間は執着(取)というゴミの山(薀)である。しかも、そのゴミの山は日々積み上げられて大きくなっている。これが釈尊の人間に対する認識であった。通常、「取」を省いて、「色受想行識」の「五蘊」として学ぶことが多いのであるが、ここは、どうしても「五つの取薀」でなくては釈尊のご真意は伝わらない。ここで、注意したいのは「識」は“アートマンの認識”であるということである。アートマンは存在しない。しかし、“認識”は現に存在している。当然、それは人間に属するものである。集諦に進む。


 実に、苦しみの生起の原因という聖なる真理は次の如くである。それは、即ち、再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である。それは、即ち、欲望に対する妄執と生存に対する妄執と生存の滅無に対する妄執とである。

 
ヤージニァヴァルキヤ師は“人はその欲望のままに意向を起す。その意向のままに様々な行為をする。・・・執着のある人は業に伴われて、ここかしこに、その性向と意の固着する所にゆく。この世で彼がどのような行為を為そうとも、その業の生涯が終わりを迎えた時、さらに新しい業を積む為にあの世からこの世へと、彼は再び帰り来る”と説いている。今、釈尊が説く“再生をもたらし、喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求めるこの妄執である”とはヤージニァヴァルキヤ師のこの教えを踏まえてのご発言である。苦しみの原因は輪廻転生の原因でもある。それは妄執であると、釈尊は教える。その妄執とは“盲目的な執着”ということである。つまり、“真実が見えないこと”が執着を生んでいるということである。“真実が見えないこと”とは「無明」に他ならない。そうすると、“欲望に対する妄執”とは“欲望というものの真実の姿が見えない故に生ずる執着”ということになる。それでは、“欲望というものの真実の姿”とはどういうものか。増谷文雄先生によれば、四諦説において釈尊が説かれている欲望とは“渇愛”(tanha)であるという。それは喉の渇いた者が水を求めて必死にさ迷い歩く様にも似た激しい欲望の働きを表現している。

 “喜びと貪りをともない、ここかしこに歓喜を求める”とはこのことである。また、先生によれば、後年、釈尊は激しい欲望の働きを表現するのにしばしば“貪欲”なる語を用いられたという。ところが、この貪欲の原語は“raga”で、赤または炎を意味している。それが中国の訳経者によって貪欲と訳されたものだから、その原意は失われてしまったのだと言う。つまり、釈尊は“欲望への執着”は自身を焼き尽くし、そして、他人をも焼き尽くすそんな危険性を持ったものであることを自覚せよと教えられているのである。要するに、「渇愛」も「貪欲」も“執着を伴った欲望”であることに注意したい。次に、“生存に対する妄執”とは生老病死という人間存在の真実の姿が見えない故に生ずる執着である。老いを厭い、病を厭い、死を厭うては生命にしがみついている。これが人間である。しかし、いかように生命に執着しようとも、老いもくる。病むこともある。いつかこの生涯は終わるのである。このように、全ての生命は縁起の理法に支配されている。なのに、“生存の滅無”を願う者は自らの力で自らの生命を支配出来ると考えている。彼らは生命というものの真実の姿が見えていないのである。だから、釈尊はそのような考え方を“妄執”と断じたのだ。当時、ジャイナ教の修行者は極端な苦行で知られていた。苦行の究極としての死はむしろ賞賛された。釈尊の頭の中には彼らの行為があったに違いない。聞く側の五人もこのような苦行者を見聞きしていたはずである。滅諦に進む。

 
実に、苦しみの止滅という聖なる真理は次の如くである。それは、即ち、妄執の完全に離れ去った止滅であり、棄て去ることであり、放棄であり、解脱であり、こだわりのなくなることである。苦しみの原因は“妄執”である。その上で、釈尊は苦しみの止滅はあると断言される。それはすなわち“妄執の完全に離れ去った”状態である。その妄執を“棄て去り、放棄し、解脱する”ことである。そして、“こだわりのなくなる”ことである。今、「妄」とは「無明」のことである。だから、妄執を棄て去るとは、“無明の執着”を棄て去るということである。ここで、釈尊は“謬れる見解によって生じた執着”を棄てよと言われているのであって、欲望そのものを棄てること、つまり、禁欲を説かれているのではない。欲望に対する盲目的な執着を棄てよと教えられているのである。執着のなくなった欲望はもはや業(生存)に結びつくことはない。次の道諦では、妄執を棄て去り、明知を開く方法、即ち、苦しみの止滅に至る道が説かれる。

 
実に、苦しみの止滅に至るという聖なる真理は次の如くである。これは、実に、聖なる八支よりなる道である。即ち、正しい見解(正見)、正しい思惟(正思惟)、正しい言葉(正語)、正しい行い(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい念い(正念)、正しい瞑想(正定)である。苦しみの止滅に至る道、即ち、妄執を絶つ方法は「中道」即ち「八正道」である。「中」は「正」、「正」は「真実」である。また、正しい見解(正見)とは“真実を見る眼”ということである。釈尊は“真実を見る眼”を獲得することによって仏陀と成られたのである。釈尊は“真実を見る眼”によって、人間及び世界(宇宙)の真実の姿(実相)、つまり、“縁起の理法”を覚られたのである。そうすると、八正道も詰まるところ“正しい見解(正見)”一点に帰するのである。正しいものの見方によって、正しい思考が組み立てられ、正しい言葉、正しい行為、正しい生活のあり方が実現される。言葉と行為と生活は人間関係に関する事柄である。釈尊の頭の中には、恐らく、修行者の集団生活があったに違いない。集団生活での自分の居場所が安定して、初めて、正しい努力と心の安定も実現される。釈尊は当たり前のことを実は述べられただけである。しかし、人間にとって、この当たり前のことが一番難しい。釈尊の説明はさらに続く。

 
“苦しみという聖なる真理はこれである“とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。実に、“この苦しみという聖なる真理が普く知らるべきである”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。“この苦しみという 聖なる真理が普く知られた“とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。“苦しみの生起の原因という聖なる真理はこれである”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。そこで、“この苦しみの生起の原因という聖なる真理は断ぜらるべきである”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。“この苦しみの生起の原因という聖なる真理が既に断ぜられた”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。“苦しみの止滅という聖なる真理はこれである”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。そこで、“この苦しみの止滅という真理が現証せらるべきである“とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。“この苦しみの止滅という真理が現証せられた“とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

 
“苦しみの止滅に至る道という聖なる真理はこれである”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。そこで、“この苦しみの止滅に至る道という真理は実修せらるべきである”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。“この苦しみの止滅に至る道という真理が既に実修せられた”とて、未だかって聞いたことのない法に関して、私に眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じた。

 
“四諦説は方法・手段の体系である”ことは既に述べた。四諦説ではその目的は隠されている。方法・手段の実践の先に目的が達成されることが期待されているのである。目的達成には、“@目的を認識しA手段を講じて、Bその手段を実行し、C結果を検証する”という過程が必要である。四諦説の目指す目的は“無明を滅して、光明を開き、縁起の理法を覚る”ことである。釈尊はこの目的を語ることなく、聞く者をして“縁起の理法を覚る”という目的に導こうとされたのである。「三転十二行相」と呼ばれているこの一段は、かく非常に難しい仕事を前にして、釈尊がその自説を再度検証した、その内容が語られている。四諦説の目指す所は“人生苦からの解放”である。その“人生苦の原因は欲望への妄執である”、だから、苦しみから解放されるにはその“妄執を断ずれば”よい。論理は至ってシンプルである。ここの所を頭に入れておいて、それぞれの真理について見てみよう。

 まず、「苦諦」について、釈尊が再度検証された課題は“人生は苦である”という真実(真理)が誰にとっても理解可能な内容となっているかということである。“普く知られるべき”ということがこのことである。今風に言えば、“普遍性”ということである。恐らく、釈尊は自らの人生を省みられて、生まれることも苦しみ、老いも病いも、やがて死するも苦しみ、憎い者に会うも苦しみ、欲しいものが手に入らないのも苦しみ、結局、人間としての存在(五取蘊)そのものが苦しみである。考えてみたら、自分だけがそのように苦しいのではない。世間の人々も自分と同じように苦しいはずだ。これらの苦しみは人間共通の普遍的な事実である。“人生は苦である”という真実(真理)は間違いない。


 「集諦」について、釈尊が再度検証された課題は“人生苦の原因は欲望への妄執である”ということである。“欲望の妄執を断ずる”ことによって、苦しみは消滅するはずであるが、確かに消滅するものであろうか。釈尊はご自身の体験を再度検証されて、確かに、欲望への妄執の断絶によって、自分には眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じたと確信された。「滅諦」について、釈尊が再度検証された課題は“妄執の断絶は現証されなければならない”ということである。これはどういうことか説明するのは中々に難しい。敢えて言えば、ここでいう“現証”とは他人がその人を見て確かに妄執が断絶されている状態であると認め得るかどうかということである。釈尊はご自身の体験を再度検証されて、自分における妄執の断絶が誰人に対しても現証されるものとなっているからこそ、自分には眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じたと確信された。

 
「道諦」について、釈尊が再度検証された課題は“八正道は実修されなければならない”ということである。苦しみから解放されるには“欲望への妄執を断ずれば”よい。その方法が八正道である。恐らく、釈尊は自らの修行生活を省みられて、自分における欲望への妄執の断絶は中道(八正道)の実修によって実現されたもののはずである。だからこそ、自分には眼が生じ、知識が生じ、智慧が生じ、明知が生じ、光明が生じたと確信された。続いて、釈尊はブッダと成った宣言をされる。これは釈尊自らの手による仏教開教の宣言である。

 修行僧らよ。これら四つの聖なる真理に関して、それぞれ三つの段階・十二のかたち(三転十二行相)によって、如実に見る知見が私に未だすっかり純粋清浄でなかった間は、“私は神々・悪魔・梵天・修行者・バラモン・人間を含めた生きとし生ける者どもの中において、無上の正しい覚りを現に覚った“とは称しなかった。しかるに、今や、実に、これらの四つの聖なる真理に関して、このように三つの段階・十二のかたちある如実に見る知見が私にとって、すっかり純粋清浄なものとして起こったのであるから、“今や、私は神々・悪魔・梵天・修行者・バラモン・人間を含む生きとし生ける者どもの中おいて、無上の正しい覚りを現に覚った“と称したのである。そして、私に次の知見が生じた。“我が心の解脱は不動である。これが最後の生存である。もはや、後の再生はあり得ない“世尊はこのように言われた。五人の修行者の群れは歓喜し、世尊の説かれたことを喜んだ。そして、この決まりことばが述べられた時に、尊者コーダンニャに、塵なく汚れなき真理を見る眼が生じた。

 
“およそ、生起する性あるものは、全て滅びさる性あるものである”その時、世尊はこのような感嘆のことばを発せられた。“ああ、コーダンニャは覚ったのだ。ああ、コーダンニャは覚ったのだ。”それ故に、尊者コーダンニャを“覚った尊者コーダンニャ”と名づけるようになった。

 四諦説は机上の空論ではない。釈尊自らが実践し覚りに至ったそのご体験を話されたのである。その体験が誰もが理解でき、誰もが実践出来て、誰もがその身に結果を証明することが出来る教えであるかどうかを多方面から検討されたのが“三転十二行相”である。釈尊ご自身、その確信を得たからこそ、“無上の正しい覚りを現に覚った“と称され、そして、”我が心の解脱は不動である。これが最後の生存である。もはや、後の再生はあり得ない“という知見がご自身に生じたのである。ここに、ブッダ・シャカムニが誕生した。


 ブッダ・シャカムニと仏弟子の誕生は同時であったかも知れない。修行者の一人コーダンニャにこの時、“塵なく汚れなき真理を見る眼”が生じた。“およそ、生起する性あるものは、全て滅びさる性あるものである”と・・・その時、釈尊は“ああ、コーダンニャは覚ったのだ。ああ、コーダンニャは覚ったのだ”と叫ばれたという。覚りは釈尊一人のものから全ての人々(一切衆生)のものとなった。ここに、仏教(仏法)が誕生した。修行者コーダンニャの覚りは、明らかに、“縁起の理法”である。四諦説の目的であった“聞く者をして縁起の理法を覚らせる”という目的もここに達成されたのである。どのようにして、コーダンニャが四諦説の中の縁起の理法に気がついたのかは分からない。それは詮索しても詮無いことである。とにかく、四諦説には“縁起の理法”が隠されている。このことを頭に入れて、四諦説には参じていきたい。

 
さて、真理の眼を得たコーダンニャはその場で釈尊から具足戒を受け正式の仏弟子となった。続いて、修行者ヴァッパ、修行者バッディヤ、修行者マハーナーマ、修行者アッサジが真理の眼を得た。彼らも、釈尊から具足戒を受け正式の仏弟子となった。ここに僧団(サンガ)が誕生した。同時に、仏法僧の三宝が誕生した。

仏教誕生(3)・・・無常・無我

 律蔵・大品の記述によれば、四諦説に続いて“無常・無我説”が説かれたとある。まず、“無我”について説かれる。

 
そこで、世尊は五人の修行者の集いに説かれた。「修行僧らよ。物質的なかたち(色)は我(アートマン)ならざるものである。もしも、この物質的なかたち(色)が我(アートマン)であるならば、この物質的なかたち(色)は病に罹ることはないであろう。また、物質的なかたち色)について、“わが物質的なかたち(色)はこのようであれ。わが物質的なかたち(色)はこうあることがないように“と為し得るであろう。しかるに、物質的なかたち(色)は我(アートマン)ならざるもの(無我)であるが故に、物質的なかたち(色)は病に罹り、また、物質的なかたち(色)に、“わが物質的なかたち(色)はこのようであれ。わが物質的なかたち(色)はこうあることがないように“と為すことができないのである。」

 感受作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)についても、同様に説かれる。続いて、“無常”について説かれる。

 
「修行僧らよ。汝らはどのように考えるか。物質的なかたち(色)は常住であるか。あるいは、無常であるか。」「物質的なかたち(色)は無常であります。尊き方よ。」「では、無常なるものは苦しいか。あるいは、楽しいか。」「苦しいのであります。尊き方よ。」「では、無常であり、苦しみであって、壊滅する本性のあるものを、どうして“これはわがものである”“これはわれである”“これはわが我(アートマン)である”と見なしてよいだろうか。」「よくありません。尊き方よ。」

 
感受作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)についても、同様に説かれる。

 
「それ故に、修行僧らよ。ありとあらゆる物質的なかたち(色)、即ち、過去・現在・未来の内であろうと外であろうと、粗大であろうと微細であろうと、下劣であろうと美妙であろうと、遠くにあろうと近くにあろうと、全て物質的なかたち(色)は“これはわがものではない。これはわれではない。これはわれの我(アートマン)ではない”と、このように、これを如実に正しい叡智によって観察すべきである。」

 
感受作用(受)、表象作用(想)、形成作用(行)、識別作用(識)についても、同様に説かれる。

 「修行僧らよ。このように見なして、教えを聞いた優れた弟子は、物質的なかたち(色)を厭うて離れ、感受作用(受)を厭うて離れ、表象作用(想)、諸々の形成作用(行)、識別作用(識)を厭うて離れる。厭うて離れるから、貪りから離れる。貪りから離れるから、解脱する。解脱した時に、“私は既に解脱した”と知るに至る。“生存は既に尽きた。清らかな行いは修せられた。為すべきことは為された。もはや、この世の生存を受けることはない。”と確かに知るのである。」 世尊はこのように説かれた。五人の修行者の集いはこころ喜び、世尊の所説を喜んで受けた。そして、この決まりの言葉が述べられた時に、集うた五人の修行僧は執着なく、諸々の煩悩から心が解脱した。そこで、その時、世に六人の尊敬さるべき人(アラカン)がいることとなった。

 さて、説法の相手はかっての苦行仲間である。ここの所を頭に入れて、釈尊は話をされている。彼らは、アートマンとの合一を目指して苦行を修してきた。釈尊もそうであった。しかし、釈尊は“アートマン(我)は存在しない”ということに気が付かれた。この真実(真理)を、今、釈尊は彼らに理解させようとしているのである。


 そもそも、アートマンとの合一は何故必要とされるのか。アートマンは人間存在の本質であるとともに、世界の根本原理ブラフマンに繋がるものであった。当時の人々の間では、アートマンと合一した人はその肉体も心もそれらを自由に思うがまま御することが出来ると考えられていた。また、そのような人には神通力、今風に言えば,超能力が備わっているとも信じられていた。苦行は超能力者になる為の最善の手段であった。しかし、今、釈尊が、“物質的なかたち(色)は我(アートマン)ならざるものである”と説く時、“お前たちの肉体(色)の何処にもアートマンなるものはいない”と教えているのである。アートマンとは“不死”ということである。そうであるならば、と釈尊は畳み掛けて彼らにこう問う。“そうであるならば、アートマンと合一した人(超能力者)の肉体(色)は病に罹らないだろうし、また、その肉体(色)を自由に操ることも出来るだろう。しかし、そういう人であっても、病には罹るし、また、病に罹るなといかほど念じようとも病む時は病むのだ。さほどこのように我々は自分の肉体を思いどおりに御することなど出来ない。心(受想行識)もまた同じである。”・・・ここでは、人間存在の本質論としての「無我」が説かれている。ここでの「我」は「アートマン」であることは明らかであろう。


 次に、“現実の人間とは如何なるものか”、釈尊は修行者たちに問いかける。問われる側は既に「縁起の理法」を理解している。その上で、まず、釈尊は彼らに“我々の肉体(色)は常住なのか無常なのか”を問うのである。彼らは“無常です”と回答せざるを得ない。その回答を待って、釈尊は“無常なるものは苦か楽か”と問う。今度は、彼らは“苦しみです”と回答せざるを得ない。どうして、このような方法を釈尊は取られたのか。その目的は、結果を教えることなく、聞く者に自ら回答させることによって、彼らに教えの意味を理解させる為である。そして、最終結論に導かれる。釈尊は彼らに問うた。我々の肉体(色)は“無常であり、苦しみであって、壊滅する本性のあるもの”である。そういったいずれ滅亡するであろう“肉体(色)”というものを、何故に“これはわがものである”“これはわれである”“これはわが我(アートマン)である”と見なし得ようか。“そうは見なし得ません”そう彼らは回答した。当然である。“「無常」なるものは即ち「無我」である”釈尊はこう結論されたのである。


 既に、人間の日常の認識作用の背後にある認識主体であるアートマンは否定されている。だから、我々が日常行っている認識作用そのものが新たな“認識主体”である。それは個々人に属する「自己」と呼び得るものである。この前提の上に、次の一段が説かれるのである。「全て物質的なかたち(色)は“これはわがものではない。これはわれではない。これはわれの我(アートマン)ではない”と、このように、これを如実に正しい叡智によって観察すべきである」と・・・

 
それでは、“如実に正しい叡智によって観察すべき”その当事者はいったい誰なのか。凡夫にはここが問題である。答えは明白だ。それは、“これはわがものである。これはわれである。これはわが我(アートマン)である”と見なしている(認識している)「自己」である。自己矛盾に陥らざるを得ないのであるが、続いて、釈尊は“厭うて離れよ”と説かれている。これは、一体どういうことであろうか。文面からは人間存在(肉体と心・五蘊)を厭うて離れよと読めるけれども、釈尊のご真意は“執着の対象としての人間存在”つまり“五取蘊”を厭うて離れよと説かれているのである。つまり、“これはわがものである。これはわれである。これはわが我(アートマン)である”と見なしている(認識している)“無知(無明)な「自己」”を“厭うて離れよ”と釈尊は教えているのである。これは浄土教で言う「厭離穢土・欣求浄土」へと繋がるものである。つまり、“発菩提心(発心)”の原点がここにある。欲望のままに、ここかしこに執着しては苦しんでいる無知な自己自身にまず気が付くということがなければ、仏の門は開かれない。仏(覚り)への道はそれからである。

仏教誕生(4)・・・業

 インド人の世界観は広い。個人は宇宙に繋がっている。宇宙もまた個人に繋がっている。宇宙の秩序をブラフマンと言い、それは人間を含む自然界を秩序づけている根本原理である。ブラフマンはこの世界のあらゆるものに浸透し、あらゆるものを存在せしめ、存在側からそれらはアートマンと呼ばれる。自然界、社会、そして、個々人、この世界の存在物の有り様と秩序をインド人はダルマと呼んだ。ダルマは宗教であり、生活規範であり、倫理規定かつ人生の指針であった。それらは聖典ヴェーダに収録され、バラモン僧はヴェーダの専門職として、宗教儀式を通して社会と民衆を支配した。

 人は、過去の幾多の生涯の業(行為)の結果として、今生に誕生し、今生の業の結果として、次の生涯に転生し、この輪廻転生の輪は永劫に続くものとされた。ヴェーダは最高の知識として師匠から弟子へ口伝され、かかる師資相承の伝統の中からウパニシャッドの哲学が生まれた。ウパニシャッドの哲人たちは、バラモン教の形式主義・儀式万能主義に異議を唱えて、出家と瞑想を通して、輪廻転生の苦しみの幾生涯からの解脱の可能性を世間に説き明かした。仏教もまたかかる輪廻転生の苦しみの幾生涯からの解脱の可能性を追及された釈尊の出家修行と瞑想の中から誕生した。仏教は反バラモン思想として、ヴェーダ・ウパニシャッドの伝統の基盤の上に立ちながら、ウパニシャッドと諸思想を糾合し、それらの対立を止揚するものであった。

(生まれによって賤しい人となるのではない。行為(業)によって賤しい人ともなる)

 業とは何か。釈尊はある時こう説かれたという。バーラドヴァージャは火に仕えるバラモンであった。祭壇には聖火がともされ、供物が供えられて、祭儀が始まろうとしていた。その時、彼は托鉢途中の釈尊のお姿を遠くに見た。そして、釈尊にこう言った。“賤しい者よ。ここに、近づくな”・・・彼は聖火の汚れることを怖れたのだ。“バラモンよ。お前は賤しい人の何たるかと人をしてそうさせる条件とをご存知か”・・・釈尊は反対にバラモン・バーラドヴァージャにこう質問した。そう質問されて、彼は一言も反論できなかった。そして、釈尊に教えを請うた。釈尊は、賤しい人とその条件をこう説かれた。“怒りやすく、恨みを抱いて、人を欺く人。生き物に哀れみを持たず、生き物を殺す人。圧制者。盗人。借金を踏み倒す人。強盗。偽証をする人。老いた父母を養わない人。出家者に食事の施しをしない人。自惚れて、他人を軽蔑する人。ブッダとその弟子たちを謗る人。聖者ぶって、世の尊敬を得ようとする人等々・・・”世の誰人も賤しい行為と思えることがらを取り上げて、最後に、釈尊はこうと説かれた。

 
生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのではない。行為(業)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

(スッタニパータ 136)

 ここで釈尊が取り上げられた賤しい行為は時代や民族を超えて誰もが認めうることがらである。釈尊は当時のインドの社会通念にのっとって、当たり前のことを当たり前に述べられたにすぎない。親による子供の虐待が絶えない。子供を生んだから親となるのではない。親としての行為をなして親となるのである。現代にも通じる釈尊の教えである。続いて、釈尊は賤しい人の行く末をこう説かれた。“賤民階級出身で犬殺しを職としたマータンガは、自己を律し、他に情厚く、徳性豊かな人物であった。それ故、階級を超えて、バラモンや王族からも尊敬された。”・・・こう前置きされて、釈尊は彼の死後の行く末をこう説かれた。

 
彼は神々の道、塵汚れを離れた大道を登って、欲情を離れて、ブラフマンの世界に赴いた。賤しい生まれも、彼がブラフマンの世界に生まれることを妨げなかった。ヴェーダ読誦者の家に生まれ、ヴェーダの文句に親しむバラモンたちも、しばしば悪い行為を行っているのが見られる。そうすれば、現世においては非難せら、来世においては悪いところ(地獄)に生まれる。身分の高い生まれも、彼らが悪いところに生まれ、また、現世において非難されることを防ぐことは出来ない。生まれによって賤しい人となるのではない。生まれによってバラモンとなるのでもない。行為(業)によって賤しい人ともなり、行為によってバラモンともなる。

(スッタニパータ 139〜142)

 この教えでは、階級(カースト)に対する行為の優位性が説かれている。今生で、賤民であっても、功徳を積めば、来世は梵天界にも生まれ得る。今生、恵まれた家柄に生まれたのは、前世の善行の結果である。それを忘れて、バラモンでありながら悪事を働けば来世は地獄往きである。階級(カースト)に対する行為の優位性については、こうも説かれている。火に仕えるバラモン・スンダリカ・バーラドヴァージャは、供儀をやり終え、供物のおさがりを施すべき相手を探していた。その時、彼は遠からぬ所に釈尊が坐禅をしておられるのを見た。そして、供物を施そうと釈尊に近づいた。しかし、彼は剃髪姿の釈尊に気が付いて、引き返そうとした。前段の話でもそうであったが、釈尊の時代、出家遊行者には賤民階級の出身者が相当数いたようである。スンダリカ・バーラドヴァージャは釈尊を賤民階級出身者ではないかと疑ったのである。しかし、思い直して、その生まれを聞いて見ることにした。釈尊の答えは意外なものであった。

 私はバラモンでもないし、王族の者でもない、私はヴァイシャ族の者でもないし、他の何ものでもない。諸々の凡夫の姓を知り尽くして、無一物で、熟慮して、世の中を歩む。私は家なく、重衣を着け、鬚髪を剃り、こころ安らかならしめて、この世で人々に汚されることなく、歩んでいる。バラモンよ。あなたが私に姓を訊ねるのは適当ではない。

(スッタニパータ 455〜456)

 他の何ものというのは賤民階級をさしている。私は出家・遊行者であると釈尊は答えられたのだ。しかし、スンダリカ・バーラドヴァージャは諦めきれない。恐らく、釈尊のその神々しくも威厳のあるお姿に胸打たれるものがあったのであろう。彼は釈尊にサーヴィトリー讃歌(リグ・ヴェーダにある太陽讃歌)について訊ねた。釈尊は朗々とその讃歌を詠じられた。これでこの修行者が賤民階級でないことだけは分かった。これはただ者ではない。修行を積まれた高徳の人に違いない。いままでの自分の疑問を聞いてみよう。スンダリカ・バーラドヴァージャは釈尊に訊ねた。“どのような人に祭祀後の献供を捧げたら功徳があるのでしょうか。”・・・釈尊の答えはこうであった。

 
生まれを問うことなかれ。行いを問え。火は実にあらゆる薪から生ずる。賤しい家に生まれた人でも、聖者として道心堅固であり、恥を知って慎むならば、高貴の人となる。真実もてみずから制し、諸々の感官を慎み、ヴェーダの奥義に達し、清らかな行いを修めた人、そのような人にこそ供物を捧げよ。バラモンが功徳を求めて祀りを行うのであれば。

(スッタニパータ 462〜463)

 経文は続けて献供に値する人の条件の数々を掲げている。そして、最後に、“迷妄と煩悩を克服し、全き知見があり、最後の身体であり、無上の覚りを得た人・・・こういう人こそ献供に値する”とこうスンダリカ・バーラドヴァージャに語りかけられた。すっかり感服したスンダリカ・バーラドヴァージャは釈尊に先ほどの供物を捧げようとした。しかし、釈尊はそれを制して、“覚者は詩(聖典)を詠じて施しを受けてはならないことになっている”とこう述べられて、献供を断られた。お経をあげただけでお布施がもらえる今の坊さんには頭の痛い話である。後段の教えでは、前段の“生まれによって賤しい人となるのではない。行為(業)によって賤しい人ともなる”ということを“生まれを問うことなかれ。行いを問え”と言い換えているのである。我々凡夫は後段の教えの方が分かりやすい。

(世の中は行為(業)によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ)

 行為(業)と社会の関係について、ある時、釈尊はこう述べられたと伝えられている。コーサラ国のある村に釈尊が逗留されていた時のことであるという。この村に、ヴァーセッタとバーラドヴァージャと言う名の二人のバラモン青年がいた。彼らは、バラモンたる資格の条件について論争していた。バーラドヴァージャは、“正しいバラモンの血統の家柄の生まれによってバラモンである”と主張した。また、ヴァーセッタは、“戒律を守るに堅固で徳行を身に備えていればバラモンである”と主張した。しかし、二人の論争は決着しなかった。そこで、釈尊の下を二人して訪ねた。ヴァーセッタは釈尊に質問した。“我々二人にバラモンたる資格について論争が起こりました。しかし、決着が付きません。バーラドヴァージャは生まれによってバラモンであると言い、私は行為によってバラモンであると言います。このことについて話してください”・・・。釈尊はまずこう話されたと経文にはある。

 
ヴァーセッタよ。そなたらの為に、諸々の生物の生まれ(種類)の区別を、順次にあるがままに説明してあげよう。それらの生まれは、いろいろと異なっているからである。草や木にも種類の区別のあることを知れ。しかし、彼らは“我らは草である“とか、”我らは木である“とか言い張ることはない。彼らの特徴は生まれにもとづいている。彼らの生まれはいろいろと異なっているからである。

(スッタニパータ 600〜601)

 この後、昆虫類、獣類、鳥類、魚類等の生類を同じように取り上げられて、まとめに、こう説かれた。これらの生類には生まれにもとづく特徴はいろいろと異なっているが、人類にはそのように生まれにもとづく特徴がいろいろ異なっているということはない。髪についても、頭についても、耳についても、眼についても、口についても、鼻についても、唇についても、眉についても、首についても、肩についても、腹についても、背についても、臀についても、胸についても、陰所についても、交合についても、手についても、足についても、指についても、爪についても、脛についても、腿についても、容色についても、音声についても、他の生類の中にあるような、生まれにもとづく特徴の区別は人類にうちには決して存在しない。身をうけた生き物の間ではそれぞれ区別があるが、人間のあいだではこの区別は存在しない。人間のあいだで区別表示が説かれるのは、ただ名称によるのみである。

(スッタニパータ 608〜611)

 ここでは人間の平等が説かれている。白人。黒人。黄色人。男。女。美男。美女。ブス。ちび。でか。でぶ。痩せ。確かに、人間には見た目の違いはある。しかし、人間には目鼻口耳、手足、胴体等、身体の機能および造作上の違いはない。人間にあって個人を区別するのは、名称である。名称とは個々人を区別する為の手段である。今、話の対象となっている名称は、バラモン、つまり、階級ないし職業についてである。既に、学んだことであるが、カースト制度は身分を表わすものであると同時に、職業を示すものであった。ここの所を頭に入れて、釈尊の続きの教えに耳を傾けよう。

 人間のうちで、牧牛によって生活する人があれば、彼は農夫であって、バラモンではないと知れ。ヴァーセッタよ。

(スッタニパータ 612)

 続いて、同じように、職人、商人、雇い人、盗賊、武士、司祭者、王が取り上げられている。盗賊が職業というのは現代人からすると不思議な気がするが、当時は、当たり前に為されていたことなのであろう。それはさて置き、続いて、釈尊はバラモンたる条件をこう述べられている。

 われは、バラモン女の胎から生まれ、バラモンの母から生まれた人をバラモンと呼ぶのではない。彼は“きみよ、といって呼びかける者”といわれる。彼は何か 所有物の思いに捉われている。無一物であって執着のない人、彼を私はバラモンと呼ぶ。

(スッタニパータ 620)

 バラモン階級の人々はお互いを“きみよ”と呼びあっていたらしい。バラモンの生活習慣の象徴として、ここでは取り上げられているのである。釈尊の頭の中には、聖職者でありがら、生活(収入)の手段として宗教行為を行い、財産を増やすことにしか関心のない当時の多くのバラモン僧たちがあったに違いない。バラモンに生まれ、聖職者らしい立ち居振る舞いはしているが、実態は、欲望の生活に執着し、在俗者と何ら変わらない。そういう者たちをバラモンと呼ぶのではない。家(在俗生活)を棄て、何物も所有せず、執着のない人をバラモンと呼ぶのだ。それが真の宗教者である。釈尊はそう主張されているのである。“無一物であって執着のない人”とはどういう人なのか。続いて、釈尊は詳細に説かれている。内容は経文を直接見て欲しい。要は、そこに説かれているのは覚者ブッダの条件である。そして、最後に、こう結論付けられた。

 
生まれによってバラモンとなるのではない。生まれによってバラモンならざる者となるのでもない。行為(業)によってバラモンなのである。行為(業)によってバラモンならざる者なのである。行為によって農夫となるのである。行為によって職人となるのである。行為によって雇い人になるのである。行為によって盗賊ともなり、行為によって武士ともなるのである。行為によって司祭者となり、行為によって王ともなる。賢者はこのように行為をあるがままに見る。彼らは縁起を見る者であり、行為(業)とその報いを熟知している。世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ。生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように。熱心な修行と清らかな行いと感官の制御と自制と、これによってバラモンとなる。

(スッタニパータ 650〜655)

 社会は個人より成っている。個人はそれぞれ職業をもっている。インド社会ではその職業が階級ごとに固定されていた。それがカースト制度である。バラモンは宗教。クシャトリヤは政治と軍事。ヴァイシャは工業と商業。シュードラは農業。今、質問者であるバラモン青年二人はバラモン階級の一員としての自己のアイデンティティーは何かを問うているのである。それに対し、釈尊は明らかに階級(カースト)を否定している。バラモンに生まれたのも、シュードラに生まれたのも過去世での自己自身の為した業の結果である。お前らのアイデンティティーはお前らの行為(業)にあるのであって、その身分(バラモン)にあるのではない。大切なのは、今、自分が為している、その行為の中身である。バラモンに生まれたこと喜べ。その上で、バラモンの行為をせよ。バラモンの行為がバラモンを作るのである。

 このように、賢者は行為(業)の何たるかを知っている。バラモンに生まれても、バラモンの行為を為さなければ、その報いを受ける。因果応報は明らかである。社会は階級(カースト)と職業で構成されている。これは確かなことではあるが、一方、見方を変えると、社会は個々人の行動(行為)の集積である。“世の中は行為によって成り立ち、人々は行為によって成り立つ”とはこのことである。我々は社会との関係を決して絶つことは出来ない。自分の行為の一つ一つが社会に繋がり、社会を形成し、社会を形作っている。引きこもっても、決して、社会との関係を絶つことは出来ない。食物も衣服も住居も社会の誰かが提供してくれたものである。家族と彼との関係は職場なり学校、隣近所に何らかの影響を与えているはずである。“引きこもり”も社会を構成する個々人の“行為(業)”の一つなのである。人はどのような生き方をしようとも“行為(業)とその報い(縁起・因果応報)”から逃れることは出来ない。“生きとし生ける者は業(行為)に束縛されている。進み行く車が轄(くさび)に結ばれているように”とは、この事である。今、ここに言う轄(くさび)は車軸から車輪が外れないようにする為の金具である。轄は業、車は輪廻を象徴している。轄(業)を外さない限り、車(輪廻)は永遠に走り続けるのである。

 
日々の自己の行動を軽くみてはならない。起きていようが、眠っていようが、立っていようが、座っていようが、歩いていようが、走っていようが、働いていようが、休んでいようが、食っていようが、飲んでいようが、家にいようが、職場にいようが、学校にいようが、何処にいても、何をやっていても、人間を生きている限り、我々は業を作り続けては、輪廻転生の輪を回し続けているのである。業(行為)は人間そのものである。人間とは業(行為)である。仏教(インド人)の人間観とはこういうことである。

 
ところで、人間の行為(業)は社会関係の上に成立するものである。そうすると、社会は縁(関係性)より成っているとも言うことも出来る。最近、無縁死あるいは無縁社会ということが話題になっている。孤独死した人の中には、血縁者が一人もいない人もいるにはいるだろうが、中には、肉身がいるにもかかわらず、遺体の引き取りを拒否される事例があるという。背景には、血縁、地縁による人間関係の崩壊がある。しかし、その根底には宗教関係の崩壊があることを忘れてはならない。先祖崇拝(血縁)と産土神(氏神)信仰(地縁)である。

仏教誕生(5)・・・因果(業とその報い)

 生けるもの(衆生)は業から逃れられない。悪因悪果。善因善果。因果の道理は明らかである。

 ある人々は人の胎に宿り、悪を為した者どもは地獄に堕ち、行いの良い人々は天におもむき、汚れの無い人々は全き安らぎ(ニルヴァーナ)に入る。

(ダンマパダ 126)

 ダンマパダ(法句経)のこの一句は因果の法則の何たるかを見事に言い得ている。因果の定理といってよかろう。

(愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける)

 地獄に堕ちる者とその有りさまについては、釈尊自ら詳しく説かれている。修行者コーカーリヤはサーリプッタとモッガラーナに邪念があると言って非難していた。そして、とうとう釈尊にまでそのことを申し上げた、釈尊はコーカーリヤをたしなめて、非難を止めさせようとされた。しかし、彼は非難を止めなかったという。やがて、コーカーリヤの全身に腫れ物ができて、小さかったものがやがて大きくなり、膿と血がほとばしり出て彼はとうとうその病苦の為死んでしまった。そして、彼は紅蓮地獄に堕ちたという。コーカーリヤのこの因縁話にちなんで釈尊はこう説かれたという。

 人が生まれた時には、実に、口の中に斧が生じている。愚者は悪口を言って、その斧によって自分を切り裂くのである。謗るべき人を誉め、また誉むべき人を謗る者、彼は口によって禍を重ね、その禍のゆえに福楽を受けることが出来ない。賭博で財を失う人は、たとい自身を含めて一切を失うとも、その不運はわずかなものである。しかし、立派な聖者に対して悪意をいだく人の受ける不運は、誠に重いのである。悪口を言いまた悪意を起して聖者を謗る者は、十万と三十六のニラッブダの巨大な年数の間また五つのアッブダの巨大な年数の間地獄に赴く。嘘を言う人は地獄に堕ちる。また、実際にしておきながら「私はしませんでした」と言う人もまた同じ。両者ともに行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける。


 害心なく清らかで罪汚れのない人を憎むかの愚者には、必ず悪い報いが戻ってくる。風に逆らって微細な塵を撒き散らすようなものである。種々なる貪欲に耽る者は言葉で他人を謗る。彼自身は信仰心なく、物惜しみして、不親切で、けちで、やたらに陰口を言うのだが。口汚く、不実で、卑しい者よ。生き物を殺し、邪悪で、悪行を為す者よ。下劣を極め、不吉な、出来損ないよ。この世であまりおしゃべりするな。お前は地獄に堕ちる者だ。お前は塵を撒いて不利を招き、罪を作りながら、諸々の善人を非難し、また、多くの悪事をはたらいて、長い間深い穴(地獄)に陥る。けだし、何者の業も滅びることはない。それは必ず戻ってきて、業を作った主がそれを受ける。愚者は罪を犯して、来世にあってはその身に苦しみを受ける。

(スッタニパータ 657〜666)

 釈尊はここで、“何者の業も滅びることはない”と教えられている。この身もこの境遇も過去の幾生涯で為した業の結果なのである。それらは一つも滅びることなく、今生のその身と境遇に相い応じている。人身を受けたことは寧ろ幸運である。地獄に堕ちた者の有り様は実に悲惨である。

 地獄に堕ちた者は、鉄の串を突き刺されるところに至り、鋭い刃のある鉄の槍に近づく。さてまた、灼熱した鉄丸のような食物を食わされるが、それは、作った業にふさわしい当然のことである。地獄の獄卒どもは、「捕らえよ」「打て」などと言って、誰も優しいことばをかけることなく、温顔をもって向かってくることなく、頼りになってくれない。地獄に堕ちたものどもは、敷き広げられた炭火の上に臥し、あまねく燃え盛る火炎の中に入る。また、そこでは、地獄の獄卒どもは、鉄の網をもって、地獄に堕ちたものどもを絡めとり、鉄槌をもって打つ。さらに、真の暗黒である闇に至るが、その闇はあたかも霧にように広がっている。また次に、地獄に堕ちたものどもは火炎があまねく燃え盛っている銅製の釜に入る。

 火の燃え盛るそれらの釜の中で永い間煮られて,浮き沈みする。また、膿や血のまじった湯釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。彼がその釜の中でどちらの方角に横たわろうとも、膿と血とに触れて汚される。また、蛆虫の棲む水釜があり、罪を犯した人はその中で煮られる。出ようにも、つかむべき縁がない。その釜の上部は内側に湾曲していて、周りが全部一様だからである。また、鋭い剣の葉のついた林があり、地獄の獄卒どもがその中に入ると、手足を切断される。地獄の獄卒どもは鉤を引っ掛けて舌を捉え、引っ張り回し、引っ張り回しては叩きつける。

 また次に、地獄に堕ちたものどもは、超えがたいヴェータラニー河に至る。その河の流れは鋭利な剃刀の刃である。愚かな輩は、悪いことをして罪を犯しては、そこに陥る。そこには黒犬やぶち犬や黒烏の群れや野狐がいて、泣き叫ぶ彼らを貪り食うて飽くことがない。また、鷹や黒色ならぬ烏どもまでが啄ばむ。

(スッタニパータ 667〜675)

 このスッタニパータの地獄の描写はその観念が体系化される以前のものである。しかし、それでもその描写は微に入り細に入り実に詳しい。地獄は仏教の専売特許ではない。当時のインド社会の多くの人々に共有さていた宗教上の社会通念であった。釈尊は当たり前に当たり前のことを聴衆の深層心理に訴えて、教えを説かれたのである。そして、釈尊は最後にこう説かれた。

 罪を犯した人が身に受けるこの地獄の生存は、実に悲惨である。だから、人はこの世において余生のある内に為すべきことを為して、忽(ゆるが)せにしてはならない。紅蓮地獄に運び去られた者の寿命の年数は、荷車に積んだ胡麻の数ほどあると、諸々の智者は計算した。すなわち、それは五千兆年とさらに一千万の千二百倍の年である。ここに説かれた地獄の苦しみがどれほど続こうとも、その間は地獄に留まらねばならない。それ故に、人は清く、温良で、立派な美徳を目指して、常に言葉とこころを慎むべきである。

(スッタニパータ 676〜678)

 地獄に堕ちたら最後、そこから抜け出すのは容易ではない。何しろ、その刑期は半永久的な長さである。だから、釈尊はそこに堕ちない様にせよと言われるのである。釈尊はここでは善を勧めているのである。“余生のある内に為すべきことを為して、忽(ゆるが)せにせず”、“清く、温良で、立派な美徳を目指して、常に言葉とこころを慎め”というのだ。

(私を彼らが捨てて行ってしまったことは、かの前世の業の結果だったのです)

 
今生の不幸を嘆いても詮無いことである。この身もこの境遇も過去の幾生涯で為した業の結果なのである。それらは一つも滅びることなく、今生のその身と境遇に相い応じている。イシダーシー尼はウッジェーニーの豪商の娘であった。一人娘の彼女は両親の愛情を一杯に受けて成長した。そんなある日、サーケータの豪商の息子との結婚話が持ち上がった。そして、父親は彼女をその豪商の息子に嫁入りさせた。彼女は貞淑な妻として誠心誠意夫のために尽くした。しかし、夫は何故か彼女を嫌った。そして、とうとう彼は“私はイシダーシーと一緒に住みたくないのです”とその両親に訴えた。両親は二人の言い分を聞いたけれども、夫の決意は固かった。結局、彼女は実家に戻されてしまった。イシダーシー尼の父親は再び結婚相手を見つけてきて、彼女をその男のもとに嫁がせた。ところが、第二の夫もまた彼女を嫌って一ヶ月で彼女を実家に追い返してしまった。ほとほと困ったのであろう。イシダーシー尼の父親は托鉢に訪れた遊行の修行者を見込んで彼女の婿とした。しかし、この三番目の夫もまた彼女を嫌って半月で出て行ってしまった。こうして、三度、彼女の結婚生活は破綻してしまった。何故に、こんなことになるのだろう。イシダーシー尼もその両親もそう思ったのではないだろうか。誠心誠意夫に尽くし、家の事もきちんとこなし、どこをどう見ても落ち度はない。なのに、結婚生活がうまくいかない。思い悩む日々であったであろう。

 そんなある日、一人の高名な尼僧がイシダーシー尼の家に托鉢の為に立ち寄った。名をジナダッター尼といった。ジナダッター尼に傾倒したイシダーシーはまもなくしてジナダッター尼のもとで出家した。覚りの機が熟していたのであろう。出家して、七日目で三種の明知を得たという。三種の明知とは「宿命(しゅくみょう)通」「天眼通」そして「漏尽通」である。宿命通とは自己の前世の因縁とその有り様を知る智慧である。天眼通とはこの世界をありのままに観る智慧である。漏尽通とは煩悩がことごとく滅ぼし尽くされたと知る智慧である。

 
イシダーシー尼は宿命通によって自分の過去七生を知ったという。尼は自らの過去世を同僚の尼にこう語った。

 その昔、エーラカカッチャの都において、私は多くの財産のある金工(かざりや)でした。若気の至りで、その私は他人の妻と親しくなりました。私は、それから死んで、長い間、地獄のなかで煮られました。罪の報いが熟して、そこから出ると、牝猿の胎に宿りました。私が生まれて七日目に、猿群の長である大猿は私を去勢しました。これは、私がかって他人の妻を犯した行為の報いだったのです。それから、私は死に、シンダヴァの林で生涯を終えて、片目でびっこの牝山羊の胎に宿りました。私は去勢されて、幼児たちを背に乗せて運ぶこと、十二年間でした。そして、虫類に悩まされ、病気にかかりましたが、これもまた、かって他人の妻を犯した為だったのです。

 それから、私は死んで、牛商人の所有する牝牛の胎から生まれました。私は樹脂に似た銅色の牡の子牛で、十二ヶ月たって去勢されました。私は再び犂(すき)と車を引きました。盲目となり、悩み、病気に罹りましたが、これもまた、かって他人の妻を犯した為です。それから、私は死んで、街道筋にある婢女(はしため)の家に生まれ、女性でもなく男性でもありませんでした。これもまた、かって他人の妻を犯した為だったのです。

 三十歳の時、私は死に、次の生涯には車夫の娘として生まれました。この家は貧しく、財乏しく、債権者に対して多くの借金を持っていました。その後、借金が累積し大きく増大すると、隊商の主は、泣き悲しんでいる私を家から引きずり出しました。やがて、私が十六歳になった時、その名をギリダーサと呼ぶ彼の息子は、私が妙齢に達したのを見て、私を嫁にしました。彼には、他に妻がありましたが、彼女は身を修め、婦徳を具え、世に知られ、夫に愛されていました。私はこの夫に憎しみの念を起しました。婢女のように使えていた私を彼らが捨てて行ってしまったことは、かの前世の業の結果だったのです。今、私はそれを終滅しました。

(テーリーガーター 435〜447)

 金工〜地獄〜牡猿〜牡山羊〜牡牛〜中性者〜車夫の娘。以上がイシダーシー尼が想い出した過去七生である。金工というのは、今で言う工場経営者ということであろう。金工であった生涯でイシダーシー尼は他人の妻と密通したというのだ。他人の妻と不倫しただけで地獄に堕ちるとは怖ろしいことだが、注目したいのは、牡猿、牡山羊、牡牛の生涯では去勢されたということだ。つまり、この三つの生涯では性交不能者としての生涯をおくったということである。男でも女でもない。この生涯は人間なのであろうが、やはり、性交不能者である。不純な性行為が地獄行きの切符となって、そこから脱出したと思ったら性交不能者としての生涯が四たびも待っていたということだ。はなはだ、苦しい、悲しい、痛ましい輪廻転生の旅路である。車夫の娘の生涯ではまともな人間に生まれたのではあろうが、極貧であった。“隊商の主は、泣き悲しんでいる私を家から引きずり出しました”とあるから、恐らく、借金の形に貸主に身を拘束されたのであろう。ところが、その息子が彼女を妻としたとあるから、かなりの美女であったのかも知れない。実態は妾であったにしても、幸運である。にもかかわらず、彼女は正妻に嫉妬した。ただ、この一点によって、イシダーシー尼は今生で“夫に愛されない妻”という運命を背負わされたのだ。イシダーシー尼の過去世の話は、わずかな悪事でも必ずその報いを受けるのだということを我々に教えている。今生に報いを受けるかも知れないし、来世、あるいは、来来世に報いを受けるかも知れない。

 
輪廻転生は何も悪因悪果ばかりではない。善因善果の輪廻転生もある。今生の恵まれた境涯は過去世の善行の応報なのである。アヌルッダ長老はある生涯に貧しい食料運搬人であったが、有徳の修行者を供養したことにより、シャカ一族に生まれたという。アヌルッダ長老は語る。

 私は以前にはアンバーラという名の者で、貧しく、糧(まぐさ)を運ぶ者でした。かって、有名なウパリッタという修行者を供養したことがあります。その故に、私はサーキャ族の家に生まれ、アヌルッダという名で人々に知られていました。舞踏や歌謡に明け暮れし、鐃?(にょうばち)の音に目をさましました。

 ところが、私は何ものをも恐れぬ師、完き覚りを開いた人に見えて、彼を信ずる清らかな心を起して、出家して、家なき状態に赴きました。私は以前に暮らしていた前世のありさまを、私は知りました。私はサッカ(帝釈天)として生まれて、三十三天のうちにいたのです。私は人間の王として七度び国を統治しました。四辺に至る全世界を征服し、ジャンブ洲(全インド)の主として、刑罰によることなく武器を用いずに、理法によって人々を統治しました。ここから七度び、またそこから七度びと、十四回にわたる生存を、私は知りました。その時、私は神々の天界にいました。

(テーラガーター 910〜915)

 この因縁話は「蜘蛛の糸」の話に通ずる。地獄に堕ちた盗人の前に、生涯でたった一度だけ蜘蛛の生命を助けた善行によって、極楽から蜘蛛の糸が垂れてきた。その蜘蛛の糸を伝わって極楽へ向かった盗人ではあったが、ふと下を見ると、地獄の亡者どもが次々とその蜘蛛の糸を上って来るではないか。糸の切れるのを恐れた盗人は思わず“上ってくるな”と叫んだ。と同時に、蜘蛛の糸は切れて、彼はまた地獄にまっさかさまに堕ちていったというあの話である。アヌルッダ長老の場合は有徳の修行者を供養したことがその後の神々や大王、そして、シャカ一族への輪廻転生へと結びついた善行であった。たった一度の善行であっても、その功徳によって神々や大王に転生したのである。釈尊が常々教えられた「善」とはこういうことである。盗人は仏の慈悲(善意)に対して悪意を起したばっかりに再び地獄に堕ちた。どんな些細なことであっても、悪は悪、善は善なのである。話は簡単である。

仏教誕生(6)・・・戒

 それでは、善悪の基準はどこにあるのか。ダンマパダ(法句経)の第183詩はこう教えている。

すべて悪しきことを為さず、善いことを行い、
自己のこころを浄めること、
これが諸の仏の教えである。

 漢訳で「諸悪莫作 諸善奉行 自浄其意 是諸仏教」と伝わる一句である。しかし、悪が何で、善が何なのかが解っていなければ、この教えを実践することは難しい。そこを明らかにしたものが戒である。戒律ということばもあるが、戒が個人が自立的に守るべき戒めであるのに対し、律は教団規則である。従って、他律的であって、個人を強制し、違反に対しては罰則規定もある。戒は一言で言えば“善悪を量る物指し”である。比丘の二百五十戒、比丘尼の三百四十八戒と言われるが、これらは出家者の為のものである。この内、五戒は出家・在家に共通の戒である。釈尊は在家者の為にこう戒められたと経文は伝えている。

 次に、在家の者の行う務めを汝らに語ろう。このように実行する人は善い教えを聞く人(仏弟子)である。純然たる出家修行者に関する規定は、所有の煩いある人(在家人)がこれを達成するのは実に容易ではない。生きものを自ら殺してはならぬ。また、他人をして殺さしめてはならぬ。また、他の人々が殺害するのを容認してはならぬ。世の中の強豪な者どもでも、また、怯えている者どもでも、全てのいきものに対する暴力を抑えよ。次に、教えを聞く人は、与えられていないものは、何ものであっても、また、どこにあっても、知ってこれを取ることを避けよ。また、他人をして取らせることなく、他人が取り去るのを認めるな。何でもあたえられていないものを取ってはならぬ。

 物事の解った人は淫行を回避せよ。燃えさかる炭火の坑を回避するように。もし、不淫を修することが出来なければ、少なくとも、他人の妻を犯してはならぬ。会堂にいても、団体のうちにいても、何人も他人に向かって偽りを言ってはならぬ。また、他人をして偽りを言わせてはならぬ。また、他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。全て、虚偽を語ることを避けよ。また、飲酒を行ってはならぬ。この不飲酒の教えを喜ぶ在家者は、他人をして飲ませてもならぬ。他人が酒を飲むのを容認してはならぬ。これは終に人を狂酔せしめるものであると知って。けだし、諸々の愚者は酔いのために悪事を行い、また、他の人をして怠惰ならしめ、悪事を為させる。
それは愚人の愛好するところであるが、しかし、人を狂酔せしめ、迷わせるものである。

(1)生きものを害してならぬ。(2)与えられないものを取ってはならぬ。(3)嘘をついてはならぬ。(4)酒を飲んではならぬ。(5)淫事たる不浄の行いをやめよ。(6)夜に時ならぬ食事をしてはならぬ。(7)花飾りを着けてはならぬ。芳香を用いてはならぬ。(8)地上に床を敷いて臥すべし。これこそ、実に、八つの項目よりなるウポーサタ(斎戒)であるという。苦しみを終滅せしめるブッダが宣示したもうたものである。

 そうして、それぞれの半月の第八日、第十四日、第十五日にウポーサタを修せよ。八つの項目よりなる完全なウポーサタを清く澄んだ心で行え。また、特別の月においてもまた同じである。ウポーサタを行った物事の解った人は、次に、清く澄んだ心で喜びながら、翌朝早く食物と飲み物とを適宜に修行僧の集いに分かち与えよ。正しい法に従って得た財をもって母と父を養え。正しい商売を行え。務め励んでこのように怠ることなく暮らしている在家者は、死後に自ら光を放つという名の神々のもとに赴く。

(スッタニパータ 393 〜404)

 始めの五項目が五戒であることは明らかであろう。ウポーサタはバラモン教の習慣を仏教が取り入れたものである。ウポーサタの遵守事項として五戒以外に挙げられている三項目は見習いの出家者が守るべき条項の一部である。従って、ウポーサタの目的は日常生活の中に聖空間を作ることによって、出家生活を疑似体験し、正しいダルマ(教え)に近づこうとするものである。戒は基本的には禁止事項である。まず、不殺生戒である。訳文では“生きものを殺してはならぬ”とある。生きものの原語は“pana”であり、この語をジャイナ教でも生きものの意味に使用していることからすると、人間を含めての全ての生物を意味しているのであろう。ジャイナ教では不殺生戒を厳格に実践する。獣類、魚類、虫類に至るまで不殺生の対象とされた。特に、出家者の間では徹底した不殺生の実践者が尊崇された。在家の信徒は殺生を嫌って、主に、商業に従事した。

 このような極端なやり方は、仏教的に言えば、これは非中道である。確かに、全ての生きものへの不殺生は理想ではあるけれども、農民であれ、漁民であれ、猟師であれ、人間の日々の生活は何かの生きものの生命の犠牲に上に成り立っている。仏教は極端を廃する。出来ないことは、出来ない。出来ないことを追求するよりも、出来ることをせよ。釈尊はあくまでも正しい人倫の道を説かれたのである。これが中道ということである。だから、仏教の説く不殺生の対象は第一には人間である。ダンマパダ(法句経)でもこう説く。

 
すべての者は暴力に怯え、すべての者は死を怖れる。己が身を引き比べて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。すべての者は暴力に怯える。すべての生きものにとって生命は愛しい。己が身に引き比べて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ。

(ダンマパダ 129 〜130)

 ここでは、“己が身に引き比べて”とある。“己が身”とは“人間の身”である。犬の身でもなければ、猫の身でもない。“お前がその立場になったらどうするのだ”と釈尊は問うているのである。お前もまた暴力に怯え、死を怖れる存在なのだ。そこを自覚して、“殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ”と釈尊は教えておられるのである。

 さて、スッタニパータの“賎しい人”については前にも取り上げた。この教えをもう一度よく読んでみると、そこで釈尊の掲げられた“賎しい人”についての見解は五戒を軸に説かれていることが解る。このような人が賎しい人であるという。

 
一度生まれるもの(胎生)でも、二度生まれるもの(卵生)でも、この世で生きものを害し、生きものに対する憐れみのない人。村や町を破戒し、包囲し、圧制者として一般に知られる人。母・父・兄弟・姉妹あるいは義母を打ち、または、ことばで罵る人。

(スッタニパータ 117・118・125)

 この三項目は不殺生の戒めである。ここで“ことばで罵る”と言っているのは、ことばによる暴力のことである。ことばによる暴力についてはこうも教えられている。

 食事の時がきたのに、バラモンあるいは道の人をことばで罵り、食を与えない人。目覚めた人(ブッダ)を謗り、あるいは出家・在家のその弟子(仏弟子)を謗る人。

(スッタニパータ 130・134)

 不楡盗の戒めについてはこう説かれている。

 村にあっても、林にあっても、他人の所有物をば、与えられないのに盗み心をもって取る人。実に、僅かの物が欲しくて路行く人を殺害して、僅かの物を奪い取る人。

(スッタニパータ 119・121)

 不妄語の戒めについてはこう説かれている。

 怒りやすくて恨みをいだき、邪悪にして、見せかけで欺き、誤った見解を奉じ、たくらみのある人。実際には負債があるのに、返済するように督促されると、“あなたからの負債はない”と言って、言い逃れる人。証人として尋ねられた時に、自分の為、他人の為、また、財の為に、偽りを語る人。相手の利益となることを問われたのに、不利益を教え、隠し事をしている人。悪事を行っておきながら、“誰も私のことをしらないように”と望み、隠しごとをする人。バラモンまたは道の人、また、他のものを乞う人を嘘をついて騙す人。この世で迷妄に覆われ、僅かの物が欲しくて、事実でない事を語る人。人を悩まし、欲深く、悪いことを欲し、物惜しみをし、欺いて、徳がないのに敬われようと欲し、恥じ入る心のない人。実際は、尊敬さるべき人でないのに、尊敬さるべき人(聖者)と自称し、梵天を含む世界の盗賊である人。

(スッタニパータ 116・120・122・126・127・131・133・135)

 釈尊は特に嘘・偽り(虚言)を嫌ったようである。サーリプッタとモッガラーナに邪念があると言って非難して、地獄に堕ちたあの修行者コーカーリヤことが頭にあったのかもしれない。ここでは嘘・偽り(虚言)による賎しい行為を九項目も挙げている。不邪淫についてはこう説かれている。或いは暴力を用い、或いは相愛して、親族または友人の妻と交わる人。

(スッタニパータ 123)

 不邪淫については、同じ、スッタニパータの“破滅への門”おいて、こうも説かれている。

 おのが妻に満足せず、遊女に交わり、他人の妻に交わる。これは破滅への門である。

(スッタニパータ 108)

 不飲酒については、“賎しい人”の中では取り上げられていない。“破滅への門”の中でこう説かれている。

 女に溺れ、酒にひたり、賭博に耽り、得るに従って得たものをその度ごとに失う人がいる、これは破滅への門である。

(スッタニパータ 106)

 俗にいう“飲む・打つ・買う”ということである。二千五百年前も今日現在も人間 のやることは何も変わっていない。だから、釈尊のことばがそのまま我々の胸を打つのである。日本人にとって、酒は神のお下がりである。それは神の恩寵そのものなのである。だから、我々にとっては不飲酒の戒はなかなか納得できないのであるが、飲酒がその人の人生を破滅に導く大きな要因の一つになり得るという意味で、釈尊は飲酒を戒められたのではなかろうか。同じ段にこうも説かれている。

 酒肉に荒み、財を浪費する女、またはこのような男に、実権を託すならば、これは破滅への門である。

(スッタニパータ 112)

 行過ぎた飲酒は個人の人生を破滅されるばかりでなく、家庭(家族)をも崩壊させる。不倫(邪淫)もまた同じである。家族(家庭)は社会の基礎である。釈尊は社会の秩序の維持を重視された。この意味で、カースト(階級)制度も釈尊は容認された。釈尊は理想を語られたのではない。あくまでも、現実を語られたのだ。現実社会に生きる“生の人間”の救済を目指されたのだ。絵に描いた人間ではなく、切れば血の出る人間を相手とされたのである。ここの所は絶対に忘れてはない。

平成2963

仏家妙法十句

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